第55話 燃え残り
四日目の朝、窪地を下りた。
全員でだった。
尾根の夜は、もう冷たすぎた。動けない者を、もう一晩、そこに置いておくわけには、いかなかった。
ゴードンが削った槍の柄で、担架が四つできていた。
一つにウルリクが乗った。旗の竿は、墓に立てたままだった。手ぶらで乗るのが、落ち着かないようだった。
リュネは、またロブの背中だった。
「……自分で歩ける」
「歩けねえだろ、魔導師様」
「ふん」
リュネは、ロブの肩に顎を乗せた。
ユノがその横を歩いた。
涸れた沢を三つ目まで下りた。
林が切れた。
砦が見えた。
見えた、と言っていいのか、わからなかった。
柵がなかった。
丸太の柵があったところに、黒い杭が、歯の抜けた口のように、並んでいた。
物見の櫓は、半分の高さで折れていた。
炊事場の屋根は、落ちていた。厩は、灰の山になっていた。
匂いがした。
焦げた木の匂い。濡れた灰の匂い。
その奥に別の匂いがあった。
ハルトは、その匂いが何なのか、わかった。
わかってしまった。
(全部、届く)
それが、今は、少しだけ恨めしかった。
門は、残っていた。
門の扉は焼け落ちていたが、両側の太い柱が、黒く焦げたまま、立っていた。
トマが、その柱の前で立ち止まった。
柱に手を当てた。
「……俺の持ち場だ」
誰に言うでもなく、言った。
それから、焼けた柱の横に立った。
いつも立っていた場所に。
ネリは、まっすぐ炉のほうへ歩いていった。
ハルトもついていった。
炉の小屋は、なかった。屋根も壁もなかった。
炉だけがあった。
石を積んだ炉が、煤で真っ黒になって、灰の中に座っていた。
その横に鉄床があった。
煤けていた。けれど、形は、そのままだった。
ネリは、鉄床の前にしゃがんだ。
煤を手のひらで拭った。
下から、鈍い、鉄の色が出た。
「……鞴は、だめだね。革だから」
ネリは、言った。
声は、平らだった。
「でも、鉄床は、残る。鉄は、燃えないんだよ。……溶けるほど熱く、なかったんだ」
ネリは、鉄床に額をつけた。
しばらく、そうしていた。
ハルトは、何も言わなかった。
奪った鉄の延べ棒は、補給の天幕の跡に、積まれたまま、残っていた。
天幕は、骨組みの鉄の環だけになっていた。その下に、延べ棒が三百本近く、真っ黒になって積み重なっていた。
ネリが山の前に立った。
煤でどれも同じに見えた。
ネリは、迷わなかった。
山の真ん中あたりに手を突っ込んだ。
一本、引き抜いた。
袖で煤を拭いた。
祖父の印があった。
「……なんで、わかった」
ハルトが言うと、ネリは、首をかしげた。
「わかんない」
ネリは、延べ棒を両手で持った。
「なんか、こっちだって。……呼ばれた気がした、ってのとも違うんだけど」
ネリは、延べ棒を、外套の中の盾の破片の包みの横にしまった。
それ以上、何も言わなかった。
ゴードンの荷車は、炊事場の裏にあった。
あった、というより、そこにあったものの形が、残っていた。
鉄の輪だけになった車輪が二つ。灰の上に斜めに倒れていた。
荷台は、なかった。
ゴードンは、その前に立った。
ハルトは、少し離れたところで立ち止まった。
ゴードンは、長いこと、灰を見ていた。
春に、マーサとミアを迎えに行くために、ソーヌ村から引いてきた荷車だった。
ミアの小さな毛布を、積んでいた荷車だった。
ハルトは、その毛布のことを思い出した。
荷車の底に、畳んで、あった。
ゴードンは、一度もそれを出さなかった。
ゴードンが外套の前を開けた。
内側に手を入れた。
出てきたのは、小さな、毛布だった。
畳んだまま。少し、煤けていたが、焼けては、いなかった。
ハルトは、息を止めた。
「村へ移る夜に出しといた」
ゴードンは、毛布を見たまま、言った。
「荷車は、置いていくしかなかったからな」
それから、毛布をもう一度畳み直した。
太い指で角を揃えて。
「ミアのことは、やらん、と言ったろう」
ゴードンは、毛布を外套の内側に戻した。
胸のところに。
「これもミアのことだ」
ゴードンは、振り向かなかった。
ハルトは、黙って頷いた。
ゴードンには、見えていなかった。
それで、よかった。
正面で倒れた者たちは、砦の前の丘の斜面にいた。
帝国は、自分たちの死者は、連れていった。
旗団の者は、そのまま、置いていった。
埋めた。
穴を掘るのは、ベックの組と、村の男たちだった。
ハルトは、掘れなかった。
だから、ノエラの横に立った。
ノエラが、帳面の名前を読んだ。
一人ずつ。
一つ読んで、一つ、土をかけた。
ハルトは、ノエラが読んだ名前を、口の中で繰り返した。
一つずつ。
半分以上、知らない名前だった。
同じ鍋の前に、並んでいたはずの人たちだった。
(覚えとけ)
ウルリクの声がした。
ハルトは、繰り返した。
知らない名前を、知っている名前にするために。
ノエラは、一度だけハルトのほうを見た。
それから、次の名前を読んだ。
夕方、ハルトは、水場へ下りた。
砦の裏の小さな流れだった。そこだけは、何も焼けていなかった。
春の夜明け前に、ここで旗の布を巻いた。
レオニスが、そこの石の上に立っていた。
ハルトは、腰の袋から、布を出した。
橙と藍の布。沢の出口で、手からほどけて、落ちたものだった。ユノが、拾っておいてくれた。
右の手首に巻こうとした。
左手と、歯で。
一度目は、ずれた。
二度目は、結び目がほどけた。
春は、三度目で結べた。
今日は、四度目でやっと結べた。
前よりも、もっと、不格好な結び目だった。
「……自分で巻いた」
誰もいない水場で、ハルトは、言った。
返事は、なかった。
流れの音だけがした。
その夜は、焼け跡で眠った。
炊事場の竈だけが石で残っていた。マーサがそこに火を入れた。
鍋は、一つ。
窪地の時と、同じだった。
並んだ列は、窪地の時より、少しだけ短かった。
ハルトは、それに気づいた。
気づいたことを口に出さなかった。
夜更けに、ハルトは、目を覚ました。
門のほうで声がした。
低い声だった。
ハルトは、起き上がって、焼けた柵の間を歩いた。
焦げた門柱の横に、トマが立っていた。
その前に、男が一人、いた。
ベックの組の古参兵だった。顔は知っていた。名前は、知らなかった。
背中に小さな荷を背負っていた。
「……帰る」
男は、言った。
「北の山のほうに、兄貴がいる。冬を越せるかもしれねえ」
トマは、男を見ていた。
「言ったな」
トマは、言った。
「……言ってから、行け、だ。あの人がそう言った」
男は、頷いた。
門柱の間を抜けていった。
ハルトは、焼けた柵の陰でそれを見ていた。
男は、振り返らなかった。
暗い道の先に背中が溶けていった。
しばらくして、また一人、来た。
若い兵だった。村の母親のところへ帰る、と言った。
トマは、同じことを言った。
「言ったな。……行け」
また一人。
また一人。
みんな、トマに言っていった。
逃げる者は、いなかった。
全員、言ってから、出ていった。
それが、ハルトには、ひどく、苦しかった。
四人目の男が、門柱の間で立ち止まった。
振り返った。
焼けた柵の陰にいたハルトと、目が合った。
男は、少し困った顔をした。
それから、言った。
「……悪いな」
ハルトは、首を振った。
男は、少し迷ってから、もう一言だけ、言った。
「旗はあっても、持つ奴が、いねえ。……あの人の代わりに、誰の後ろに、並べばいいのか、わからねえんだ」
男は、門を出ていった。
トマがこちらを見ていた。
何も言わなかった。
ハルトは、自分の右手を見た。
開いたまま、閉じない指。
それから、左手を見た。
その手で何を持てばいいのか。
ハルトには、まだ、わからなかった。
門の外の闇に、また足音が近づいてきていた。




