第65話 最初の傷
朝の鍋の列に、ハルトは、並ばなかった。
鍋の横に立った。
ピムが、黒い匙で煮込みを注ぐ。マーサが、麦粥を注ぐ。
その横で、ハルトは、椀を受け取りに来る顔を一つずつ見た。
「おはよう、ロブ」
「おう」
「オット」
「……おう。今朝は、冷えるな」
「トマさん。門、代わります。食べてきてください」
「いい。もう少し、立ってる」
ハルトは、名前を呼んだ。
一人ずつ。
知らない顔は、もうなかった。
焼け跡に戻って、もうすぐ、ひと月になる。
その間に、ハルトは、ノエラの帳面を何度も借りた。
名前と、顔を合わせた。
合わせられない名前があると、鍋の列で探した。探して、話しかけた。
どこの村の人か。何を持って、ここに来たのか。
覚えた名前は、夜、寝る前に口の中で繰り返した。
(覚えとけ。……覚えてる奴が、少ないほうが、散るのは、早い)
ウルリクの言葉だった。
覚えている奴が、少しずつ増えていた。
門を出ていく者は、この半月、一人もいなかった。
昼前にノエラが帳面を持ってきた。
「確かめさせてください」
ノエラは、言った。
「戦える人の頁です。……全部、言えますか」
ハルトは、頷いた。
ノエラが、頁の上を炭筆で指していく。
ハルトは、名前を言った。
ロブ。オット。ベック。ヤン。トマ。ピム。ゴードンさん。ウルリクさん。
それから、ベックの組の古参の兵たち。川下の村から、残ると言った若い男たち。兵糧の荷を一人で担いでいた男。
一度だけ詰まった。
詰まって、目を閉じた。
鍋の列の後ろのほう。いつも椀を両手で持つ男。窪地の夜に、隣で、毛布の端を、黙って寄越してくれた男。
名前が、口から、出た。
ノエラの炭筆が止まった。
それから、また動いた。
最後の名前まで行った。
ノエラは、帳面を閉じなかった。
頁の端を指で押さえていた。
「百六十七」
ノエラは、言った。
「全部です」
ハルトは、息を吐いた。
少し離れた担架の上から、鼻を鳴らす音がした。
ウルリクだった。添え木の脚を、焼け残りの梁に乗せていた。
「……秋から、ひと月か」
ウルリクは、空を、見たまま、言った。
「あの人より、早いな」
ハルトは、何か、言おうとした。
「謝るなよ」
ウルリクが先に言った。
「褒めてるんだ。……盟主」
ハルトは、口を閉じた。
頷いた。
ノエラは、帳面の別の頁を開いた。
窪地で書いた頁だった。
「ハルト。右手」とだけ書かれて、その横が、空いている。
「まだ、わかりませんか」
ハルトは、首を横に振った。
「わかりません」
ノエラは、頷いた。
その空白に何も書き足さなかった。
かわりに、その下に、一行、書いた。
ハルトにも見えるように。
「名前。百六十七。全部」
「差し出したものの、欄ではありません」
ノエラは、言った。
「受け取ったものの欄です。……そういう欄も、あっていいと、思いました」
ノエラは、帳面を閉じた。
結び目のある右の剣を、肩に掛け直した。
昼過ぎに、門のほうでトマの声がした。
「どこから来た」
ハルトが行くと、薪を背負った、年寄りの男が、門柱の前に立っていた。
旗の布は、巻いていなかった。
「ベルナからだ。……峠を、越えて、北の村に薪を売りに行く」
男は、焼け跡の中を見回した。
「ここが噂の旗団か。……思ってたより、小さいな」
トマが、何か、言いかけた。
ハルトは、先に言った。
「小さいです。でも、全員の名前を知ってます」
男は、ハルトを見た。
右腕の借り物の盾を。
それから、少しだけ笑った。
「なら、いい」
マーサが、温かい麦粥を、一杯、持ってきた。
男は、門柱の陰に、腰を下ろして、すすった。
「ベルナは、どうですか」
ハルトは、聞いた。
男は、椀から、顔を上げた。
「どう、ってこともない。冬支度だ。評議会は、相変わらずだ」
男は、粥を、もう一口、すすった。
「ああ。……そういえば、あれが、あったな」
「あれ?」
「穀物蔵の焼け跡だ」
ハルトの左手が膝の上で止まった。
「剣を置いた、女の騎士がいてな。半年近く、ずっと一人で瓦礫を掘ってた。町の連中は、気でも違ったかって、笑ってたが」
男は、椀を両手で包んだ。
「その騎士が、地下の扉を開けたそうだ」
風が、焼け跡を通っていった。
「……中は」
ハルトの声がかすれた。
「中は、どうだったんですか」
男は、首を振った。
「そこまでは、知らん。俺が町を出たのは、その次の朝だ。……ただ、穀物蔵の前に、人が、ずいぶん、集まってたな」
ハルトは、何も言えなかった。
セラさん。
西門で、剣を布に包んで、「私は、残る。剣以外で」と言った人。
あの扉の前で半年近く。
三百人が、入っていた、扉。
ミアが、内側から、叩いていた、扉。
カインが、手を離した、扉。
男が、峠のほうへ去ったあと。
焼け跡の竈の陰で赤い髪が揺れた。
カーラが壁にもたれていた。
「聞いた?」
ハルトは、カーラを見た。
カーラは、指輪の指で髪の先を巻いていた。
「その扉の中の話。……私、知ってるわよ」
ハルトは、少しの間、黙っていた。
それから、言った。
「みんなに、聞きます」
カーラは、目を丸くした。
それから、声を出して、笑った。
「ほんとに、それしか、言わないのね。盾の坊や」
夕方、ハルトは、稽古場に立っていた。
右の前腕に借り物の盾。左手に自分の剣。
向かいに、ゴードンが棒を構えていた。
「来い」
ハルトは、受けた。
崩せなかった。
受けた。
崩せなかった。
三本目で、棒が、盾の縁を斜めに叩いた。
乾いた音がした。
ゴードンが棒を下ろした。
「……見てみろ」
ハルトは、右腕を上げた。
盾の縁に、傷が、一つ、ついていた。
浅い、斜めの傷。
倉の焼け跡から出てきた時、傷が一つもなかった盾。
ハルトは、その傷を左の指でなぞった。
「ついたな」
ゴードンが言った。
「最初の傷だ」
ゴードンは、棒を肩に担いだ。
それから、背中を向けて、言った。
「借り物でもな。傷がついたら、もう、半分は、おまえのもんだ」
その夜、雪が降り始めた。
最初の雪だった。
焼けた杭の頭に、炊事場の帆布の屋根に、レオニスの墓の旗の竿に、白いものが少しずつ積もった。
ハルトは、竈の前で座っていた。
隣にユノがいた。
ユノは、何も言わずに、ハルトの灰色の右手を、両手で包んでいた。
灰色の指は、何も感じなかった。
でも、肘の下の境目のあたりが、ほんの少しだけ、温かかった。
リュネが、毛布にくるまって、反対側に座っていた。手帳に、何か、書いていた。
「……今夜も温かい?」
リュネが、手帳から、目を上げずに、言った。
「ちょっとだけ」
「ふん」
リュネのペンがまた動いた。
竈の向こうで、ピムが、明日の豆を水に浸けていた。マーサとアガタが、並んで湯を飲んでいた。ゴードンは、膝の上で小さな毛布を畳んでいた。ネリは、盾の破片の包みを膝に乗せていた。ノエラは、帳面を開いていた。
ハルトは、一人ずつ、見た。
名前を、全部、知っていた。
カインは、ここにいない。
ミアもいない。
セラさんの扉の中のことも、まだ知らない。
それでも。
ハルトは、左手で、借り物の盾の最初の傷に触れた。
冷たかった。
ちゃんと、冷たかった。
雪は、朝まで、やまなかった。
(第三章 借り物の盾 了)




