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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第三章 借り物の盾

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第54話 空欄

窪地には、三日、いた。

誰が決めたのでもなかった。

動けない者が多すぎた。動ける者も、どこへ動けばいいのか、わからなかった。


一日目の昼過ぎに、ノエラが、帳面を持って、立ち上がった。

「一人ずつ、聞いて回ります」

ハルトは、顔を上げた。

「何をですか」

「昨日の夜に何を差し出したか」

ノエラは、炭筆を、指で一度、回した。

「数えたのは、人の数だけです。何を持っていかれたのかは、まだ一つも数えていません」

ハルトは、立ち上がった。

右手は、膝から落ちて、体の横にぶら下がった。

「俺も行きます」

ノエラは、少しだけハルトを見た。

それから、頷いた。


最初は、ロブだった。

岩の陰で、オットと並んで、座っていた。

「……何をって言われてもな」

ロブは、また右の目をこすった。

「こっちの目が霞むんだ。朝から、ずっと。水で洗っても、取れねえ」

ロブは、手のひらで、左の目を、ふさいでみせた。

「おまえの顔が、湯気の向こうみたいに見える」

ハルトは、何も言えなかった。

ノエラが帳面に書いた。

ロブ。右の目。

「書くのか、それ」

「書きます」

「……そうか」

ロブは、それ以上、何も言わなかった。

隣のオットは、折れた杖を膝に置いていた。

「俺は、わからねえ」

オットは、言った。

「何か、なくなった気はするんだ。けど、何がなくなったのか、わからねえ。……わからねえのが気持ち悪い」

ノエラは、オットの名前の横に、何も書かなかった。

書かないまま、次の名前へ移った。


村の年寄りの女は、荷車の陰で、冠の女の子の髪を編んでいた。

「孫に、毎晩、歌ってた歌があってね」

女は、手を止めなかった。

「二番の途中から、出てこないんだよ。五十年、歌ってきたのにね」

女は、少しだけ笑った。

「まあ、いいさ。一番を、二回、歌えばいい」

冠の女の子が、首をかしげて、女を見上げた。

ノエラは、書いた。

歌の二番。


ほとんどの人が、わからない、と言った。

ベックは、ノエラの帳面を、ちらりと見て、言った。

「知らん。書くな」

マーサは、杖に両手を重ねて、少し考えてから、首を振った。

「わかりません。……でも、ここに、こうしていられるなら、何でも、いいんです」

ネリは、祖父の槌を、膝に抱えたまま、言った。

「わかんない。でも、なくなった感じは、しないんだよね」

ネリは、自分の胸のあたりを叩いた。

「まだ、どっかに、繋がってる感じ」

ノエラは、ネリの名前の横も空けた。

空いた欄が、頁の上に並んでいった。

一つ、また一つ。

白いまま。


ゴードンは、窪地の端で槍の柄を削っていた。

担架を作り直すのだと言った。

「隊長は」

ハルトが言うと、ゴードンは、手を止めずに、言った。

「分からん」

それだけだった。

ナイフが、木を、薄く、剥いていった。

「……昨日の夜、何か、思い出そうとしてましたよね」

ゴードンの手が一度だけ止まった。

「思い出そうとしたら、何を思い出そうとしてるのかが、分からなかった」

それから、また削り始めた。

「だから、大したもんじゃない。大したもんなら、分かる」

ハルトは、ゴードンの手を見た。

いつもと同じ手だった。古い傷のある、太い指。

ノエラは、ゴードンの名前の横を空けた。


最後に、ノエラは、ハルトを見た。

「あなたは」

「……右手です」

ハルトは、左手で右の手首を持ち上げた。

灰色は、肘の下まで来ていた。指は、開いたまま、閉じなかった。

「それは、見えます」

ノエラは、言った。

「見えないものは」

ハルトは、答えられなかった。

わからなかった。

何かを持っていかれたのかどうかも、わからなかった。

ノエラは、ハルトの名前の横に、右手、とだけ書いた。

その横を少しだけ空けた。


帳面の殿の頁を、ノエラがめくった時だった。

線の引かれた名前が並んでいた。

その中に、線の引かれていない名前が、五つあった。

一つは、レオニス。

残りの四つのどれかが、髭の幹部の名前のはずだった。

ハルトは、どれがそうなのか、わからなかった。

わからないことに、その時、初めて、気づいた。

髭の幹部は、レオニスの墓の旗の根元に、座っていた。

折れた脚に、ベックが添え木を当てて、布で縛ってあった。

ハルトは、その前に立った。

「……あの」

「何だ」

「名前を聞いてもいいですか」

髭の幹部は、ハルトを見上げた。

長いこと、見ていた。

「ウルリクだ」

それから、鼻を鳴らした。

「春から、同じ鍋を食っといて、今さらか」

「……すみません」

「謝るな」

ウルリクは、旗の竿に背中を預けた。

「あの人も、最初の半年は、俺の名前を間違えてた」

ハルトは、何も言えなかった。

ウルリクは、目を閉じた。

「覚えとけ。……覚えてる奴が、少ないほうが、散るのは、早い」


二日目の昼に、リュネが目を覚ました。

ユノの声で、ハルトは、走った。

リュネは、毛布を三枚重ねた下で、目を開けていた。

唇は、まだ紫だった。

ユノが、リュネの手を両手で包んでいた。昨日から、ずっと、そうしていた。

リュネは、天を見ていた。

それから、唇を動かした。

「……体温の戻りが」

声がかすれていた。

「理論値より、遅い。……三回目を、預けたぶん、軽く、なるはずだったのに」

ユノが、泣きそうな顔で笑った。

「起きて、最初が、それ?」

リュネの目が動いた。

ユノを見て。

それから、ハルトを見た。

ハルトの右腕を。

肘の下まで来た灰色を、リュネは、しばらく見ていた。

「……私のは、軽くなったのに」

リュネは、言った。

「なんで、あんたのほうが増えてるのよ」

ハルトは、答えられなかった。

リュネは、目を閉じた。

目尻から、一筋、何かがこめかみへ流れた。

「……ばか」


ハルトは、リュネの枕元にしゃがんだ。

左手でリュネの手に触れた。

冷たかった。

指先から、まっすぐ入ってきた。

それでも、ユノの手が包んでいたところだけ、少し温かかった。

その差がわかった。

全部、わかった。

(ちゃんと、届いてる)

「リュネ」

「……何」

「ありがとう。水」

リュネは、目を開けなかった。

「ふん」

それだけ言って、毛布の中に、顔を半分、沈めた。


三日目の朝、ヤンが、川のほうから、戻ってきた。

砦を見てきたのだと言った。

「焼けてました」

ヤンは、膝をついた。

「帝国が、渡る前に、火を、かけていったんだと思います。……門も炊事場も厩も」

窪地が静かになった。

ネリが顔を上げた。

「……炉は」

「わかりません。近くまでは、行ってない。煙は、もう上がってなかったです」

燃えるものが、なくなったからだと、誰も言わなかった。

ノエラが帳面を閉じた。

「戻ります」

ノエラは、言った。

「明日。焼けていても。……埋めなければいけない人が、あそこにも、います」

誰も反対しなかった。


その日の夕方。

ハルトは、水場からの帰りに、ゴードンの背中を見つけた。

ゴードンは、窪地の水桶の前に立っていた。

桶は、空だった。

ゴードンは、近くにいた大きな背中に、声をかけた。

「おい、水、汲んでこい。……」

そこでゴードンの口が止まった。

ほんの一瞬だった。

口が、開いたまま、次の音が出てこなかった。

大きな背中が振り向いた。

ロブだった。

ゴードンの口が、閉じて、また開いた。

「……ロブ。桶だ」

「おう」

ロブは、桶を担いで、水場へ歩いていった。

何も気づいていなかった。

周りの誰も気づいていなかった。

ゴードンは、ロブの背中を見ていた。

それから、自分の手を見た。

開いて。

閉じて。

もう一度開いた。

ハルトは、水場からの坂の途中で、立ち止まっていた。

見ていたのは、ハルトだけだった。

ゴードンは、振り向かなかった。

ハルトも声をかけなかった。

かけられなかった。

ノエラの帳面の、ゴードンの名前の横は、まだ空いていた。

何も書かれていない、白い欄。

そこに何が入るのか。

ハルトは、知りたくなかった。

知りたくないと思ったことが、怖かった。

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