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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第三章 借り物の盾

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第57話 条件

朝の鍋の列は、また短くなっていた。

ハルトは、それを数えなかった。

数えなくても、わかった。昨日、隣に並んでいた男の顔が、今日は、なかった。


昼前にウルリクに呼ばれた。

焼けた炊事場の竈の前だった。屋根のない石の竈を囲んで、何人かが座っていた。

ウルリクは、担架の上に身を起こしていた。折れた脚を前に投げ出したまま。

ベックが、その横に立っていた。

ヤンは、竈の石に腰をかけていた。片袖のない外套のまま。

ゴードンは、少し離れた、焼け残りの梁の上に座っていた。腕を組んで。

ノエラは、帳面を膝に置いていた。

肩には、まだ右の剣が掛かっていた。

「座れ」

ウルリクが言った。

ハルトは、竈の前の空いている石に座った。

自分が、なぜ、ここに呼ばれたのか、わからなかった。

わかっていたけれど、わかりたくなかった。


「軍師。数を」

ウルリクが言った。

ノエラが帳面を開いた。

炭筆は、持たなかった。読むだけだった。

「砦にいた時、戦える者は、三百十二でした」

ノエラの声は、平らだった。

「窪地の夜に二百三十一。……今朝、百六十八」

誰も何も言わなかった。

「村の人たちは、昨日、川下の村へ帰りました。百四十一人、全員。……それは、数に入れていません」

ノエラは、頁をめくった。

「この二晩で、六十三人が門を出ました。全員、トマに言ってから」

ノエラは、帳面を閉じた。

「このままなら、冬の前に百を割ります」


竈の灰が、風で少しだけ舞った。

「……止めないのか」

ゴードンが言った。

腕を組んだまま。

「止める理由がない」

ウルリクが言った。

「あの人がそう決めた。言ってから行け。言ったら、行っていい。……それを俺が変えるのか」

ウルリクは、ハルトを見なかった。

旗の話は、もうしなかった。

窪地で、一度、断られた。それきり、言わなかった。

ハルトは、それが、わかっていた。

ウルリクは、もう頼まない。

頼まないで、待っている。


ハルトは、自分の膝を見ていた。

右手が膝の上にあった。

開いたまま。閉じない指。

左手がその隣にあった。

(誰の後ろに、並べばいいのか)

門を出ていった男の声がした。

旗は、ある。

尾根の東の端に。レオニスの墓の上に。

なのに、その旗の下に誰も立っていない。

だから、みんな、出ていく。

誰も切り捨てていないのに。

切り捨てていないはずなのに、一人ずつ、いなくなっていく。

(旗を持つ奴が、いないと)

誰も切り捨てない旗が、人を切り捨てていた。

旗を持つ者が、いないことで。

ハルトは、顔を上げた。


「……俺は」

声が出にくかった。

窪地の時と、同じだった。

それでも、出した。

「俺は、レオニスさんの、代わりには、なれません」

ウルリクの眉が少しだけ動いた。

「それは、今も同じです。……だから、代わりは、しません」

ハルトは、息を吸った。

「条件があります」

ベックが腕をほどいた。

ヤンが、竈の石から、腰を浮かせた。

「レオニスさんの、代わりは、しない」

一つ。

「俺一人では、決めない」

二つ。

「決めたことは、全部、みんなに、見せる」

三つ。

ハルトは、左手を膝の上で握った。

右手は、握れなかった。

「……それで、いいなら。旗を持ちます」


しばらく、誰も何も言わなかった。

ウルリクが最初に口を開いた。

「一人で決めない、か」

「はい」

「あの人は、全部、一人で決めた」

「……はい」

「それで、ここまで来た。それで、あそこに埋まってる」

ウルリクは、尾根のほうを見た。

焼けた柵の向こうに、北の丘陵が霞んでいた。

「一人で決めない盟主なんて、聞いたことがない」

ウルリクは、鼻を鳴らした。

「……遅くなるぞ。何を決めるのも」

「はい」

「遅いせいで、死ぬ奴も出る」

ハルトは、答えられなかった。

答えられないまま、頷いた。

ウルリクは、しばらくハルトを見ていた。

それから、言った。

「なら、最初の一つだ。……俺は、乗る。ベック」

ベックが肩をすくめた。

「乗る。今さら、他の誰の後ろに並ぶ」

「ヤン」

「乗ります」

ヤンの声は、まだ少しだけ震えていた。

「ゴードン」

ゴードンは、梁の上で腕を組んだままだった。

ハルトを見ていた。

顔を見ていた。

長いこと。

「……顔は、見せてるな」

ゴードンは、言った。

「なら、いい」

それだけだった。

ウルリクが、最後にノエラを見た。

「軍師」

ノエラは、すぐには、答えなかった。

肩の、右の剣の不格好な結び目に指を触れていた。

ほどかなかった。

「……一人で決めない、というのは」

ノエラは、言った。

「私にも、決めさせる、ということですか」

「はい」

ハルトは、言った。

「ノエラさんが、数えて、俺が、聞いて。……それから、みんなで決めます」

ノエラは、目を伏せた。

指が、結び目の上で止まっていた。

「去年の秋に、誰か一人でも、そう言ってくれていたら」

ノエラは、そこで言葉を切った。

それから、顔を上げた。

「乗ります」


それで、決まった。

誰も、拍手は、しなかった。

ウルリクが、担架の上で天を仰いだ。

「……こんなに遅い決め方で、半刻だ」

「すみません」

「謝るな。盟主が」

ハルトは、その言葉に何も返せなかった。

盟主。

自分の名前ではない、名前だった。

借りてきた外套のように、肩に合っていなかった。

ノエラが帳面を開いた。

炭筆を持った。

何かを書いた。

今度は、ハルトにも見えた。

日付と、ハルトの名前と。

その下に三つの条件。

ハルトが言ったとおりの言葉だった。

「就任は、明日。旗の前で」

ノエラは、言った。

「全員に見せます。……決めたことは、全部、見せるのでしょう」


竈の裏の焼け残りの壁の陰にリュネがいた。

毛布にくるまって、壁に背を預けていた。ユノが、その隣で湯を冷ましていた。

「……聞こえてた」

リュネは、言った。

まだ声がかすれていた。

「三つ目の条件。全部、見せるって」

リュネの目が、ハルトの右腕に動いた。

「なら、それも見せなさいよ。隠さないで」

ハルトは、少し迷ってから、頷いた。

「見せる」

「ふん」

リュネは、毛布を顎まで引き上げた。

「……研究のためよ。それだけ」

ユノが、湯の椀を、リュネに渡しながら、少しだけ笑った。


その日の夕方、ハルトは、門へ行った。

トマが、焦げた門柱の横に立っていた。

「トマさん」

トマは、振り向いた。

「……聞いた。盟主に、なるんだってな」

「はい」

ハルトは、門柱の前に立った。

トマの隣に。

「今夜も出ていく人がいたら」

「止めるのか」

「止めません」

ハルトは、言った。

「言ってから行け、は、変えません。レオニスさんが、決めたことだから。……でも、一つだけ、足させてください」

トマがハルトを見た。

ハルトは、門の外の暗くなり始めた道を見ていた。

六十三人が、出ていった道を。

「帰ってくる時は、言わなくていい。……そう、伝えてください。出ていく人に」

トマは、しばらく黙っていた。

それから、焦げた門柱を手のひらで叩いた。

「……一人で決めたな。今の」

ハルトは、はっとした。

トマは、少しだけ笑った。

笑ったのを、ハルトは、初めて見た。

「いいさ。俺が聞いた。俺が乗る。……二人で決めたことにしとけ」

その夜も、二人、門を出ていった。

トマは、二人に同じことを言った。

言ってから、行け。

帰ってくる時は、言わなくていい。

二人とも振り返らなかった。

ハルトは、門柱の横で、二人の背中が見えなくなるまで、立っていた。

右手は、開いたままだった。

左手は、何も持っていなかった。

明日、その手に何かが渡される。

ハルトは、それが何なのか、まだ知らなかった。

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