第56話 横に立つ者
--- カイン視点 ---
知らせは、雨の朝に来た。
門番の声で、カインは、中庭へ出た。
馬が一頭、門の内側で首を垂れていた。泥が腹まで跳ねていた。乗っていた兵は、鞍から下りると、そのまま膝をついた。
将軍の軍の伝令だった。
イゾルデが、館の階段を駆け下りてきた。
三つ編みが背中で跳ねた。
「父上は」
伝令は、顔を上げなかった。
「……川を渡りました。軍は、退きました」
「父上は、と、聞いているの」
伝令の肩が震えた。
「沢の出口で。反乱軍の盾の小僧と。……将軍は、剣を折られて」
イゾルデの息が止まった。
カインには、それが聞こえた。
「自分で退かれました。兵の肩を借りずに。……血の跡が、葦の中へ入っていって」
伝令は、そこで言葉を切った。
「見つかりませんでした。どこにも」
雨が、中庭の石を叩いていた。
イゾルデは、立ったまま、動かなかった。
カインは、その横に立っていた。
前ではなかった。
横だった。
ガルドにそう言われた場所だった。
盾の小僧。
剣を折られて。
カインは、その言葉を、頭の中でもう一度並べた。
ハルトが。
あのハルトが、ガルドの剣を折った。
あの剣を受けた。
(生きている)
先に来たのは、それだった。
その次に別のものが来た。
もっと冷たいものが。
ハルトが勝ったから、ガルドは、いない。
「……その、盾の小僧は」
自分の声だった。
伝令が、初めて、カインを見た。
「光ってました。腕が。……灰色の腕が白く」
カインは、自分の右腕を見なかった。
見なくても、わかっていた。肘まで灰色。
(まだ、流れている)
あいつの腕を、灰色にしたのは、自分だ。
その腕で、あいつは、ガルドの剣を折った。
イゾルデが動いた。
厩のほうへ。
「馬を出して」
厩番が立ちすくんでいた。
「お嬢様、どちらへ」
「川へ。父上を探しに」
カインは、イゾルデの手首をつかんだ。
左手で。
イゾルデが振り返った。
目が赤かった。泣いてはいなかった。
「離して」
「伝令が、三日かけて来た道だ。今から行っても、雨で、跡は、もうない」
「だから何」
「将軍の兵が探してる。おまえが一人で行っても、一人分しか、探せない」
イゾルデの手首が、カインの手の中で強張った。
「……私を、守らないで、って、言ったはずよ」
「守ってない」
カインは、言った。
「横に立ってるだけだ」
イゾルデは、長いこと、カインを見ていた。
それから、手首を引いた。
カインは、離した。
イゾルデは、厩へは、行かなかった。
館の階段のほうを見た。
二階の窓に小さな顔があった。
ミアだった。
窓に、両手をついて、こちらを見ていた。
イゾルデは、目を閉じた。
開けた時には、もう、声は、震えていなかった。
「……兵を出すわ。館の兵を半分。私は、残る」
カインは、頷いた。
イゾルデは、階段を上がっていった。
ミアのいる窓へ。
その夜、カインは、寝台の上で紙を広げた。
外套の内側に、ずっと入れていた紙だった。
折り目が、擦り切れかけていた。
金色の目の若者へ。流れを断ちたければ、帝都の工房はいつでも扉を開けている。
一行だけ。
何度も読んだ一行だった。
ガルドの声がした。
俺がいなくなった時に、もう一度それを読め。
その時、自分の横に誰が立っているかを、見てから決めろ。
カインは、紙から、目を上げた。
部屋には、誰もいなかった。
扉の向こうの廊下の先に、イゾルデの部屋があった。その隣にミアの部屋が。
横に立っているのは。
イゾルデと、ミア。
(だから、決められない)
そう思った。
そう思いたかった。
けれど、本当は、逆だった。
ガルドがいない。
この館を、帝都から隠していたのは、ガルドだった。ガルドの手柄と、ガルドの剣と、ガルドの名前だった。
それが、なくなった。
次に帝都が手を伸ばすのは、「保護した若者」だけでは、ない。
将軍の娘と。
将軍が預かった、人質の子供と。
カインは、紙を折り畳んだ。
横に立っている者を、見てから、決めろ。
見た。
だから、決めた。
帝都の使いは、五日後に来た。
黒い外套の男が、三人。胸に細い銀の鎖を下げていた。
夏の初めに、館に来た男たちと、同じ鎖だった。
先頭の男は、イゾルデに深く頭を下げた。
「お嬢様。将軍閣下のこと、帝都も深く案じております」
イゾルデは、答えなかった。
男は、顔を上げて、カインを見た。
「保護した若者を、お迎えに上がりました。将軍閣下とのお約束どおりに」
約束。
ガルドは、約束はしない、と言った。戦場では。
館の外では、したのだろうか。
カインには、わからなかった。
「それと」
男の目が階段の上へ動いた。
イゾルデの外套の陰にミアがいた。
「将軍閣下がお預かりになっていた、お子様も。閣下がご不在の今、帝都で、お守りするのが、筋かと」
イゾルデの手が腰の剣にかかった。
カインは、一歩前に出た。
横からでは、なかった。
前に。
今だけは、前だった。
「俺が行く」
カインは、言った。
男がカインを見た。
「自分の足で行く。鎖は、要らない。……工房の扉は、いつでも開いているんだろう」
男の目が細くなった。
笑ったのだと、少ししてから、わかった。
「ええ。いつでも」
「その代わり、この子は、ここに置いていけ」
カインは、振り返らなかった。
後ろに、ミアがいるのは、わかっていた。
「将軍の館で、将軍の娘のそばにいるのが、この子には、いちばん安全だ。……帝国が、自分でそう決めたはずだ」
男は、しばらく何も言わなかった。
カインの右腕を見ていた。
灰色の肘までの腕を。
値踏みする目だった。
それから、もう一度頭を下げた。
「よろしいでしょう。強い使い手が、自分から扉をくぐってくださる。それに比べれば、子供一人のことは」
男は、言葉を最後まで言わなかった。
言わなくても、わかった。
小さなことだ、と。
カインの左手が拳になった。
開いた。
「出立は、三日後に。……支度を、なさってください」
男たちが、客間へ下がった後、イゾルデが、カインの前に立った。
前に。
「……なんで、一人で決めたの」
声が低かった。
カインは、答えなかった。
「私の横に、立つんじゃ、なかったの」
「立ってた」
カインは、言った。
「だから、見えた。……おまえと、ミアが」
イゾルデの唇が震えた。
何かを言おうとして、言わなかった。
その後ろで、ミアが、イゾルデの外套の裾を握っていた。
ミアは、何も言わなかった。
ただ、カインを見ていた。
じっと。
何かを覚えようとするみたいに。
その夜、カインは、薬草の庭へ行った。
木戸をくぐった。
ガルドの小さな鋏が、畝の端の石の上に置いたままになっていた。
秋の初めに、出陣する前の晩に、置いていったのだろう。
刃に、薄く、錆が浮いていた。
カインは、畝の前にしゃがんだ。
一本ずつ、指で示していった。
熱を下げる草。
傷に塗る草。
眠れない夜の花。
名前を言った。
帝国の古い言葉の名前。
一つも間違えなかった。
間違えても、もう、直してくれる人は、いなかった。
カインは、鋏を拾った。
錆を親指で拭った。
外套の内側の紙の隣にしまった。
俺が、忘れたら、おまえが教えろ。
(教えに、行く)
どこにいるのかも、わからない人に。
カインは、立ち上がった。
月は、出ていなかった。
庭の向こうの館の窓に、一つだけ、灯りがついていた。
ミアの部屋だった。
その灯りが、カインが館の中へ入るまで、消えなかった。




