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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第三章 借り物の盾

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第64話 片方のリボン

坂の上で、ゴードンが、薪を抱えたまま、待っていた。

「誰だ、あの女」

ハルトは、すぐには、答えられなかった。

カーラの背中は、もう焼け跡の奥へ消えていた。

「……情報屋です。冬をここで越すそうです」

「ベックの顔が、渋かったな」

ゴードンは、薪を抱え直した。

竈のほうへ歩き出した。

ハルトは、その背中を見ていた。

大きな背中だった。秋に、沢の道で、冠の女の子を肩に乗せて、尾根へ上がった背中。

(全部、見せる、って、言った)

自分で言った。

一番、見せにくい人から、見せなければ、意味がない。

「ゴードンさん」

ゴードンが振り向いた。

「話があります。……二人で」


砦の裏の小さな流れの前だった。

焼けなかった、水場。春に布を巻いた場所。

ゴードンは、薪を地面に置いた。

ハルトは、川霧の名残の冷たい空気を吸った。

それから、言った。

飾らずに。

「ミアが生きてます」

ゴードンの顔が動かなかった。

「帝国の東の砦の、将軍の館にいたそうです。カインと、同じ館に。……カインは、三日前に、館を出て、帝都に行きました。ミアは、館に残ったって」

ゴードンは、何も言わなかった。

流れの音だけがしていた。

「さっきの女の人が、最後に、俺にだけ、言いました。……栗色の髪を、二つに結んだ、女の子。赤いリボンが、片方だけ」

ゴードンの手が開いた。


「片方」

ゴードンが言った。

「……片方、だけか」

「はい」

「もう片方は」

「わかりません」

ゴードンは、自分の手を見ていた。

開いた、大きな手を。

「あいつは、リボンを、なくすと、泣くんだ」

ゴードンは、言った。

「四つの時に、川で、片方を流して、一晩じゅう、泣いた。マーサが、同じ赤の布を、市で探して、縫い直した。左のほうが少しだけ色が濃い。……右を結ぶ時に、いつも、ちょっとだけ、首を傾げる」

ハルトは、黙って聞いていた。

ゴードンの声は、詰まらなかった。

一度も詰まらなかった。

窪地で、ロブの名前に詰まった人と、同じ人の声とは、思えなかった。

(ミアのことは、全部、残ってる)

「ミアのことは、やらん」と、あの夜、ゴードンは、言った。

本当に、やらなかったのだと、ハルトは、思った。


ゴードンは、外套の前を開けた。

内側から、小さな毛布を出した。

花の刺繍の煤けた毛布。

太い指で角を揃えた。

畳み直した。

もう一度畳み直した。

「将軍の館、と言ったな」

「はい」

「あの、将軍か」

ハルトは、頷いた。

沢の出口で、ゴードンの古い盾を、ただの一振りで砕いた男。

その男の家にミアがいた。

ゴードンは、短く息を吐いた。

笑ったのか、どうか、わからなかった。

「……生きてる。なら、いい」

春に聞いた言葉だった。

ベルナの避難所で、マーサから、話を聞いた時の。

ゴードンは、毛布を胸に押し当てた。

「いや」

声が低くなった。

「よくは、ない」

ゴードンは、立ち上がった。


ハルトは、止めなかった。

止める言葉を持っていなかった。

盟主だから、止められる。そういうふうには、したくなかった。

「……行くなら」

ハルトは、言った。

「トマさんに、言ってから、行ってください」

ゴードンがハルトを見た。

長いこと、見ていた。

それから、首を横に振った。

「先にあいつに言う」

ゴードンは、薪を、拾わずに、歩いていった。

マーサのいる、竈のほうへ。


ハルトは、遠くから、見ていた。

竈の前で、マーサが、杓子を持ったまま、ゴードンの話を聞いていた。

杓子が、鍋の縁に、当たって、落ちた。

マーサは、拾わなかった。

両手で口を押さえた。

肩が震えていた。

泣いているのか、笑っているのか、ここからでは、わからなかった。

たぶん、両方だった。

ピムが、黙って、杓子を拾って、鍋をかき混ぜ始めた。

ゴードンは、マーサの前に立っていた。

マーサが、ゴードンの外套の胸を叩いた。

一度。二度。

それから、そこに額をつけた。


昼過ぎに、マーサが、杖をついて、ハルトのところへ来た。

目が赤かった。

でも、口元は、いつものマーサだった。

「ハルト」

「……はい」

「最初に、あの人に、言ってくれたんだってね。私じゃなくて」

ハルトは、うつむいた。

順番を、間違えたのかもしれない、と思った。

マーサは、杖を持っていないほうの手で、ハルトの頭を、ぽん、と叩いた。

「それで、よかったのよ。私に先に言ってたら、あの人、あんたにまで、強がらなきゃいけなかったもの」

マーサは、焼け跡の向こうの川のほうを見た。

「あの子、字がまだ下手なのよ。……迎えに行くまでに、少しは、上手になってるかしらね」

ハルトは、何も言えなかった。

「迎えに行きます」と、ベルナで、言ったのは、自分だった。

まだ行けていない。

マーサは、それを責めなかった。

「食べなさい。今日は、ピムの煮込みよ」

そう言って、竈のほうへ戻っていった。

杖の音が、いつもより、少しだけ軽かった。


日が、傾く頃まで、ゴードンは、門に来なかった。

ハルトは、門柱の横で、トマと並んで、立っていた。

トマは、何も聞かなかった。ただ、ハルトの隣にいた。

足音がした。

ゴードンだった。

背中に、荷は、なかった。

剣も盾も持っていなかった。

ゴードンは、門の前で止まった。

焦げた門柱を見上げた。

「……向こう岸は、帝国の土地だ」

ゴードンは、言った。

ハルトにではなく、門柱に言っているようだった。

「盾も持たない男が、川を渡って、将軍の館の戸を叩けば、どうなるか。……あいつに言われた。言われる前から、わかってた」

ゴードンは、手を、開いて、閉じた。

「今のミアは、帝国の一番安全な子供だ。誰も、取り返しに来ないうちは、な」

ハルトは、息を止めた。

「父親が、迎えに来たら。……あいつは、父親を呼ぶための札になる」

流れの音は、ここまでは、聞こえなかった。

焼け跡の乾いた風だけが吹いていた。

「マーサが言った。生きてるなら、待てる、と」

ゴードンは、門の外の暗くなり始めた道を見た。

「……俺は、待てん。だが待つ」


その夜の鍋の前で、ハルトは、全員に話した。

ゴードンが、そうしろと、言った。

「おまえが、全部、見せる、と言ったんだ。……俺の娘のことも見せろ」

鍋の湯気の向こうで、百六十と少しの顔が、ハルトを見ていた。

ミアのこと。ゴードンの娘だということ。将軍の館にいること。今は、誰も動かないこと。

「春になったら」

ハルトは、言った。

右の手首で、白い組み紐が揺れていた。

ミアが、結んでくれた紐だった。

「迎えに行きたいです。……その時に、みんなに、聞きます」

誰も、すぐには、何も言わなかった。

ウルリクが、担架の上で鼻を鳴らした。

「春までに百を割らんことだな。……迎えに行く手が、足りなくなる」

ロブが椀を上げた。

「子供を迎えに行くんだろ。……行くさ。俺の目は、片っぽ、残ってる」

ベックは、何も言わなかった。

ただ、椀を置かなかった。

ノエラが、帳面に何かを書いた。

ハルトにも、見えるように、帳面を少しだけ傾けた。

「春。ミア。……数に入れる」


夜更け、竈の残り火の前に、ゴードンが一人で座っていた。

膝の上で小さな毛布を畳んでいた。

ハルトは、少し離れて、腰を下ろした。

ゴードンは、ハルトを見なかった。

「……ハルト」

「はい」

「春に迎えに行く。……その時は、頼む。盟主」

ハルトは、左手を膝の上で握った。

「みんなに、聞きます」

ゴードンは、少しの間、黙っていた。

それから、喉の奥で短く笑った。

今度は、ちゃんと、笑ったのだと、わかった。

「それで、いい」

ゴードンは、毛布の角を揃えた。

赤いリボンの片方を、思い出しているような、指だった。

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