第61話 百四十一
--- ゼノビア視点 ---
帝都の煙突は、九本になっていた。
ゼノビアは、宿の窓から、それを数えた。
夏の初めに七本だった。秋の終わりに九本。
二本増えるのに、半年かからなかった。
宿の向かいの軒下に、男が二人、立っていた。
朝から、ずっと、そこにいた。
昼に一度、入れ替わった。入れ替わった二人も、同じように、こちらの窓を見ないふりをして、見ていた。
胸元に鎖はなかった。鎖を下げていない者を使うのは、見張っていると思われたくない時の、改革派のやり方だった。
ゼノビアは、窓から離れた。
参謀の任は、帝都に着いた日に解かれた。
解いた文書には、理由が書いていなかった。
待命。
それだけだった。
将軍の軍は、副将の預かりになった。副将は、銀の鎖を下げていた。
将軍派の残党。
それが、今のゼノビアの、帳簿に載らない肩書きだった。
卓の上に帳簿を開いた。
秋の戦の頁。
自分の策が、どこで崩れたのかを、ゼノビアは、もう百回は数え直していた。
対岸の天幕、四百七十。
渡河は、二手。
別働隊、三百。川下の村を突き、反乱軍の一隊をそこに縛る。村を見捨てない相手だと読んでいた。読みどおりだった。
本隊は、渡し場から。将軍が、自ら、舟の先頭に立った。正面は、半日で割れた。
そこまでは、策のとおりだった。
崩れたのは、その後だった。
割れた正面の兵が散らなかった。
散って逃げるはずの兵が、涸れた沢を、北へまとまって上がった。誰かが、前もって、その道を引いていた。
村に縛ったはずの一隊も、村人ごと、北の尾根へ上がった。
逃げ道を引いた者がいた。
ゼノビアは、その頁を指で押さえた。
それが誰なのかは、わかっていた。
昼過ぎに、副将の軍から、写しが一通、届いた。
届けたのは、将軍の軍の古い書記だった。帳簿の写しを、袖の中に隠して持ってきた。
「……参謀殿に、見ていただくべきかと」
それだけ言って、書記は、帰っていった。
見張りの男たちが、書記の背中を目で追っていた。
ゼノビアは、写しを開いた。
戦の後の斥候の報告だった。
反乱軍の砦、焼却済み。
反乱軍の残兵、北の丘陵から砦の焼け跡へ移動。推定、二百前後。以後、減少の傾向。
川下の村。住民、帰村を確認。
その下に、数字が、一つ、あった。
百四十一。
戦の前に、村の戸籍から数えた住民の数と、同じだった。
一人も欠けていなかった。
ゼノビアは、その数字を、長いこと、見ていた。
別働隊の三百は、村を落とすための兵ではなかった。
村に、反乱軍の一隊を縛るための兵だった。
縛られた一隊は、村を見捨てない。だから、動けない。動けないまま、正面が割れるのを待つしかない。
ゼノビアは、そう数えた。
兵の数で数えた。
向こうの軍師は、違うものを数えていた。
村人の数を。
百四十一を、一人も欠かさずに、尾根へ上げる道を。
正面が割れる前に引いていた。
ゼノビアは、自分の帳簿の別の頁を開いた。
夏の初めに、名前を一つだけ書いた頁。
ノエラ。
その下は、ずっと白いままだった。
何を書けばいいのか、わからなかった。
今は、わかった。
ゼノビアは、ペンを取った。
百四十一。
それだけを書いた。
兵の数ではない、数字だった。
墓場の数字でもない。自分で測った、生きている数字だった。
ゼノビアは、ペンを置いた。
手袋の指先が、少しだけ震えていた。
負けた、と思った。
策で負けたのではなかった。
何を数えるかで負けていた。
夕刻、ハインツが宿に来た。
見張りの男たちは、ハインツに黙って道を空けた。
ハインツは、扉を叩かずに、入ってきた。
色の薄い金髪。黒の上着。胸元の銀の鎖。インクの染み一つない指。
「元気そうで何よりだ」
「見張りを二人もつけておいて」
「四人だよ。裏口にも二人」
ハインツは、口元だけで笑った。
「君は、数え間違えない人だと思っていたけれど」
ゼノビアは、答えなかった。
ハインツは、卓の上の帳簿に目を落とした。
開いたままの頁。
ノエラ。百四十一。
ハインツの目が、ほんの少しだけ、止まった。
それから、何も言わずに、窓のほうへ歩いていった。
「将軍のことは、残念だった」
ハインツは、窓の外を見たまま、言った。
「捜索は、今月で打ち切られる。……来月には、戦死として、軍の名簿から消える」
「遺体は、見つかっていないわ」
「名簿は、遺体を必要としない」
ハインツは、振り返った。
「手放す順番を選べなかったね。将軍は」
ゼノビアの手が、帳簿の背を押さえた。
夏の初めに、回廊で、この男は、同じことを言った。
全部を一人で守ろうとする人は、いずれ、どれかを手放すことになる。
将軍は、何も手放さなかった。
手放さないまま、自分ごと、消えた。
「見せたいものがある」
ハインツは、言った。
「窓の外だ。……もうすぐ、着く」
ゼノビアは、窓辺に立った。
宿の窓から、北の工匠街が見えた。九本の煙突。その下の工房の門。
通りを、馬が、四頭、来た。
先頭の三頭に乗っているのは、黒い外套の男たちだった。胸元に細い銀の鎖。
四頭目に若者が乗っていた。
銀灰色の髪。
右の腕が肘まで灰色だった。
鎖は、なかった。
手にも足にも。
若者は、自分で馬を降りた。
工房の門の前に立った。
門を見上げた。
ほんの少しの間。
それから、誰にも押されずに、門をくぐった。
ゼノビアは、数えた。
一人。
鎖なし。
自分の足で。
「……北の街道の」
声が勝手に出た。
夏の初めに、将軍の館で、左手で握手をした若者だった。
帳簿の端に描いた馬の絵を、ミアという子供の向かいで、黙って見ていた若者だった。
あなたのお友達のいる軍を、私が数えることになります。
そう言ったのは、自分だった。
数えたら、覚えておきます。
その軍は、百四十一を数えて、生き延びた。
将軍は、消えた。
若者は、今、自分の足で工房に入った。
「彼は、取引をしたそうだ」
ハインツが、ゼノビアの隣で言った。
「自分から扉をくぐる。その代わり、将軍の館の子供には、手を出さない。……優しいね」
ハインツの声は、少しも優しくなかった。
「優しい人間ほど、工房では、よく燃える」
ゼノビアは、窓から、目を離さなかった。
門は、もう閉じていた。
「それで」
ゼノビアは、言った。
「私に何をさせたいの」
ハインツは、少しだけ眉を上げた。
「察しがいい」
「あなたが、見せたいものを見せる時は、いつもその後に頼みごとがある」
ハインツは、笑った。
今度は、目も少しだけ笑っていた。
「彼の帳簿をつける人間が、要るんだ」
ハインツは、言った。
「何を食べたか。何を食べなかったか。どれだけ眠ったか。灰色がどこまで来たか。……工房の連中は、数字に弱い。数字の前ですぐに熱くなる」
ハインツは、ゼノビアを見た。
「君なら、数え間違えない。それに、彼は、君の顔を知っている」
ゼノビアは、答えなかった。
断れないことは、わかっていた。
軒下の四人。待命の文書。名簿から消える将軍。
断れば、次に名簿から消えるのは、誰か。
「……考える時間は」
「明日の朝まで」
ハインツは、扉のほうへ歩いていった。
「おやすみ、ゼノビア」
扉が閉まった。
その夜、ゼノビアは、帳簿の新しい頁を開いた。
白い頁だった。
一番上に、名前を書こうとして、手が止まった。
あの若者の名前。
夏の初めに、館の中庭で一度だけ聞いた名前。
ゼノビアは、それを書いた。
カイン。
その下に日付を書いた。
その下は、まだ白かった。
ゼノビアは、ペンを置かずに、長いこと、その白い場所を見ていた。
隣の頁には、ノエラの名前があった。
その下に百四十一。
自分で測った、生きている数字。
ゼノビアは、思った。
この頁に何を数えるのか。
それを決めるのは、ハインツではない。
工房でもない。
自分だ。
窓の外で、九本の煙突が、夜の空に、灰色の煙を吐き続けていた。




