第66話 門を出た人の頁
雪は、三日、降って、やんだ。
焼け跡の柵の内側で、ロブとオットが、木の板で、雪を門の外へ押し出していた。
オットは、杖の代わりに、焼け残りの梁の切れ端を、脇に挟んでいた。
「おまえ、押してねえだろ」
「押してる。脚の分、口で押してる」
ロブが笑った。
炊事場の帆布の屋根には、雪が、薄く、残っていた。ピムが、竈の前で豆を鍋に空けていた。
ハルトは、門の横で、トマと、並んで立っていた。
吐く息が白かった。
右腕の借り物の盾に雪が少しついていた。左の指で払った。縁の最初の傷のところで指が止まった。
「……誰か、来る」
トマが言った。
白い道の先に、黒い点が、一つ、あった。
点は、ゆっくり大きくなった。
男だった。
雪に、膝まで、埋まりながら、歩いていた。
男は、門柱の前で立ち止まった。
肩で息をしていた。
「どこから来た」
トマが言った。
「……川下の村から」
ハルトは、男の顔を見た。
知っている顔だった。
秋の柵の戦いの朝。麦束を積んだ柵の内側で、鎌を握っていた男だった。
名前は、知らなかった。
「中に入ってください。マーサさんが、粥を」
「いい」
男は、首を振った。
「村長に、言われて、来た。……聞きに来た」
「聞きに?」
男は、少し黙った。
それから、言った。
「村の倉が破られた」
ハルトは、息を止めた。
秋に旗団が守った倉だった。
「二晩前だ。麦の袋を、七つ、持っていかれた。……誰も、怪我は、してねえ」
男は、手袋の指で、門柱の焦げ跡をこすった。
「暗かった。顔は、よく、見えなかった。でも、手首に」
男は、ハルトの右の手首を見た。
橙と、藍の布。
「それを巻いてた奴がいた」
トマが何も言わなかった。
ハルトも何も言えなかった。
「村長は、怒ってねえ」
男は、言った。
「冬は、長い。腹が減るのは、わかる。……でも、聞いてこい、って言われた」
男は、ハルトをまっすぐ見た。
「あれは、旗団か」
男を炊事場の竈の前に座らせた。
マーサが麦粥を押しつけた。男は、今度は、断らなかった。
男が粥をすすっている間に、ハルトは、もう一つ聞いた。
「何か、言ってましたか。その人たち」
男は、椀から、顔を上げた。
「一人だけ」
男は、思い出すように、目を細めた。
「袋を、担いで、出ていく時に、こっちを振り返って」
男は、言った。
「悪いな、って」
ハルトの背中が冷たくなった。
焼けた柵の陰。門柱の間で振り返った男。
困った顔をして、同じことを言った男。
(……あの人だ)
昼前に竈の前に人が集まった。
ノエラ。ベック。ヤン。ゴードン。担架のウルリク。毛布にくるまったリュネと、その横のユノ。
それから、少し離れた、竈の陰にカーラ。
ヤンは、朝のうちに、斥候に出ていた。外套の片方しかない袖に、雪が凍りついていた。
「村と、ここの、間の山です」
ヤンは、言った。
「古い、炭焼き小屋が三つ。そのうちの一つから、煙が出てました。……十人前後。もっと、いるかもしれない」
「旗団の者か」
ウルリクが言った。
「半分は」
ヤンは、少し言いよどんだ。
「顔が、見えたのは、二人だけです。一人は、ベックさんの組にいた人でした」
ベックが片方の目を細めた。
「……残りの半分は」
「靴が」
ヤンは、言った。
「帝国の兵の靴でした。三人か、四人」
竈の火が、ぱちりと、鳴った。
「脱走兵、かしらね」
竈の陰でカーラが言った。
誰もカーラのほうを見なかった。カーラは、気にしたふうもなく、指輪の手で火に手をかざしていた。
最初に口を開いたのは、ベックだった。
「門を出た奴らだ」
短い声だった。
「言ってから、出ていった。……なら、もううちの奴じゃない」
誰も、すぐには、何も言わなかった。
ベックは、続けた。
「村の倉を破った。秋に俺たちが守った倉だ。……あの村の柵で、死んだ奴もいる」
ハルトは、知っていた。
柵にもたれて、動かなくなった、ベックの組の古参兵。
あの時、ハルトは、その兵の名前を知らなかった。
ウルリクが、担架の上で身じろぎした。
「レオニスなら、迎えに行った」
ウルリクは、帆布の屋根を、見上げたまま、言った。
「盗んだ奴でも、背負って、帰ってきた。……で、あの人は、死んだ」
ウルリクの目がハルトに向いた。
「あんたは、どうする。盟主」
ハルトは、すぐには、答えなかった。
かわりにノエラを見た。
「ノエラさん」
「はい」
「門を出た人の、頁は、ありますか」
ノエラの炭筆を回す指が止まった。
それから、帳面を開いた。
ずいぶん、後ろの頁だった。
名前が並んでいた。
焼け跡に戻った最初の二晩と、その次の夜。門を出た、六十五人。
どの名前にも、線は、引かれていなかった。
一つだけ、名前の横に小さな丸がついていた。
ピム、と、書いてあった。
「線は、引いていません」
ノエラは、言った。
平らな声だった。
「……引けませんでした。死んだ人では、ないので」
ハルトは、頁を見た。
名前を、上から、読んだ。
知らない名前ばかりだった。
焼け跡の百六十七人は、全部、言える。でも、この頁の名前は、ほとんど顔と繋がらなかった。
覚えようとしたのは、残った人の名前だけだった。
(……出ていった人の名前は、覚えなかった)
それが、今になって、喉の奥に引っかかった。
「みんなに、聞きます」
ハルトは、言った。
竈の陰でカーラが小さく笑った。
ハルトは、構わなかった。
「ここにいる人だけじゃなくて。……全員に」
夕方の鍋の列で、ハルトは、話した。
川下の村の倉のこと。七つの麦の袋のこと。橙と藍の布のこと。炭焼き小屋の煙のこと。ベックが言ったことと、ウルリクが言ったこと。
隠さずに、全部、話した。
条件の三つ目だった。
鍋の列は、静かだった。
椀を持ったまま、誰も食べ始めなかった。
「……戻す、のか」
列の中ほどで誰かが言った。
「盗った奴を」
「わかりません」
ハルトは、言った。
「戻すかどうかは、まだ決めてません。……でも、顔を見に行きたい。行かないで決めるのは、いやです」
また、静かになった。
その時、鍋の向こうで匙を置く音がした。
ピムだった。
黒い木の匙を鍋の縁に置いていた。
「……俺も門を出ました」
ピムは、言った。
遠慮がちな、いつもの敬語だった。でも、声は、震えていなかった。
「最初の夜に。何も言わないで」
列の何人かがピムを見た。
「峠の向こうの、家まで歩きました。家は、焼けてて。鍋だけ、ありました」
ピムは、大きな、黒い鍋を見下ろした。
「……鍋が、なかったら」
ピムは、言った。
「俺も、今、あっちに、いたかもしれません」
誰も何も言わなかった。
ロブが、椀を、持ったまま、鼻をすすった。
トマが、門のほうから、一言だけ、言った。
「帰ってくる時は、言わなくていい」
それで、決まった。
翌朝、まだ暗いうちに、門の前に荷が積まれた。
麦の袋が七つ。
旗団の冬の分から、出した。ノエラが、数えて、決めた。
「七つ、出せば、冬の終わりに、十日分、足りなくなります」
ノエラは、言った。
「十日分は、私が、どこかから、数えて、持ってきます」
「どこから、ですか」
「これから、考えます」
ノエラは、炭筆を指で回した。
「数えて、決めたので」
行くのは、ハルトと、ヤン。ベックと、ベックの組から五人。ロブ。ユノと、リュネ。
ベックは、最後まで黙っていた。
黙ったまま、自分から荷を一つ背負った。
「……俺の組にいた奴だ」
ベックは、それだけ、言った。
ゴードンは、門柱の横に立っていた。
外套の内側で、小さな毛布を畳み直していた。
ハルトが、前を通ると、ゴードンは、手を止めた。
「行くのか」
「行きます」
ゴードンは、少し黙った。
それから、言った。
「顔を見せてこい」
ずっと前に、手紙に書いてあった言葉だった。
ハルトは、その手紙を覚えていない。
でも、言葉は、知っていた。
ベルナを発つ日にも、ゴードンの、ぶっきらぼうな声で聞いた。
「……はい」
ハルトは、頷いた。
カーラが、竈の陰から、手を振った。
「その話。私なら、高く売れたのに」
カーラは、言った。
「ただで、一つだけ、あげるわ。盾の坊や」
ハルトは、振り返った。
「帝国の靴を履いてる連中。……あれは、腹が減ってるだけの顔じゃ、ないわよ」
炭焼き小屋は、山の北の斜面にあった。
雪の中を、半日、歩いた。
麦の袋は、重かった。ロブが、三つ、背負った。
日が、傾き始めた頃、ヤンが手を上げた。
全員が止まった。
木々の間から、煙が見えた。
細い、灰色の煙だった。
ヤンが指で示した。
小屋の前に焚き火。その周りに人影。十と、少し。
ベックが低い声で言った。
「……あの、右の端。俺の組の奴だ」
ハルトは、その隣を見た。
焚き火の明かりの中に、男が、一人、立っていた。
背中に何も背負っていなかった。
手首に、色の褪せた、布。
ハルトは、その顔を知っていた。
名前は、知らなかった。
でも、顔は、知っていた。
焼けた門柱の間で、振り返って、困った顔をした男。
「誰の後ろに、並べばいいのか、わからねえんだ」と、言った男。
ハルトは、腰の剣の柄から、左手を離した。
「ヤンさん。ここに、いてください」
「盟主」
「顔を見せに来たので」
ハルトは、麦の袋を、一つだけ、背負い直した。
木の陰から、出た。
雪を踏む音がした。
焚き火の周りの人影が、一斉にこちらを向いた。
男の目が、ハルトの右腕の借り物の盾に止まった。
それから、顔に。
男の口が少しだけ開いた。
「……盾の」
その時、焚き火の向こう側で。
帝国の靴を履いた男が一人、ゆっくりと立ち上がった。
腰の刃に手をかけながら。
「へえ」
男は、言った。
「旗団の盟主様が、一人で。……いい値が、つきそうだな」




