第50話 沢の道
「倉を開けろ」
ベックが言った。
トマの話が終わって、まだ十も数えていなかった。
「全員、北だ。丘陵の尾根まで、今日のうちに上がる」
ゴードンが、倉の扉の前から、ベックを見た。
「年寄りと、乳飲み子もいるぞ」
「知ってる。だから、今だ」
ベックの片方だけの目は、もう川上を見ていなかった。北の丘陵の、霞んだ尾根を見ていた。
「正面が割れたなら、帝国は、砦を越えて、こっちの道にも来る。今夜、ここにいたら、倉ごと終わる」
ハルトは、昨日の夜の軍議を知らなかった。
ノエラが何を出して、何を退けられたのかも。
けれど、ベックの声がどこかで誰かの言葉をなぞっているのだけは、わかった。
倉の扉が開いた。
年寄りと子供と女たちが、光に目を細めながら出てきた。
冠の女の子が、ゴードンの足元で立ち止まった。
ゴードンはしゃがんで、その子を抱き上げた。
今度は、顔を見た。
見てから、肩に乗せた。
「掴まってろ。髭を引っ張ってもいい」
女の子は、言われたとおりに、ゴードンの髭を掴んだ。
ゴードンは、少しだけ顔をしかめた。
北への道は、麦畑の畦からすぐに、石の多い坂になった。
荷車は、二台しか通れなかった。歩けない年寄りを乗せた。乳飲み子を抱いた女たちが、その横を歩いた。
ネリの鎌の年寄りは、荷車に乗るのを断った。
「歩ける。……まだ、刈り入れの鎌を、握れるうちは」
ユノが、年寄りの腕を取った。
リュネは、自分では歩けなかった。
三回目を使わないまま、体がもう冷えきっていた。歯の鳴る音が、止まらなかった。
ロブが、リュネを背負った。
「軽いな、魔導師様は」
「……う、うるさい。ば、か」
リュネの唇は、まだ紫色だった。
ハルトは、最後尾についた。
盾を、背中の側に回した。後ろから来るものを、受けるために。
坂の途中で、ハルトは一度だけ振り返った。
川上の空の煙は、もう、一本ではなかった。
砦のあった辺りから、何本も。
ネリの炉。補給の天幕。門の脇の焚き火。
全部、あの煙の下だった。
「止まるな」
ベックが前から言った。
ハルトは、前を向いた。
尾根に着いたのは、日が傾いてからだった。
尾根の向こう側の、浅い窪地に人がいた。
たくさんの人が、座り込んでいた。
橙と藍の布を巻いた者たち。巻いていない者たち。担架。血の滲んだ包帯。槍を杖にして、立ったまま眠っている者。
砦から沢の道を上がってきた者たちだった。
ハルトは、窪地を見渡した。
数えようとして、やめた。
ノエラなら、数えられる。自分には、無理だった。
「ハルト」
ヤンが、窪地の縁から駆けてきた。
外套の片袖が、なくなっていた。顔の半分が、煤と血で黒かった。
ヤンは、ハルトの顔を見て、それから、ハルトの後ろの列を見た。
年寄りを乗せた荷車。ゴードンの肩の女の子。ロブの背中のリュネ。
「……村の人たちも」
ヤンの声が、ひどく揺れた。
丁寧さが、保たれていなかった。
「よかった。……よかった」
ヤンは、知っていることを話した。
将軍は、本当に舟の一番前にいた。
盟主は、風を起こして、正面の舟の列の隙間を通ろうとした。
将軍の剣が、一度動いた。
それだけで、風が止まった。
「斬られた、んです。風が」
ヤンは、自分の言っていることがわからない顔をしていた。
「盟主の剣でも、盟主の体でもなくて。風、そのものが。……俺には、そうとしか、見えませんでした」
盟主は通れずに、土手に押し戻された。
本隊が割れた。
そこからは、ノエラが叫んでいた。沢の道。沢の道を。新兵の組は、知っているはず。ベックが教えたはず。
新兵たちは、知っていた。
だから、ここに、これだけの人がいる。
「盟主は」
ハルトは、聞いた。
ヤンは、沢の下を見た。
「沢の入口に、残りました。古参の隊長たちと、二十人くらいで。……帝国が、沢を、上がってこられないように」
ヤンは、唇を噛んだ。
「ノエラさんも、残りました」
ハルトは、ヤンを見た。
「盟主に、行けって、言われたのに。……数えるのが、私の仕事です、って」
窪地の隅で、ネリが座り込んでいた。
膝の上に、槌を一本抱えていた。
鉄床も、鞴も、なかった。
「ネリさん」
ハルトが言うと、ネリは、顔を上げた。
煤だらけの顔に、涙の筋が二本通っていた。
「炉、置いてきちゃった」
ネリは、笑おうとした。
「爺ちゃんの槌だけ、持ってきた。これだけは。……鉄床は、重くて、無理だった。背負おうとしたら、ヤンに、殴られた」
ネリは、槌の柄をぎゅっと握った。
眼鏡の革紐に結んだ、橙と藍の布が揺れていた。
「ねえ、ハルト」
ネリは、ハルトをまっすぐ見た。
「割れて、ないよね。その盾」
ハルトは、盾を見た。
鉄の帯の下で、木がずれていた。村の柵で聞いた音のまま。
外からは、見えなかった。
「……まだ」
ハルトは言った。
自分の口から、敬語が抜け落ちていた。
気づいたのは、言ってからだった。
「まだ、割れてない。ネリ」
ネリは、少しだけ目を見開いた。
それから、頷いた。
「うん。……まだ、だね」
窪地の反対側に、オットがいた。
杖が折れていた。
砦から沢の道を這うようにして上がってきたのだと、隣にいたマーサが言った。マーサも、杖をついていた。二人で、互いの肩を貸し合って。
「踊れねえどころか、歩けもしねえ」
オットは、笑った。
「でも、上がってきたぞ。ハルト。……盾、なかったけどな」
ハルトは、オットの隣にしゃがんだ。
右手で、オットの肩を叩こうとした。
右手は、盾の持ち手に縛りつけたままだった。
左手で叩いた。
オットの肩は、温かいはずだった。
何も、届かなかった。
日が沈みかけていた。
ハルトは、窪地の縁に立って、沢を見下ろした。
尾根から、沢がまっすぐ下っていた。砦の裏まで、涸れた沢が三つ。その一番下の、林が切れたところ。
沢の入口。
遠すぎて、人の顔は見えなかった。
橙の旗が一本、立っていた。
その前に、小さな影が並んでいた。二十と、少し。
その向こうから、黒い波のようなものが寄せていた。帝国兵だった。将軍旗が、その波の後ろで揺れていた。
波が、影の列にぶつかった。
その時。
沢の底から、風が駆け上がってきた。
枯れ草が一斉に、尾根のほうへ倒れた。下から上へ。麦畑で見た時と、同じように。
風が尾根を越えた。
ハルトの頬を、撫でていった。
冷たいとも、温かいとも、わからなかった。
ただ、通っていった。
隙間を。
ハルトの、どこかの、隙間を。
「……レオニスさん」
ハルトは、言った。
声が、平らではなかった。
自分でも、驚くほど。
背中で、誰かが、ハルトの外套を掴んだ。
ベックだった。
「行くな」
ベックは、片方だけの目で、沢の入口を見ていた。
「あの人が、二十人で、あそこに立ってるのは。……おまえが、ここで、この窪地を背負うためだ」
ハルトは、窪地を振り返った。
座り込んだ兵たち。担架。荷車の年寄り。ゴードンの肩で眠った女の子。ロブの横で震えているリュネ。槌を抱えたネリ。折れた杖のオット。マーサ。トマ。ユノ。
その全員が、こちらを見ていた。
ハルトの盾を見ていた。
沢の底から、もう一度、風が上がってきた。
さっきより、ずっと弱かった。
尾根に届かなかった。
途中で、枯れ草を半分だけ倒して消えた。
ハルトは、右手を見た。
灰色の指が、盾の持ち手を握りしめていた。
引き絞られた弦のように。
まだ、放されないまま。




