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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第三章 借り物の盾

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第60話 借り物の盾

薬師の天幕は、焼け跡の一番奥に張り直されていた。

焼け残った帆布を、三枚、継ぎ合わせた天幕だった。

中は、薬草と、湯の匂いがした。

春に、オットに粥を届けに来た時と、同じ匂いだった。


「座りな」

小さな婆さまが言った。

ハルトは、寝台の端に座った。

婆さまは、ハルトの胸くらいまでしか、背がなかった。腰が少し曲がっていた。白い髪を、色の褪せた頭巾でまとめていた。

皺だらけの手が、ハルトの右腕を持ち上げた。

袖を肘の上までまくった。

灰色が出てきた。

指の先から、手首を越えて、肘のすぐ下まで。

婆さまは、しばらく黙ってそれを見ていた。

「……ふん」

婆さまは、言った。

「春に見た時は、手首の上で止まっとったがの」

ハルトは、婆さまを見た。

「春に見たんですか」

「見たとも。あんたが、旗の布を、歯で結んどった朝にの。……天幕の前を、通っとったじゃろう」

ハルトは、覚えていなかった。

この天幕の前を何度も通った。中に何度も入った。

この人の顔を、何度も見たはずだった。

(名前を)

知らなかった。

一度も聞かなかった。

「……あの」

ハルトは、言った。

「名前を聞いてもいいですか」

婆さまの手が止まった。

それから、皺の奥の目が、少しだけ細くなった。

「アガタじゃ」

婆さまは、言った。

「春から、何べんも、あんたの前を通ったがの。……盟主になって、最初に聞くのがそれかい」

「すみません」

「謝らんでええ。ウルリクの坊主にも、言われたんじゃろ」

アガタは、またハルトの腕を見た。

「覚えとき。わしも、あんたの名前は、覚えとる」


アガタは、細い針を取り出した。

灰色の手の甲を、ちくりと、突いた。

何も感じなかった。

指の付け根。手首。肘の下。

何も。

肘の上を突いた。

痛かった。

ハルトは、思わず、肩を引いた。

「そこから上は、生きとる」

アガタは、言った。

「そこから下は、……死んどるわけでも、ないの。血は、通っとる。冷たいが腐ってはおらん」

アガタは、針をしまった。

「わしの薬では、治らん。これは、傷じゃない。傷なら、縫える。膿なら、出せる」

アガタは、灰色の指を、自分の手のひらに乗せた。

「これは、払ったもんじゃ。……払ったもんは、薬では、戻らん」


天幕の入口で誰かが咳払いをした。

リュネだった。

毛布を肩に掛けたまま。左の手首に、橙と藍の小さくて固い結び目。

手帳を胸に抱えていた。

「婆さま。それ、私の仕事」

アガタが振り返った。

「嬢ちゃん。起きてええと、誰が言うた」

「私が決めた」

「ふん。……なら、湯を沸かしな。三つの鍋、全部じゃ」

「なんで、私が」

「わしが決めた」

リュネは、口を、開けて、閉じた。

それから、黙って湯を沸かしに行った。

ハルトは、少しだけ笑いそうになった。


湯が沸くと、リュネは、ハルトの前に座った。

手帳を開いた。

最初に開いた頁は、ハルトの頁では、なかった。

細かい字が、びっしり、並んでいた。

頬部裂傷。約十時間で完治。

石化。戻る。毎回。

その頁の一番下に名前があった。

リュネのペンが、その名前の上で一度だけ止まった。

それから、リュネは、頁をめくった。

白い頁を開いた。

一番上に書いた。

ハルト。右手。

「……全部、見せるって、言ったわよね」

「言った」

「なら、見せて」

リュネは、ハルトの灰色の指に、自分の指を当てた。

冷たかった。

リュネの指のほうが、まだ冷たかった。体温が、戻りきっていなかった。

「理論的には」

リュネは、言った。

「代償は、分ければ、軽くなる。私の水もそうだった。三回目を、あんたに預けた分、私の体温は、ちゃんと、戻ってきてる。遅いけど、戻る」

リュネは、灰色を指でなぞった。

「でも、あんたのは、増えた。……あんたは、みんなの分を受け取った。受け取ったものは、どこかに、置かなきゃいけない」

「どこに」

「わからない。わからないから、調べるの」

リュネは、手帳に何かを書きつけた。

「灰色は、あんたが持ちすぎた分が、溜まった形かもしれない。だったら、減らす方法もあるはず。……理論的には」

リュネのペンが止まった。

「理論的にはって、言えるところまで持っていく。それが、主任の最初の仕事」

ハルトは、何も言えなかった。

言えないかわりに頷いた。

アガタが、鍋の湯を木の椀にすくった。

「理屈は、嬢ちゃんに任せる。わしは、温めることしか、できん」

アガタは、湯で温めた布を、ハルトの灰色の腕に巻いた。

温かさは、肘の上まで、しか、届かなかった。

それでも、肘の上は、温かかった。


昼過ぎに、ゴードンが天幕に顔を出した。

手に盾を持っていた。

丸い盾だった。

旗団の支給品の盾。倉の焼け跡から、掘り出したのだろう。縁が少し焦げていた。

ゴードンの古い盾より、ずっと軽そうでずっと新しかった。

傷が一つもなかった。

「腕を出せ」

ゴードンが言った。

ハルトは、右腕を出した。

ゴードンは、盾の裏をハルトに見せた。

持ち手がなかった。

かわりに、革の帯が、二本、打ち付けてあった。一本は、肘の下。一本は、手首の上。

「握らなくていい盾だ」

ゴードンは、言った。

ゴードンは、ハルトの右の前腕に盾を当てた。

革の帯を締めた。

一本。二本。

盾が腕に乗った。

指は、開いたままだった。

開いたままで、盾は、落ちなかった。

「……隊長」

「ネリが、新しいのを打つまでの借り物だ」

ゴードンは、言った。

「鞴(ふいご)がないと、打てんそうだ。……それまでこれで受けろ」

ハルトは、盾を見た。

傷のない、表。

誰も、守ったことのない、盾。

「割るなよ」

ゴードンは、言った。

それから、少し黙った。

「……いや。割っていい。割れるまで受けろ。それが盾だ」


夕方、焼け跡の空いた場所で稽古をした。

相手は、ベックだった。

右の腕に借り物の盾。左の手に自分の剣。背中にレオニスの右の剣。

「来い。新兵」

ベックが木の棒を構えた。

ハルトは、構えた。

ベックの棒が来た。

盾で受けた。

受けられた。

腕ごと、盾を、前に出せば、受けられた。

崩そうとした。

手首を返そうとした。

返らなかった。

指が動かなかった。持ち手を、ひねれなかった。盾の角度が変えられなかった。

ベックの棒が、盾の縁を、滑って、ハルトの肩を打った。

「受けは、できる」

ベックが言った。

「崩しができん。……手首が、死んどるからな」

ハルトは、肩を押さえた。

痛かった。

ちゃんと、痛かった。

「もう一本」

「おう」

二本目も同じだった。

三本目は、腕ごと、体ごと、前へぶつけた。

盾の面でベックの棒を押し返した。

ベックが半歩下がった。

「……それは、崩しじゃない。体当たりだ」

「はい」

「だが、半歩は、半歩だ」

ベックは、棒を下ろした。

ハルトは、膝に手をついた。

息が上がっていた。

盾の帯の下で、灰色の腕が冷えていた。冷えが、肘の上まで、少しだけ上がってくる気がした。

それでも、盾は、腕から、落ちなかった。


その夜、リュネは、天幕の灯りの下で、手帳に書いていた。

ハルトは、寝台で横になっていた。アガタが、そこで寝ろと、言った。

ユノが、寝台の脇に座っていた。

ユノは、何も言わずに、ハルトの右手を、自分の両手で包んでいた。

窪地で、リュネの手を、そうしていたように。

灰色の指は、何も感じなかった。

ハルトは、それでも、手を引かなかった。

リュネのペンの音が止まった。

ハルトは、目を開けた。

リュネがこちらを見ていた。

ユノの手と、ハルトの灰色の指を。

リュネは、立ち上がって、寝台の脇に来た。

自分の指を灰色の縁に当てた。

肘の下の、灰色と、肌の境目に。

しばらく、そうしていた。

「……ユノ。手、離してみて」

ユノが手を離した。

リュネの指は、境目に当てられたままだった。

長いこと。

それから、リュネは、言った。

「もう一回、握って」

ユノが握った。

リュネの眉が動いた。

リュネは、何も言わずに、手帳のところへ戻った。

ペンが走った。

それから、一度だけこちらを振り返った。

「……ユノが、触ってる時だけ」

リュネは、小さく言った。

「境目がほんの少し温かい」

ユノが自分の手を見た。

ハルトも見た。

灰色の指は、相変わらず、何も感じなかった。

それが何を意味するのか、リュネは、言わなかった。

言えないのだと、ハルトは、思った。

まだ、理論的には、と、言えないから。

リュネのペンは、夜更けまで止まらなかった。

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