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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第三章 借り物の盾

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第62話 同じ鍋の味

朝、焼け跡に霜が降りていた。

黒い杭の頭が白くなっていた。

ハルトは、竈の前で手に息を吹きかけた。

左手だけ。右手は、息を吹きかけても、何も変わらなかった。


竈には、もう屋根があった。

焼け残りの梁を四本立てて、帆布を張っただけの屋根だった。ベックの組が、二日かけて、立てた。

竈も、一つ、増えていた。ネリが、焼け跡の石を組み直したのだった。

「炉は、まだだめ。鞴(ふいご)がないから」

ネリは、煤けた手を、外套で拭きながら、言った。

「でも、竈くらいなら、石を積めば、できる。……火が、ちゃんと、真ん中に集まるように積んだ。たぶん」

マーサが、新しい竈に鍋をかけた。

火がついた。

煙がまっすぐ上がった。

「……ほんとだ。煙が逃げない」

マーサが言った。

ネリは、少しだけ得意そうな顔をした。


昼前に、門のほうが、少し騒がしくなった。

ハルトは、竈の薪を運んでいた手を止めた。

トマの声が聞こえた。

「……いい。言わなくていい」

ハルトは、門へ歩いていった。

焦げた門柱の間に、男が一人、立っていた。

若かった。二十歳くらい。

丸い顔だった。頬が、寒さで赤くなっていた。背が低く、横に広かった。

背中に、大きな、黒い鉄の鍋を背負っていた。

鍋の底に、煤が、こびりついていた。

ハルトは、その顔を知っていた。

窪地の夜に、鍋の列で、二つ前に並んでいた顔だった。

それから、焼け跡に戻った最初の夜に、門を出ていった顔だった。

男は、ハルトを見て、口を開けた。

何か、言おうとした。

トマが男の肩を叩いた。

「言わなくていい、って、言ったろう。……盟主がそう決めたんだ」

男の口が閉じた。

男は、ハルトを見た。

ハルトは、何も聞かなかった。

聞かないで、門柱の横に少しだけずれた。

道を空けた。

男は、鍋を背負い直した。

門をくぐった。


男は、まっすぐ竈のほうへ歩いていった。

誰にも何も言わなかった。

マーサの鍋の横に、自分の鍋を下ろした。

鍋の中から、布の包みをいくつも出した。

干した豆。干した茸。塩漬けの肉が、ほんの少し。乾いた香草の束。

それから、木の匙を一本。

柄が、真っ黒に、なるまで使い込んだ匙だった。

マーサが男を見た。

男もマーサを見た。

マーサは、何も聞かずに、自分の鍋の横を空けた。

男は、ネリの組んだ、新しい竈に自分の鍋をかけた。


その日の昼の鍋は、二つになった。

マーサの麦粥と、男の豆と茸の煮込み。

匂いが、焼け跡じゅうに広がった。

並んだ列が、いつもより、長かった。

焼け跡のあちこちで、横になっていた者まで、起き上がって、並んでいた。

ハルトも並んだ。

椀を左手で受け取った。

男が、黒い匙で煮込みを注いだ。

一口、すすった。

熱かった。

豆が柔らかかった。茸の土の匂いがした。塩漬けの肉は、ほんの少しなのに、全部に味が染みていた。香草が最後に鼻に抜けた。

ハルトは、椀を、持ったまま、止まった。

味が、した。

全部、した。

窪地の朝の麦粥もうまかった。

あの時は、うまいことが苦しかった。

今は、苦しくなかった。

ただ、うまかった。

「……うまい」

声に出ていた。

男がハルトを見た。

丸い顔が少しだけ崩れた。


「塩が、ちょっと、多い」

リュネが言った。

アガタの天幕の前で、毛布にくるまったまま、椀を両手で抱えていた。

「理論的には、体の冷えた人間は、塩を欲しがるから、正しいんだけど。……でも、多い」

「二杯目を、もらいに行こうとしてる人の、台詞じゃないわね」

ユノが言った。

リュネは、椀を隠した。

「研究のためよ」

「それ、やめるって、言ってなかった?」

「……これは、別」

ユノが笑った。

リュネも、少しだけ口の端を動かした。


ロブが、三杯目をもらいに行った。

男が注いだ。

ロブが、四杯目をもらいに行った。

男が、自分の椀にも注いだ。

二人で並んですすった。

五杯目でロブが椀を置いた。

男は、六杯目をすすっていた。

「……負けた」

ロブが言った。

「おまえ、どこに、入るんだ、それ」

男は、答えずに、七杯目を注いだ。

周りで何人かが笑った。

ウルリクが、担架の上で鼻を鳴らした。

「鍋が、空になるぞ。……おい、盟主。こいつを炊事に回せ。鍋を守らせるか、鍋から遠ざけるか、どっちかだ」

「……一人で、決めちゃ、いけないので」

ハルトは、言った。

ウルリクが天を仰いだ。

「なら、全員に聞け。今すぐ」

ハルトは、焼け跡を見渡した。

椀を持った、全員を。

「……この人に、炊事を、頼んでも、いいですか」

返事は、なかった。

かわりに、椀が一つ、また一つ、男のほうへ差し出された。

おかわりの椀だった。

それで、決まった。


夕方、ハルトは、竈の前で男の隣にしゃがんだ。

男は、黒い匙で鍋の底をこそげていた。

「あの」

ハルトは、言った。

男の手が止まった。

「名前を教えてください」

男は、ハルトを見た。

「……聞かないのかと、思ってました」

「聞きます。なんで、帰ってきたのかは、聞かないけど」

男は、少しの間、鍋の底を見ていた。

「ピムです」

男は、言った。

「……村は、峠の向こうでした。親父が、街道沿いで、小さい食堂をやってて」

ピムは、黒い匙を指で回した。

「帰ったら、なかったです。食堂も村も。……帝国が、秋の戦の帰りに、通ったんだと思います」

ハルトは、何も言わなかった。

言えなかった。

「この鍋だけ、灰の中に残ってました。鉄だから」

ピムは、鍋の縁を、匙で、こん、と叩いた。

「匙は、俺が、ずっと持ってたやつです。……親父の匙は、見つからなかった」

ピムは、また鍋の底をこそげ始めた。

「どこへ行けばいいか、わからなくて。……で、ここの門のこと、思い出したんです。言ってから行け、って。言ったから、帰ってきちゃ、いけないのかな、って、思いながら、歩いてきたら」

ピムの手が止まった。

「門の人が、言わなくていい、って」

ピムの丸い顔が、また少しだけ崩れた。

今度は、崩れたまま、しばらく戻らなかった。

ハルトは、竈の火を見ていた。

ピムが、顔を袖で拭うまで。


「ハル」

ユノが隣にしゃがんだ。

手に、パンを、一つ、持っていた。

ピムが、竈の端で焼いた、平たいパンだった。焦げ目がついていた。

ユノは、それを二つに割った。

半分をハルトに差し出した。

ハルトは、左手で受け取った。

温かかった。

焦げ目の苦い匂いがした。

一口、かじった。

小麦の甘さがした。

「……うまい」

「でしょ」

ユノが言った。

自分の半分をかじった。

それから、残りをさらに半分に割った。

ピムに差し出した。

「作った人の分」

ピムは、目を丸くした。

それから、受け取った。

ハルトは、それを見ていた。

半分こ。

ソーヌ村の頃から、ずっとユノがしてきたこと。

カインと、ハルトと、ユノで。

今は、カインがいない。

それでも、半分こは、続いていた。

ハルトは、パンを、もう一口、かじった。

ちゃんと、甘かった。


日が、暮れかけた頃。

ヤンが、川のほうから、走って、戻ってきた。

片袖のない外套が、風に、ばたついていた。

「盟主」

ヤンは、竈の前で膝に手をついた。

息が上がっていた。

「川の渡し場に。……女が、一人、来てます」

「女?」

「旅の商人の格好で。でも、荷が、ほとんど、ない」

ヤンは、顔を上げた。

「盟主に、会わせろ、って。……売りたいものが、ある、って」

「何を」

ヤンは、少し言いにくそうに言った。

「帝国の噂を。……それと」

ヤンは、ハルトを見た。

「金色の目の若者の居場所を」

ハルトの手の中で、パンの最後のひとかけが止まった。

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