第58話 旗の下
夜明け前に、焼けた門の前に全員が集まった。
全員といっても、百六十六人だった。
ノエラがそう数えた。
旗は、新しかった。
マーサが、夜のうちに、縫ったのだった。
荷車の底に残っていた、橙の布と、藍の布。古い天幕の切れ端と、誰かの外套の裏地。色は、少しずつ、ばらばらだった。
竿は、焼け残りの物見の櫓の柱だった。ベックとロブが、門の前の土に深く突き立てた。
尾根の東の端には、もう一本の旗が立っていた。
レオニスの墓の上の旗。
ここからは、小さく、黒い点にしか、見えなかった。
その旗は、そこに置いておく。
そう決めたのは、ハルトではなかった。昨日の夜、竈の前でみんなで決めた。
ウルリクが、担架の上から、身を起こした。
ロブが背中を支えた。
「始める前に、一つ、話しておく」
ウルリクの声は、大きくなかった。
それでも、門の前の全員が静かになった。
「この旗が、なんで、暁なのか。……知らん奴が、増えたからな」
ウルリクは、東の空を見た。
まだ藍色だった。尾根の縁だけが、ほんの少し白んでいた。
「七年前だ。俺の村が焼けた」
「帝国の徴発だった。麦を出せと言われて、出せる麦がなかった。……それで、夜に火が来た」
ウルリクは、淡々と、言った。
「村の男は、ほとんど、その場でやられた。俺は、脚を斬られた。こっちの脚だ」
ウルリクは、折れていないほうの脚を叩いた。
古い傷のある脚だった。
「残ったのは、年寄りと、女と、子供と。脚の動かん男が一人。……三十人と、少しだ」
ハルトは、ウルリクの顔を見ていた。
皮肉も鼻を鳴らす音もなかった。
「そこへ、若いのが、一人、来た。どこから来たのかは、知らん。旅の途中だと言った。背中に、剣を二本、背負ってた」
ウルリクの目が、少しだけ細くなった。
「そいつは、燃えてる村を見て、何も聞かずに、子供を二人、担いだ。それから、俺に肩を貸した」
「一晩じゅう、歩いた」
ウルリクは、言った。
「どこへ行けばいいのか、誰も知らなかった。帝国の松明が、後ろから、ついてきた。……年寄りが、途中で、もう歩けん、置いていけ、と言った」
ウルリクは、息を吐いた。
「そいつは、置いていかなかった。年寄りを背負って、子供を前に歩かせて、脚の動かん男に、肩を貸したまま。……一人で、全部、持とうとした」
ノエラの指が、肩の剣の結び目の上で止まった。
「途中でそいつが倒れかけた。それで、俺が言った。……あんた一人で、全部、持てるわけがないだろう、ってな」
ウルリクは、少しだけ口の端を上げた。
「そしたら、そいつは、笑った。……そうだな、って。それから、年寄りを、俺の背中に、半分、預けた。子供を女たちに預けた。全員で、持ち合って、歩いた」
「夜が明けた」
東の空が、少しずつ明るくなり始めていた。
「丘の上に出た。帝国の松明は、もう、ついてきてなかった。……三十人と少し、全員、いた」
ウルリクは、門の前の新しい旗を見上げた。
「そいつは、焼けた村から子供が持ってきた、橙の布を借りた。祭りの日に、戸口に掛けてた布だそうだ。焦げてた。……それと、自分の外套の藍の裏地を裂いた」
橙と、藍。
「二枚を、結んで、拾った棒の先につけた。それが最初の旗だ」
ウルリクは、言った。
「そいつは、こう言った。……夜は、一人じゃ、越えられない。だから、朝の旗だ」
誰も何も言わなかった。
ハルトは、ウルリクを見ていた。
それから、尾根の東の端の小さな黒い点を見た。
一人で、全部、持とうとした人。
それを、半分、預けた人。
(それでも、最後は)
最後は、殿に一人で残った。
自分で決めて。
ハルトは、それを、責めることが、できなかった。
できなかったけれど、同じことは、しないと思った。
「……あの人は、七年かけて、また、一人で全部持つようになっちまった」
ウルリクは、言った。
「旗が大きくなるほどな。……だから、盟主」
ウルリクがハルトを見た。
「あんたの三つの条件を、聞いた時。俺は、あの丘の上を思い出した」
ウルリクは、担架に背中を戻した。
「話は、それだけだ」
ノエラが前に出た。
肩から、右の剣を下ろした。
鞘ごと。不格好な結び目は、ほどかないまま。
ノエラは、剣を両手で持った。
ハルトの前に立った。
「数えて、決めました」
ノエラは、言った。
「あの人に言われました。おまえが数えて、決めろ、と。……この六日間、ずっと数えていました」
ノエラは、帳面を開かなかった。
「誰に渡せば、この剣が、一人で全部持たずに、済むのか」
ノエラは、剣を差し出した。
ハルトは、右手を上げようとした。
上がらなかった。
開いたまま、閉じない指。
ハルトは、左手を出した。
左手で受け取った。
重かった。
鞘の革の擦り切れた手触りがわかった。レオニスの背中で、何年も擦れてきた革だった。
結び目が指に当たった。
ノエラが、結んだ、結び目だった。
「……ほどかないんですか」
ハルトが言うと、ノエラは、首を振った。
「あなたが、ほどいてください。いつか。……右の手で」
ハルトは、自分の右手を見た。
それから、頷いた。
ハルトは、剣を背中に回した。
ユノが手伝った。革紐を肩に掛けた。
右の剣は、まだ抜けない。
抜く手がない。
それでも、背中に重さがあった。
ハルトは、門の前の百六十六人を見た。
全員の顔がこちらを見ていた。
窪地の夜と、同じように。
けれど、窪地の夜とは、違った。
ハルトは、その顔を、一つずつ、見た。
知っている顔。知らない顔。昨日、名前を覚えた顔。
(全部は、まだ、覚えてない)
それでも、見た。
一つずつ。
「……俺は、レオニスさんの、代わりは、しません」
声が門の前に広がった。
「一人では、決めません。決めたことは、全部、見せます」
それから、少しだけ迷った。
迷ってから、言った。
「だから、半分、持ってください」
東の空から、日が出た。
尾根の縁から、橙が、藍を押し上げてきた。
新しい旗が、その色の中ではためいた。
誰かが膝を叩いた。
それが、一つ、二つと、増えていった。
拍手ではなかった。
ただ、そこにいる、という音だった。
その時、リュネが立ち上がった。
ユノの肩を借りて。
毛布を、肩から、落とした。
手に何かを持っていた。
橙と藍の布だった。
マーサが旗を縫った、残りの切れ端だった。
リュネは、誰にも何も言わなかった。
自分の左の手首に布を当てた。
右手と、歯で。
一度で結んだ。
小さくて、固い、きれいな結び目だった。
リュネは、手首を下ろした。
それから、ハルトを見た。
「……研究のため、って言うのやめる」
声は、まだ、かすれていた。
けれど、震えては、いなかった。
「ここにいるのは、私が、決めたから。……あんたの右手も、ロブの目も、帳面の空いてる欄も。全部、私が数に入れる」
ユノが、リュネの肩を、支えたまま、目を丸くしていた。
ハルトは、何か、言おうとした。
言葉が出なかった。
出ないかわりに、喉の奥が熱くなった。
ノエラが帳面を開いた。
炭筆で何かを書いた。
それから、顔を上げて、言った。
「魔導兵長。それと、術理研究の主任」
ノエラは、門の前の全員を見た。
「……異議のある人は、今、言ってください。決めたことは、全部、見せるそうですから」
誰も何も言わなかった。
ロブが、片目をこすりながら、言った。
「魔導師様じゃ、なくなるのか」
「ばか」
リュネが言った。
それで、何人かが笑った。
窪地の朝から、初めて、誰かが笑った。
その夜、ハルトは、ノエラの帳面を見せてもらった。
日付と、ハルトの名前と、三つの条件。
その下に新しい行があった。
リュネ。魔導兵長、術理研究主任。異議なし。
ノエラは、頁をめくった。
名前の頁。その一番下の短い一文の上に、ノエラの手が置かれていた。
「それは」
ハルトが言うと、ノエラは、手を動かさなかった。
「あの人が、最後に書いたものです」
ノエラは、言った。
「私が、数えなくてもいいと思った時に、読め、と言われました」
ノエラは、帳面を閉じた。
「……まだ、読めません」
焚き火の向こうで、新しい旗が夜風に鳴っていた。




