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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第51話 息

--- レオニス視点 ---

一。

二。

レオニスは、沢の入口の岩に背中を預けて、数えていた。

三。四。

喉がひゅうと鳴った。

五。

息が戻ってこない。

さっきの風は、尾根まで届いたはずだった。枯れ草が、上へ倒れていくのが見えた。あれで、尾根の連中には、こっちがまだ立っていると、わかったはずだ。

六。七。

あの坊主にも。

八。九。

十。

息が戻った。

肺の底まで、冷たい空気が落ちてきた。

「……まだ、いけるな」

声に出した。

喋っていないと、息の仕方を忘れそうだった。


二十二人いた殿は、十五人になっていた。

古参の隊長たち。去年の秋の北の砦から、一緒に帰ってきた連中。それから、年かさの髭の幹部が、橙の旗の竿を、地面に突き立てて握っていた。

「あんたの旗だぞ。自分で持て」

髭の幹部は、レオニスを見ずに言った。

「両手が塞がってる」

「片手だろうが」

レオニスは、笑った。

笑うと、また、喉が鳴った。

左手を見た。

指が、剣の柄に、半分しか、かかっていなかった。朝から、ずっとそうだった。渡し場で、風を斬られた時から。


あの時のことは、まだ、手の中に残っていた。

舟の列の、隙間。

いつもどおりに、見えていた。兵と兵の肩の間。盾と盾の継ぎ目。風を乗せて、そこを通る。何百回もやってきた。

将軍が、舟の舳先に立っていた。

剣を、一度だけ、動かした。

速くはなかった。

むしろ、遅かった。

なのに、その剣が通ったあとで、風がほどけた。

斬られたのは、自分の体ではなかった。双剣でもなかった。自分と風を繋いでいた、細い糸のようなものだった。

糸の、結び目を。

あの男は、それを見ていた。


沢の下で、帝国兵の列が動いた。

盾の壁が割れた。

その割れ目から、一人、歩いてきた。

鎧は着けていなかった。外套と、長剣だけ。捕虜交換の浅瀬に降りてきた時と、同じ格好だった。

将軍ガルド。

自分の兵を、後ろに止めていた。

一人で、沢を上がってきた。

「……律儀な人だな」

レオニスは、岩から背中を離した。

「ノエラ」

後ろの岩陰に、ノエラがいた。

帳面を膝に抱えていた。行けと言ったのに、行かなかった。沢の入口に残った二十二人の名前を、一人ずつ、帳面に書いていた。七人に線を引いていた。

「下がってろ。……今度こそ、下がってろ」

ノエラは、答えなかった。

ただ、帳面を胸に抱き直した。


ガルドが、三歩手前で止まった。

「旗の主」

「レオニスだ。一度、名乗った」

「覚えている」

ガルドの目が、レオニスの左手に落ちた。

「その手は、浅瀬の時のものか」

レオニスは、少しだけ、目を見開いた。

「捕虜の小刀を、素手で握った。あの時の」

「……よく、見てるな」

「数えたからな。おまえの兵も、おまえも」

ガルドは、剣を構えなかった。

ただ、下げていた。

「退け。今なら、沢の上の者たちは、追わん」

「嘘だろ」

「嘘だ。俺が追わなくても、後ろの者が追う」

ガルドは、表情を変えずに言った。

「だが、おまえがここで死ねば、尾根の者たちは、もっと早く追われる」

レオニスは、笑った。

息が浅くなった。

「わかってる。だから、ここで、時間を稼ぐ」

双剣を抜いた。


風を乗せた。

右の剣と、左の剣。二つの太刀筋。

一つの太刀では、二つは断てない。

レオニスは、それを知っていた。あの男の剣が、結び目を一つずつ斬るものなら、結び目を二つ、同時に見せればいい。

右が、ガルドの肩口へ。

左が、ガルドの膝へ。

同時に。

ガルドの剣が動いた。

遅い剣だった。

右の太刀筋の前で、一度、止まりかけた。

迷った。

あの男が迷った。

その一瞬で、レオニスの右の剣が、ガルドの外套の肩を裂いた。

浅かった。

けれど、届いた。

左の剣が続くはずだった。

続かなかった。

一拍。

左の指が、柄を握りきれずに、遅れた。

ほんの、一拍。

ガルドの目が、その一拍を見た。

二つの太刀筋が、一つずつにほどけた。

ガルドの剣が、左の剣の、刃の根元を、撫でるように通った。

音は、しなかった。

左の剣が、手の中で砕けた。

刃が、根元から、いくつもの欠片になって、夕日の中に散った。

風がほどけた。


膝が地面についた。

息がなかった。

一。

二。

喉が鳴らなかった。鳴る力も、なかった。

三。

ガルドの剣が、レオニスの首の横で止まっていた。

四。

ガルドは、斬らなかった。

五。

ガルドの目が、レオニスではなく、どこか遠くを見ていた。

自分の剣の先を、初めて見るもののように、見ていた。

六。

何かを、思い出そうとしているような顔だった。

七。

思い出せない、という顔だった。

八。

九。

十。

息が戻った。

ほんの、少しだけ。

レオニスは、右の剣を杖にして、立ち上がった。

ガルドは、半歩、下がった。

剣を下げた。

「……少し、待ってやる」

ガルドは言った。

自分の剣を、見たまま。

「それが、筋だろう。おまえは、浅瀬で、俺の兵を刺させなかった」


レオニスは、振り返った。

ノエラが、岩陰から、出てきていた。

帳面を握っていた。指が炭で黒かった。

「ノエラ」

「盟主」

ノエラの声は、平らだった。

平らなまま、震えていた。

「数えました」

「何を」

「尾根に、上がれた人の数です。ヤンの合図で、わかります。……本隊の残りと、砦の非戦闘員と」

ノエラは、息を吸った。

「川下の村の、百四十一。全員、尾根にいます」

レオニスは、ノエラを見た。

「あなたは、間違えました」

ノエラは言った。

「正面は割れました。死なせた人の数も、もう、書きました。私の策なら、もっと少なかった。……それでも」

ノエラの声が、初めて、割れた。

「百四十一は、帳面から、消えていません」

レオニスは、笑った。

声が出なかった。

息が足りなかった。

だから、笑っただけだった。

「……おまえの数字は、たぶん、正しかった」

レオニスは、かすれた声で言った。

「俺の顔も、たぶん、正しかった。……どっちかだけじゃ、駄目だったんだな。去年の秋も、今日も」

ノエラは、唇を噛んだ。

「二人で、やれば、よかった」

「はい」

ノエラは、頷いた。

何度も、頷いた。


レオニスは、ノエラの手から、帳面を取った。

炭筆も。

名前の頁をめくった。三百十二より多い、名前の頁。その最後の、空いたところに。

右手で書いた。

左手は、もう、帳面を押さえることもできなかった。ノエラが、横から、頁を押さえた。

短い文だった。

ノエラは、それを読まなかった。

読まないように、目を逸らしていた。

レオニスは、帳面を閉じて、ノエラの胸に押しつけた。

「今は、読むな」

「……いつ、読めば」

「おまえが、数えなくてもいいと思った時だ」

それから、右の剣を、鞘ごと、背中から外した。

「これも、持ってけ」

ノエラは、受け取らなかった。

両手が、帳面で塞がっていた。

レオニスは、剣の鞘の紐を、ノエラの肩にかけた。結び目は、不格好だった。片手では、うまく結べなかった。

あの坊主の結び目に、少し似ていた。

「あいつに、渡すかどうかは、おまえが決めろ。おまえが数えて、決めろ」

「盟主」

「レオニスだ」

レオニスは言った。

「最後くらい、名前で呼べ」

ノエラの顔が、くしゃりと、歪んだ。

「……レオニス」

「よし」

レオニスは、ノエラの背中を、尾根のほうへ押した。

「数えに行け。上の連中を。……一人も、こぼすなよ」


ノエラは、走った。

何度も、振り返りながら。

レオニスは、それを見なかった。

見たら、たぶん、立っていられなくなる。

ガルドのほうを向いた。

ガルドは、待っていた。剣を下げたまま。

その後ろで、帝国兵の列が、焦れて、ざわめいていた。

殿の十五人が、レオニスの両側に並んだ。髭の幹部が、旗の竿を握り直した。

「行かせたのか。あの軍師を」

「ああ」

「去年の秋に、半分を死なせた軍師を」

「ああ」

髭の幹部は、鼻を鳴らした。

「……あんたにしては、いい判断だ」

レオニスは、笑った。

手の中に剣はなかった。左の剣の、柄だけが残っていた。刃のない、柄だけ。

それでよかった。

風は、剣がなくても、乗る。

ただ、隙間を通る風ではなく。

隙間を、塞ぐ風なら。

レオニスは、息を吸った。

肺の、一番底まで。

これが最後の一息になると、わかっていた。

吐いた。

沢の入口に、風が立った。

通るための風ではなかった。

誰も、通さないための風だった。

帝国兵の列が、その前で止まった。

ガルドだけが、風の中に立っていた。

剣を構えなかった。

ただ、レオニスを見ていた。

一。

二。

喉が鳴らなかった。

三。

四。

尾根の上で、誰かが、こっちを見ている気がした。

五。

盾を持った、坊主が。

六。

七。

息は、戻ってこなかった。

八。

レオニスは、膝をついた。

九。

ガルドが、ゆっくりと、こちらへ歩いてきた。

その足元に、夕日を受けた、小さな欠片が落ちていた。左の剣の、欠片。

ガルドは、しゃがんで、それを拾った。

外套の内側にしまった。

その手つきが、ひどく、丁寧だった。

十。

レオニスは、数えるのをやめた。

風は、まだ、吹いていた。

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