第63話 値段
女は、渡し場の壊れた舟小屋の陰で待っていた。
朝だった。
川霧が、まだ水の上に残っていた。
ハルトは、ヤンとノエラとベックと、渡し場まで下りた。
ウルリクは、来られなかった。担架の上で「会う前に、値段を聞け。会った後じゃ、遅い」とだけ、言った。
舟小屋の陰に、旅の外套の背中が見えた。
灰色の地味な外套だった。埃をかぶって、裾が擦り切れていた。荷は、小さな革の袋が、一つだけ。
女が振り向いた。
「あら」
女は、言った。
「本当に盟主さんが来てくれたの」
三十くらいに見えた。
深い赤の髪を、ゆるく編んで、左の肩から、前へ流していた。霧の中で、その色だけが、妙に、はっきりしていた。
右の目尻に小さな黒子があった。
女は、ハルトを上から下まで見た。
右腕の借り物の盾。左手の剣。背中のもう一本の剣。
それから、顔を。
「思ってたより、若いのね。……盾の坊や」
ハルトは、言葉に詰まった。
「……ハルトです」
「知ってるわ」
女は、笑った。
目尻の黒子が少しだけ上がった。
「名前を知ってるから、ここに来たの。私は、カーラ。……情報を売ってるわ」
カーラは、舟小屋の崩れかけた縁に腰を下ろした。
外套の前が少しだけ開いた。
その下に色があった。
灰色の外套の内側に、南の国の布が、何枚も重なっていた。夕焼けみたいな橙。海みたいな青。金の糸の細い縁取り。
地味な外套を一枚脱げば、別の人間になる。
ハルトは、そう思った。
カーラの左手に、指輪が、三つ、あった。
右手には、一つもなかった。
「旗団の目は、半分、潰れたでしょう」
カーラは、言った。
ヤンの肩が少しだけ動いた。
「秋の戦で斥候が何人も死んだ。残ったのは、その片袖の坊やと、あと何人か。……川の向こうで、帝国が何をしているのか、今の旗団には、見えない」
カーラは、ハルトを見た。
「私には、見えるわ」
「値段は」
ノエラが言った。
帳面を胸に抱えていた。
カーラの目がノエラに動いた。
ほんの少しだけ、細くなった。
「あなたが噂の軍師さん」
「値段を聞いています」
「せっかちね」
カーラは、革の袋の口を指でつまんだ。
「お金は、持ってないでしょう。旗団は。……知ってるわ」
「なら」
「鉄」
カーラは、言った。
「焼け跡に、鉄の延べ棒が、三百本近く、残ってるでしょう。帝国の荷車から、奪ったやつ」
ベックの片目が鋭くなった。
「どこで聞いた」
「売り物の出どころは、売らないわ」
カーラは、指を、三本、立てた。
左手の指輪のある指だった。
「三十本。……それで、今、帝国で一番大事な噂を、三つ、売ってあげる」
ハルトは、振り返った。
ノエラを。ベックを。ヤンを。
「……三十本」
ハルトは、言った。
「みんなに、聞きます」
カーラの眉が上がった。
「みんなに?」
「一人では、決めないので」
カーラは、しばらくハルトを見ていた。
それから、声を出して、笑った。
霧の中にその声が高く響いた。
「盟主が、値段をみんなに聞くの。……面白い」
カーラは、膝の上で頬杖をついた。
「いいわ。待ってあげる。……ただし、日が、霧の上に出るまで」
ノエラが帳面を開いた。
炭筆を走らせた。
「延べ棒は、二百八十七本。ネリが、盾と、鎌と、釘を打つ分を、先に取り分けます。……三十本なら、出せます」
「鉄は、帝国が欲しがってるもんだ」
ベックが言った。
「この女が、帝国に、流さないって、誰が言える」
「言えません」
ノエラは、言った。
「でも、今の私たちには、川の向こうが見えません。見えないまま冬を越せば、春にまた正面が割れます」
ノエラは、帳面を閉じた。
「見えないものは、数えられません。……私は、買うほうに、数えます」
ヤンが言った。
「……買って、ください。俺の目だけじゃ、足りない。秋に、それが、わかりました」
ベックは、しばらく黙っていた。
それから、舌打ちをした。
「……乗る。ただし、この女から、目は、離さん」
ハルトは、カーラのほうを向いた。
「三十本。払います」
霧の上に、日が、少しだけ覗いていた。
カーラは、指輪の指で、髪の先をくるりと巻いた。
「間に合ったわね」
「一つ目」
カーラは、言った。
「将軍ガルドは、来月、帝国の軍の名簿から、消えるわ。戦死として」
ハルトは、息を止めた。
「見つかったのか」
「いいえ。見つかってない。だから、消すの。……帝都の改革派にとって、生きてるかもしれない将軍は、邪魔なのよ。死んでくれたほうが、都合がいい」
カーラは、指を、一本、折った。
「二つ目。帝都の工房が、煙突を増やしてる。鉄が足りない。北の鉄の荷車を、あなたたちが、奪ったから。……工房は、春までに、鉄を取り返したがってる。どこからでも」
ノエラの炭筆が止まった。
「どこからでも」
「この焼け跡からでも、ね」
カーラは、二本目の指を折った。
それから、三本目の指を、立てたまま、ハルトを見た。
少しだけ間を置いた。
「三つ目」
カーラの声が、少しだけ低くなった。
「金色の目の若者」
ハルトの背中で、レオニスの剣の鞘が鳴った。
自分が、動いたのだと、少ししてから、わかった。
「将軍が、北の街道で拾って、ずっと、自分の館に、置いてた若者がいるの。銀灰色の髪。右の腕が、肘まで灰色。……金色の光を出す、って噂の」
ハルトは、何も言えなかった。
カイン。
ずっと将軍の館に。
捕虜交換の日。浅瀬に降りてきたガルドは、ハルトの灰色の右手を見て、言った。
……そうか。
あの時、ガルドは、知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
「将軍がいなくなって、その若者は、守る人をなくした」
カーラは、言った。
「三日前に館を出たわ。帝都の、銀の鎖の連中と、一緒に。……行き先は、工房」
工房。
ハルトは、その言葉を知っていた。
夏に、牢から戻らなかった男たちの話。銀の鎖の男たちが、罪人を連れていく場所。
連れていかれて、戻らない場所。
「……連れていかれた、のか」
声がかすれた。
カーラは、首を振った。
「それが変なのよ」
カーラの目が霧の向こうを見た。
「鎖は、つけられてなかった。手にも足にも。……その若者は、自分で、馬に乗って、行ったの」
霧が晴れ始めていた。
川の向こう岸が見えた。
帝国の側の岸が。
ハルトは、それを見ていた。
自分で。
カインが自分で行った。
一人で決めて。
(また、一人で)
ベルナの、穀物蔵の日と、同じだった。
あの日も、カインは、一人で決めて、一人で行った。
ハルトの左手が、剣の柄を握っていた。
右手は、盾の帯の下で開いたままだった。
握りたかった。
両手で何かを握りたかった。
握れなかった。
「……ありがとうございました」
ハルトは、やっと言った。
カーラは、少しだけ目を丸くした。
「お礼を言われるとは、思わなかったわ。悪い知らせばかり、売ったのに」
「知らないより、いいです」
カーラは、ハルトを見ていた。
さっきまでとは、少し違う目だった。
それから、立ち上がった。
外套の前を合わせた。南の国の色が、また灰色の下に隠れた。
「この冬は、焼け跡で越させてもらうわ」
ベックが顔をしかめた。
「誰が許した」
「三十本のおつりよ」
カーラは、笑った。
「それに、私は、売り物を、一度に、全部は、売らないの」
カーラは、ハルトの横を通り過ぎようとして。
立ち止まった。
ハルトの耳元に顔を寄せた。
髪から、知らない香の匂いがした。
「その若者と、同じ館に、子供が、一人、いたわ」
ハルトの体が固まった。
「栗色の髪を、二つに結んだ、女の子。赤いリボンが、片方だけ」
カーラは、顔を離した。
目尻の黒子が、少しだけ上がっていた。
「その子は、館に残ったそうよ。……続きは、別の値段」
カーラは、焼け跡への坂を上がっていった。
灰色の外套の背中が、霧の残りの中に溶けていった。
ハルトは、動けなかった。
ミア。
生きている。
将軍の館に。
坂の上を見た。
焼け跡の門の前に、大きな背中が立っていた。
薪を抱えていた。
ゴードンだった。
ゴードンは、坂を上がってくる、赤い髪の女を見ていた。
まだ何も知らない顔で。




