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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第52話 持っていけ

風が、まだ、吹いていた。

尾根の上まで、届いてはいなかった。

けれど、沢の入口のほうから、低い唸りのような音がずっと上がってきていた。

何かがそこで道を塞いでいる音だった。

ハルトは、窪地の縁に立ったまま、それを聞いていた。


沢の道を、誰かが上がってきた。

一人だった。

足をもつれさせながら。何度も、転びかけながら。

胸に、帳面を抱えていた。肩に、細長いものを掛けていた。

鞘に収まった、剣だった。

「……ノエラさん」

ノエラは、尾根の縁に手をついて、体を引き上げた。

顔が、煤と涙でまだらになっていた。

ハルトを見た。

それから、窪地を見た。

座り込んだ兵たち。担架。荷車の年寄り。

ノエラの唇が動いた。

声は出ていなかった。

数えていた。

「盟主は」

ハルトは、聞いた。

ノエラは、数えるのをやめなかった。

「数えに行けと、言われました」

それだけ、言った。

肩の剣の鞘の紐が、ずり落ちかけていた。結び目が不格好だった。

片手で結んだような。

ハルトは、その結び目を知っている気がした。

自分の腕の、布の結び目に似ていた。

その時、風の音が止んだ。


窪地の誰もが、沢のほうを振り返った。

唸りが消えていた。

枯れ草が、もうどちらにも倒れていなかった。

ノエラが、帳面を胸に押しつけた。

それで、ハルトにも、わかった。

沢の入口に、橙の旗がまだ立っているのかどうか。

もう、暗くて、見えなかった。


松明が、沢を上がってきた。

一つ。三つ。十。

数えきれなくなった。

黒い列が、細い沢の道をゆっくりと上がってくる。

「立てる奴は、立て」

ベックが言った。

「槍のある奴は、沢の出口に。ない奴は、荷車の後ろだ。年寄りと、子供を、真ん中に」

兵たちが立ち上がった。

立ち上がれない者もいた。

ハルトは、沢の道の出口を見た。

岩と岩の間の、狭い隙間。人が、二人並べば、いっぱいになる。

倉の扉と同じだった。

入口が一つ。

ハルトは、そこへ歩いた。

盾を前に回した。

右手は、持ち手に縛りつけてあった。左手に剣を抜いた。

背中で、誰かがハルトの名前を呼んだ。ユノの声だった。

振り返らなかった。


隣に、大きな影が並んだ。

ゴードンだった。

肩に乗せていた冠の女の子を、マーサに渡してきたところだった。髭が少し乱れていた。

「おまえ一人の場所じゃない」

ゴードンは、言った。

ハルトは、何か言おうとした。

ゴードンは、沢の下を見ていた。

列の先頭が、松明の輪の中に入ってきた。

鎧を着ていなかった。

外套と、長剣だけ。

その外套の肩が、浅く裂けていた。

将軍ガルドだった。


ガルドは、沢の出口の十歩手前で止まった。

後ろの列も、止まった。

ガルドの目が、ハルトを見た。

それから、ハルトの盾を見た。

縁の、鉄の帯を。

「盾の少年か」

渡し場で、聞いたのと同じ声だった。

大きくはなかった。けれど、窪地の一番奥まで届いた。

「旗の主は、最後まで、退かなかった」

ガルドは、言った。

「立派な男だった。……だから、ここで、終わらせる」

ガルドは、剣を抜いた。

構えなかった。

ただ、抜いて、下げた。

それだけで、ハルトの膝が震えた。

(来る)

体が知っていた。

あの剣が一度動けば、風でさえ、斬られる。

ハルトは、盾を持ち上げた。

灰色の指が、持ち手を握りしめた。

胸の奥で、弦が鳴った。

引き絞られたまま。放し方を、知らないまま。


「ハルト」

ゴードンが言った。

ハルトのほうを、見ないまま。

「俺の分も、持っていけ」

ハルトは、ゴードンを見た。

「……何を」

「知らん」

ゴードンは、ぶっきらぼうに言った。

「おまえが、ずっと、人の分を持ってきたのは、知ってる。オットの分も。あの御者の荷車の分も。……だったら、逆も、できるだろう」

ゴードンは、大きな手をハルトの左の肩に置いた。

「持っていけ。どれでもいい」

少しだけ、間があった。

「ミアのことは、やらん。それ以外なら、どれでもだ」

その手が温かかった。

温かいと、わかった。

それから、ハルトの胸の奥で何かがほどけて、流れ込んできた。

古い、何かだった。

形のある、何か。景色のような。誰かの声のような。

それが何なのか確かめる前に、それはハルトの中で溶けた。

ゴードンの手が、一瞬だけ、強張った。

それから、また、ハルトの肩を掴んだ。

「……ほらな。できるだろう」


「ハル」

ユノが、反対の肩に手を置いていた。

いつの間に来たのか、わからなかった。

「半分こ、でしょ」

ユノは、笑っていた。

許しを求めるのではない、笑い方だった。

ユノの手からも、何かが流れ込んできた。細い、風のようなもの。

「ばか。私の分も、数に入れなさい」

ロブの背中から下りたリュネが、ふらつきながら、ハルトの背中に手を当てていた。指が、まだ震えていた。

「三回目。……あんたにあげる。私一人で使うより、たぶん、軽いでしょ。理論的には」

冷たい水のようなものが、流れ込んできた。

「おまえ、一人で前に立つなと、何度言った」

ベックだった。槍の柄で、ハルトの背中を軽く突いた。

ロブが。オットが、折れた杖のまま、這うようにして。ヤンが。トマが。

マーサが。

ネリの鎌の年寄りが。

窪地の、名前を知っている者たちが。名前を知らない者たちも。

一人ずつ、ハルトの背中に、肩に、腕に手を置いた。

置けない者は、その後ろの者の肩に手を置いた。

流れ込んできた。

ほんの少しずつ。

数日分の、何か。片目の、ほんの少しの、光。誰かの、古い歌の、一節。麦を刈る時の、腕の重さ。

ネリが、ハルトの左の手首を両手で掴んだ。

槌を握り慣れた、硬い手だった。

「ハルト。鉄はね。混ざってると、ひびが、迷うんだよ」

ネリの手からは、熱いものが流れ込んできた。炉の熱のような。

ハルトの後ろで、ノエラが帳面を開いていた。

炭筆が動いていた。

「四十一」

ノエラは、数えていた。

「五十六。……七十。九十三」

数字が名前の数だった。

ノエラは、それを知っていて数えていた。


ハルトの中が、いっぱいになった。

流れ込んできたものが行き場をなくして、胸の奥で渦を巻いた。

弦が、ぎりぎりと、鳴った。

(どうすれば)

放し方を知らなかった。

これだけのものを、受け取って。どこへ、繋げばいいのか。

ガルドが一歩踏み出した。

剣が動いた。

遅く見えた。

一度だけ。

それだけだった。

ハルトの盾の真ん中を、剣が撫でた。

鉄の帯の、下。

木が、ずれていた場所を。

村の柵で聞いた音がした。

もっと、深く。

もっと、大きく。

盾が割れた。

縁の鉄の帯が弾けた。木が、真ん中から、二つに裂けた。裂けて、さらに、四つに、八つに砕けた。

ゴードンの古い盾が、ハルトの前でばらばらになって散った。

剣は、盾の向こうのハルトには届かなかった。

ハルトの後ろの、ゴードンにも。ユノにも。リュネにも。

盾が、全部、受け止めていた。

最後まで。

右手を縛っていた布が、ほどけた。

持ち手が、手の中から滑り落ちた。

灰色の指が開いた。

握った形のまま、ずっと、開かなかった指が。

(あ)

弦が放たれた。


全部が戻ってきた。

一度に。

ゴードンの手の、温かさ。ユノの手の、温かさ。リュネの指の、冷たさ。ネリの手の、硬さ。

オットの肩を叩いた時に、届かなかった温かさ。収穫祭の、麦粥の味。焚き火の、熾火の色。半分こしたパンの、柔らかさ。

全部、遠くなかった。

すぐそこにあった。

ハルトの胸の奥から、光が溢れた。

銀色とも、白ともつかない光だった。

光は細い糸になって、ハルトの背中から、肩から、腕から伸びていた。

窪地じゅうに。

一本一本が、誰かの手に繋がっていた。

見えた。

全部の顔が見えた。

一瞬だけ、知らないものも見えた。

ノエラの肩の、剣の鞘のあたりから、細い糸が一本だけ伸びていた。

その先に。

知らない夜の、知らない窓があった。窓辺に、小さな灯りが置かれていた。

誰かが、それを遠くから見ていた。

見ていたのは、たぶん、レオニスさんだった。

それは、すぐに消えた。


ガルドが、二太刀目を振った。

ハルトの胸の前で、光の糸の一本がぷつりと切れた。

リュネの、冷たい水の糸だった。

けれど、ハルトは倒れなかった。

隣の糸が、その分を受けていた。ユノの風の糸が。その隣の、ベックの槍の糸が。

ガルドの目が、ほんのわずかに見開かれた。

剣が、もう一度動いた。

一本、切れた。

二本目は、切れなかった。

ガルドの剣先が迷った。

糸の、どれを、斬ればいいのか。

ハルトには、それがわかった。

ネリの手から来たものが、教えていた。

鉄は、混ざっていると、ひびが迷う。

一つの太刀で、一つのものを断つ。

だったら。

一つでは、ないものは。

(受けて)

盾は、もうなかった。

だから、光で受けた。ガルドの三太刀目が、無数の糸の上を滑った。

(崩して)

リュネの最後の水が、ガルドの足元の土を一瞬だけ泥に変えた。ガルドの足が半歩沈んだ。

(繋ぐ)

繋ぐ相手は、後ろにいた。

全員だった。

ハルトは、左手の剣を振った。

ゴードンに教わった振り方だった。ユノの風が押した。ベックの槍の間合いが、そこだと言った。ロブの腕の重さが乗った。

ネリの手が、ガルドの剣の根元を指していた。

ハルトの剣が、ガルドの剣の根元に当たった。

ガルドの剣に、ひびが走った。

そのまま、光がガルドを呑んだ。


血が散った。

どこを斬ったのか、ハルトにはわからなかった。

ガルドは、膝をつかなかった。

折れた剣を、まだ握っていた。もう片方の手で、外套の胸を押さえていた。

外套の、内側を。

その下で、何かが震えているように見えた。

「……これも、か」

ガルドは低く言った。

ハルトには、何のことか、わからなかった。

ガルドは、顔を上げた。

顔にも、外套にも、血が飛んでいた。

ガルドは、ハルトを見た。

ハルトの、足元を見た。砕けた盾の、破片を。

「割れる前に、何を守るのか、決めておけと、言ったな」

ガルドは、言った。

「……決めていたか」

ハルトは、答えられなかった。

息が続かなかった。

ガルドは、それ以上待たなかった。

「退け」

後ろの列に言った。

列がざわめいた。

「今日は、ここまでだ。……一太刀では、断てん」

ガルドは、背を向けた。

兵の肩を借りなかった。

一人で、沢の道を下りていった。

松明の列が、その後ろに続いた。

一度も、振り返らなかった。


光が消えた。

糸が一本ずつほどけていった。

ハルトの膝が折れた。

地面に手をついた。

右手だった。

灰色の斑は、指から手首を越えて、肘のすぐ下まで這い上がっていた。

開いた指は、もう握ることができなかった。

それでも。

地面の、冷たさがわかった。

夜の、土の匂いがわかった。

ハルトは、顔を上げた。

窪地の全員がそこにいた。

誰も、声を上げなかった。

ゴードンは立ったまま、自分の手を見ていた。何かを、思い出そうとしているような顔だった。

それから、手を握って、開いた。

「……なんだ。大したもんは、持っていかれてないな」

リュネは、ロブの腕の中で気を失っていた。

ノエラは、帳面を閉じなかった。最後の数字を書いたまま、炭筆を止めていた。

ネリは、ハルトの手首をまだ掴んでいた。

「……ねえ」

ネリが小さく言った。

「まだ、ちょっと、繋がってる気がする」

ハルトは、足元を見た。

ゴードンの盾の、破片が散らばっていた。

鉄の帯。鋲。木の欠片。擦り切れた、持ち手の革。

全部、誰かを守って、割れていた。

窪地の奥のほうで、誰かが言った。

小さな声だった。

誰に向けて言ったのか、わからないような声だった。

「……盟主」

ハルトは、沢のほうを振り返った。

暗かった。

旗は、見えなかった。

もう一度、窪地を振り返った。

何十もの目が、ハルトを見ていた。

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