第64話 片方のリボン
坂の上で、ゴードンが、薪を抱えたまま、待っていた。
「誰だ、あの女」
ハルトは、すぐには、答えられなかった。
カーラの背中は、もう焼け跡の奥へ消えていた。
「……情報屋です。冬をここで越すそうです」
「ベックの顔が、渋かったな」
ゴードンは、薪を抱え直した。
竈のほうへ歩き出した。
ハルトは、その背中を見ていた。
大きな背中だった。秋に、沢の道で、冠の女の子を肩に乗せて、尾根へ上がった背中。
(全部、見せる、って、言った)
自分で言った。
一番、見せにくい人から、見せなければ、意味がない。
「ゴードンさん」
ゴードンが振り向いた。
「話があります。……二人で」
砦の裏の小さな流れの前だった。
焼けなかった、水場。春に布を巻いた場所。
ゴードンは、薪を地面に置いた。
ハルトは、川霧の名残の冷たい空気を吸った。
それから、言った。
飾らずに。
「ミアが生きてます」
ゴードンの顔が動かなかった。
「帝国の東の砦の、将軍の館にいたそうです。カインと、同じ館に。……カインは、三日前に、館を出て、帝都に行きました。ミアは、館に残ったって」
ゴードンは、何も言わなかった。
流れの音だけがしていた。
「さっきの女の人が、最後に、俺にだけ、言いました。……栗色の髪を、二つに結んだ、女の子。赤いリボンが、片方だけ」
ゴードンの手が開いた。
「片方」
ゴードンが言った。
「……片方、だけか」
「はい」
「もう片方は」
「わかりません」
ゴードンは、自分の手を見ていた。
開いた、大きな手を。
「あいつは、リボンを、なくすと、泣くんだ」
ゴードンは、言った。
「四つの時に、川で、片方を流して、一晩じゅう、泣いた。マーサが、同じ赤の布を、市で探して、縫い直した。左のほうが少しだけ色が濃い。……右を結ぶ時に、いつも、ちょっとだけ、首を傾げる」
ハルトは、黙って聞いていた。
ゴードンの声は、詰まらなかった。
一度も詰まらなかった。
窪地で、ロブの名前に詰まった人と、同じ人の声とは、思えなかった。
(ミアのことは、全部、残ってる)
「ミアのことは、やらん」と、あの夜、ゴードンは、言った。
本当に、やらなかったのだと、ハルトは、思った。
ゴードンは、外套の前を開けた。
内側から、小さな毛布を出した。
花の刺繍の煤けた毛布。
太い指で角を揃えた。
畳み直した。
もう一度畳み直した。
「将軍の館、と言ったな」
「はい」
「あの、将軍か」
ハルトは、頷いた。
沢の出口で、ゴードンの古い盾を、ただの一振りで砕いた男。
その男の家にミアがいた。
ゴードンは、短く息を吐いた。
笑ったのか、どうか、わからなかった。
「……生きてる。なら、いい」
春に聞いた言葉だった。
ベルナの避難所で、マーサから、話を聞いた時の。
ゴードンは、毛布を胸に押し当てた。
「いや」
声が低くなった。
「よくは、ない」
ゴードンは、立ち上がった。
ハルトは、止めなかった。
止める言葉を持っていなかった。
盟主だから、止められる。そういうふうには、したくなかった。
「……行くなら」
ハルトは、言った。
「トマさんに、言ってから、行ってください」
ゴードンがハルトを見た。
長いこと、見ていた。
それから、首を横に振った。
「先にあいつに言う」
ゴードンは、薪を、拾わずに、歩いていった。
マーサのいる、竈のほうへ。
ハルトは、遠くから、見ていた。
竈の前で、マーサが、杓子を持ったまま、ゴードンの話を聞いていた。
杓子が、鍋の縁に、当たって、落ちた。
マーサは、拾わなかった。
両手で口を押さえた。
肩が震えていた。
泣いているのか、笑っているのか、ここからでは、わからなかった。
たぶん、両方だった。
ピムが、黙って、杓子を拾って、鍋をかき混ぜ始めた。
ゴードンは、マーサの前に立っていた。
マーサが、ゴードンの外套の胸を叩いた。
一度。二度。
それから、そこに額をつけた。
昼過ぎに、マーサが、杖をついて、ハルトのところへ来た。
目が赤かった。
でも、口元は、いつものマーサだった。
「ハルト」
「……はい」
「最初に、あの人に、言ってくれたんだってね。私じゃなくて」
ハルトは、うつむいた。
順番を、間違えたのかもしれない、と思った。
マーサは、杖を持っていないほうの手で、ハルトの頭を、ぽん、と叩いた。
「それで、よかったのよ。私に先に言ってたら、あの人、あんたにまで、強がらなきゃいけなかったもの」
マーサは、焼け跡の向こうの川のほうを見た。
「あの子、字がまだ下手なのよ。……迎えに行くまでに、少しは、上手になってるかしらね」
ハルトは、何も言えなかった。
「迎えに行きます」と、ベルナで、言ったのは、自分だった。
まだ行けていない。
マーサは、それを責めなかった。
「食べなさい。今日は、ピムの煮込みよ」
そう言って、竈のほうへ戻っていった。
杖の音が、いつもより、少しだけ軽かった。
日が、傾く頃まで、ゴードンは、門に来なかった。
ハルトは、門柱の横で、トマと並んで、立っていた。
トマは、何も聞かなかった。ただ、ハルトの隣にいた。
足音がした。
ゴードンだった。
背中に、荷は、なかった。
剣も盾も持っていなかった。
ゴードンは、門の前で止まった。
焦げた門柱を見上げた。
「……向こう岸は、帝国の土地だ」
ゴードンは、言った。
ハルトにではなく、門柱に言っているようだった。
「盾も持たない男が、川を渡って、将軍の館の戸を叩けば、どうなるか。……あいつに言われた。言われる前から、わかってた」
ゴードンは、手を、開いて、閉じた。
「今のミアは、帝国の一番安全な子供だ。誰も、取り返しに来ないうちは、な」
ハルトは、息を止めた。
「父親が、迎えに来たら。……あいつは、父親を呼ぶための札になる」
流れの音は、ここまでは、聞こえなかった。
焼け跡の乾いた風だけが吹いていた。
「マーサが言った。生きてるなら、待てる、と」
ゴードンは、門の外の暗くなり始めた道を見た。
「……俺は、待てん。だが待つ」
その夜の鍋の前で、ハルトは、全員に話した。
ゴードンが、そうしろと、言った。
「おまえが、全部、見せる、と言ったんだ。……俺の娘のことも見せろ」
鍋の湯気の向こうで、百六十と少しの顔が、ハルトを見ていた。
ミアのこと。ゴードンの娘だということ。将軍の館にいること。今は、誰も動かないこと。
「春になったら」
ハルトは、言った。
右の手首で、白い組み紐が揺れていた。
ミアが、結んでくれた紐だった。
「迎えに行きたいです。……その時に、みんなに、聞きます」
誰も、すぐには、何も言わなかった。
ウルリクが、担架の上で鼻を鳴らした。
「春までに百を割らんことだな。……迎えに行く手が、足りなくなる」
ロブが椀を上げた。
「子供を迎えに行くんだろ。……行くさ。俺の目は、片っぽ、残ってる」
ベックは、何も言わなかった。
ただ、椀を置かなかった。
ノエラが、帳面に何かを書いた。
ハルトにも、見えるように、帳面を少しだけ傾けた。
「春。ミア。……数に入れる」
夜更け、竈の残り火の前に、ゴードンが一人で座っていた。
膝の上で小さな毛布を畳んでいた。
ハルトは、少し離れて、腰を下ろした。
ゴードンは、ハルトを見なかった。
「……ハルト」
「はい」
「春に迎えに行く。……その時は、頼む。盟主」
ハルトは、左手を膝の上で握った。
「みんなに、聞きます」
ゴードンは、少しの間、黙っていた。
それから、喉の奥で短く笑った。
今度は、ちゃんと、笑ったのだと、わかった。
「それで、いい」
ゴードンは、毛布の角を揃えた。
赤いリボンの片方を、思い出しているような、指だった。




