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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第53話 暁

夜のうちに、誰も眠らなかった。

眠れなかったのではなく、眠り方を忘れたようだった。

窪地のあちこちで、小さな火が焚かれていた。帝国に見つかることを、誰ももう気にしていなかった。

ハルトは、火のそばに座っていた。

右手を、膝の上に置いていた。

灰色は、肘のすぐ下まで這い上がっていた。指は、開いたまま、閉じなかった。

それなのに、火の熱さがわかった。

頬が熱かった。

それが、ひどく不思議だった。


夜明け前に、ヤンが沢の下から戻ってきた。

一晩じゅう、帝国の後を追っていたのだと言った。

「渡りました。全部。川の向こうへ」

ヤンは、火のそばに膝をついた。

声は、まだ丁寧さを取り戻していなかった。

「舟の列の、どこにも、将軍旗が、上がってなかった」

ハルトは、ヤンを見た。

「将軍が、いないんです。どの舟にも。……血の跡が、川の手前の、葦の中に入っていって。そこで、途切れてました」

ヤンは、首を振った。

「帝国の兵たちも、探してました。叫んで。将軍、将軍って。……見つけられないまま、渡っていきました」

ハルトは、自分の剣を見た。

左手の剣。刃の真ん中に、小さな欠けがあった。

ガルドの剣の根元に、当たった場所だった。

「……一人で、下りていったんだ」

ハルトは、言った。

「兵の肩を、借りないで」

ヤンは、何も言わなかった。


空が白くなり始めた。

「迎えに行く」

ベックが立ち上がった。

誰を、とは、言わなかった。

言わなくても、全員がわかっていた。

ベックの組と、ゴードンと、ヤンと、ハルトと。

ノエラも、来た。

帳面を胸に抱えて。右の剣を、肩に掛けたまま。

ベックは、ノエラを止めなかった。


沢の道は、昨日の夕方よりもずっと短く感じた。

下りるたびに、足元にいろいろなものが落ちていた。

折れた槍。片方だけの長靴。帝国の兜。橙と藍の布の、切れ端。

沢の入口に着いた。

林が切れていた。

岩の前に、人が倒れていた。

何人も。

ハルトは、数えなかった。

ノエラが数えていた。唇だけを動かして。

その中で、一人だけ座っている者がいた。

髭の幹部だった。

岩に背を預けて、橙の旗の竿を膝に抱えていた。

額から血が乾いた筋になって、顎まで落ちていた。片方の脚が、変な方向に曲がっていた。

髭の幹部は、こちらを見た。

それから、ノエラを見た。

「……数えに来たのか。軍師」

「はい」

「遅いぞ」

髭の幹部は、言った。

それから、竿を握り直した。

「旗は、倒してない。一晩じゅう、持ってた。……あの人に、自分で持てって、言っちまったからな」


生きていたのは、髭の幹部を入れて、四人だった。

十五人のうち、四人。

帝国の列はここを通っていったのだと、髭の幹部は言った。

「将軍が、言ったんだ。倒れた者には、手を出すな。通るだけだ、ってな。……変な男だ」

髭の幹部は、横を見た。

岩の陰に、レオニスがいた。

膝をついた形のまま、岩にもたれていた。

目を閉じていた。

右手に、刃のない、左の剣の柄を握っていた。


ハルトは、レオニスの前にしゃがんだ。

左手で、レオニスの肩に触れた。

冷たかった。

昨日までなら、届かなかった冷たさだった。

今は、届いた。

全部、届いた。

指の先から、手首へ。腕へ。胸へ。

冷たさが、まっすぐ入ってきた。

ハルトは、手を離さなかった。

離したら、この冷たさまでどこかへ行ってしまう気がした。

(遠くない)

全部、遠くなかった。

それがこんなに重いとは、知らなかった。

涙は、出なかった。

出ないまま、喉の奥が焼けるように痛かった。

「……レオニスさん」

声が震えていた。

平らでは、なかった。

返事は、なかった。


ノエラが、ハルトの隣にしゃがんだ。

帳面を開いた。

名前の頁。三百十二より多い、名前の頁。

殿の二十二人の名前のところに、昨日、七つの線が引かれていた。

ノエラは、炭筆を持ち上げた。

十一の名前に線を引いた。

一つずつ。

ゆっくり。

最後に、一つだけ残った名前があった。

レオニス。

ノエラの炭筆が、その上で止まった。

止まったまま、動かなかった。

ノエラの指が震えていた。炭で黒い指だった。

頁の一番下に、ノエラの読んでいない、短い一文があった。

ハルトには、その文字は見えなかった。ノエラの手が、そこを覆っていた。

ノエラは、帳面を閉じた。

線は、引かなかった。

「……まだ、数えきれていません」

ノエラは、言った。

誰に向けた言葉なのか、わからなかった。


レオニスを、尾根まで運んだ。

担架は、なかった。

ゴードンとベックが、外套を二枚、槍に結んで担いだ。

ハルトは、手伝えなかった。右手が、何も掴めなかった。

だから、横を歩いた。

髭の幹部は、ロブが背負った。旗の竿は、離さなかった。

尾根に着くと、窪地の全員が立ち上がった。

座っていた者も。担架の上の者も。荷車の年寄りも。

誰も、何も、言わなかった。

冠の女の子が、マーサのスカートの陰から、外套の中のレオニスを見ていた。

マーサが、その子の目を手で覆おうとした。

それから、やめた。


レオニスは、尾根の一番東の端に埋めた。

日の出が一番最初に当たる場所だった。

そこにしようと言ったのは、ノエラだった。

「この人は、ここが、いいと、思います」

理由は、言わなかった。

髭の幹部が、ロブの背中から旗の竿を差し出した。

「ここに、立てろ」

ベックが受け取って、土に深く突き立てた。

橙と藍の布が、風にはためいた。

東の空が、ちょうど同じ色をしていた。

藍の上に、橙が滲んでいた。

日の出の、色だった。

暁、と、レオニスは、この旗を呼んでいた。

ハルトは、その色を見ていた。

ちゃんと、見えた。

鮮やかすぎるほど。


誰も、笑わなかった。

勝ったはずだった。

帝国は、川の向こうへ退いた。将軍は、消えた。窪地の全員が、生きて朝を迎えた。

それなのに、誰も、笑わなかった。

ゴードンは、自分の手を見ていた。夜のうちに、何度もそうしていた。

ロブは、片目を何度もこすっていた。

リュネは、まだ目を覚まさなかった。ユノが、その手を握っていた。ずっと。

オットは、折れた杖を膝に置いて、空を見ていた。

ネリは、砕けた盾の破片を一つずつ拾い集めていた。誰に言われたのでもなく。

鉄の帯。鋲。木の欠片。持ち手の、擦り切れた革。

それを、自分の外套に包んでいた。


「旗を持つ奴が、要る」

髭の幹部が言った。

ロブの背中から下ろされて、旗の竿の根元に、座り込んだまま。

「このままじゃ、明日には、半分が散る。帰る場所のない奴らが、帰る場所を探して、ばらばらにな。……そうなったら、あの人が、ここに残ったのは、何のためだ」

誰も、答えなかった。

髭の幹部は、顔を上げた。

窪地を見渡した。

その目が、一人のところで止まった。

ハルトのところで。

「昨日、誰かが、言ってたな」

髭の幹部は、言った。

「盟主、って」

窪地の何十もの目が、また、ハルトを見た。

昨日の夜と、同じように。

ハルトは、首を振った。

「……俺は」

声が出にくかった。

「俺は、レオニスさんの、代わりには、なれません」

右手を、持ち上げようとした。

上がらなかった。

「盾も、もう、ないです。剣も、片手でしか。……昨日のあれも、俺の力じゃ、ないです。みんなの、です」

髭の幹部は、しばらくハルトを見ていた。

それから、鼻を鳴らした。

「そう言うと思った」

それだけだった。

それ以上、言わなかった。

ノエラは、肩の剣の、不格好な結び目に指を触れていた。

ほどかなかった。

帳面を開いた。

何かを書いた。

ハルトには、何を書いたのか、見えなかった。


炊事の煙が上がった。

マーサだった。

荷車の底に、麦が少しだけ残っていたのだと言った。倉から村の人たちが持ち出してきた麦だった。

鍋は、一つしかなかった。

全員が、一つの鍋の前に並んだ。

兵も。村の年寄りも。子供も。髭の幹部も。

同じ椀に、同じ量の、薄い麦粥。

ハルトも、並んだ。

マーサが、ハルトの椀に粥を注いだ。

左手で受け取った。

一口、すすった。

熱かった。

麦の、甘さがあった。塩が少しだけ足りなかった。

味が、した。

ちゃんと、した。

春に、この旗団に来た日の、粥と同じ味だった。

あの日は、温かさしか、わからなかった。

今日は、全部、わかった。

うまかった。

ひどく、うまかった。

ハルトは、椀を持ったまま動けなくなった。

隣で、ゴードンが黙って粥をすすっていた。

その向こうで、ノエラが、椀を両手で包んで、旗を見ていた。

旗の向こうから、日が昇ってきた。

橙が、藍を、押し上げていった。

誰も、笑わなかった。

粥は、うまかった。

(第二章 暁の旗 了)

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