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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第49話 倉

角笛が三度鳴った時、ハルトは川下の村の柵の内側にいた。

夜のうちに、ベックの組と、弓の古参兵と、ゴードンとリュネが、砦から村へ移っていた。村の男たちが、麦畑の縁に刈り残しの麦束と荷車を積んで、柵を継ぎ足していた。

砦の角笛ではなかった。

砦と村の間の丘に、ヤンが見張りを一人ずつ置いていた。砦の角笛を、丘から丘へ繋いで届ける。半日の道のりを、角笛ならすぐに越えた。

渡し場の正面で、戦が始まった合図だった。

ここからは、何も見えなかった。川の曲がり目と、土手の林と、半日分の距離が、全部を隠していた。見えるのは、ずっと川上の空に、細く立ちのぼり始めた煙だけだった。

それからも、角笛は時々丘を渡ってきた。まだ持っている。まだ持っている、と。

「見るな」

ベックが言った。

「向こうは、向こうの仕事だ。こっちは、こっちの柵だけ見てろ」

ハルトは、川を見た。

対岸の土手に、人影が並び始めていた。夜明けの靄の中で、数えられなかった。


村の年寄りと子供たちは、広場の奥の、石造りの麦の倉に入っていた。

壁の厚い、入口が一つだけの倉だった。

ハルトは、夜のうちに、その入口を一度だけ見に行った。

扉の前で足が止まった。

ベルナの、穀物蔵。

崩れた梁。塞がれた入口。中から聞こえていた声。

その先のことも、ハルトは覚えていた。忘れたのは、その前の、一日だけだった。

「入口が一つで、守りやすい」

倉の前で、ゴードンが言った。斧の柄を肩に担いでいた。

「……塞がれたら、終わりだがな」

ゴードンも、ベルナの穀物蔵を見ていた。

「だから、塞がせん」

ゴードンは、倉の扉の前に自分の足で立った。

収穫祭の夜に麦わらの冠を被っていた女の子が、倉の扉の隙間から、ゴードンを見上げていた。

ゴードンは、その子の顔を見なかった。

見たら、たぶん、立っていられなくなるのだと、ハルトは思った。


舟が来た。

靄の中から、平たい舟が何艘も、黙って滑り出てきた。帝国兵が盾を並べて、舟の縁に身を伏せていた。

「まだだ」

ベックが言った。

舟が、川の半ばを越えた。

「まだだ」

ハルトの右手は、もう盾の持ち手に縛りつけてあった。歯と、左手で、夜明け前に結んだ。

結び目は、相変わらず不格好だった。

舟の先が、こちら側の浅瀬の底を擦った。

「リュネ」

「わかってる」

リュネが、長杖を川面に向けて構えた。

杖の先の触媒が、青く光った。

浅瀬の水が、ざわりと、震えた。

舟から飛び降りた帝国兵の足が、膝まで沈んだ。もう一歩で、腰まで。浅瀬の砂が、底から泥に変わっていく。水の温度と重さを、組み替えているのだと、リュネは前に言っていた。

帝国兵が、泥の中でもがいた。

「今だ」

弓の古参兵たちの弦が、一斉に鳴った。

ユノの矢が、その中に混じっていた。風の紋が矢を押した。泥に足を取られた兵の、盾の縁を越えて。

ハルトは、ユノの矢が当たった兵を見なかった。

見ないようにした。

リュネが杖を下ろした。

唇が、紫色になっていた。指先が、細かく震えていた。

「……三回」

リュネは、自分の指を見て言った。

「三回が、限界。四回目は、たぶん、私が泥になる」

「リュネ」

「理論的には、って言いたいけど。今日は、勘」

リュネは、震える手で杖を握り直した。

「ふん。……まだ、二回ある」


泥の浅瀬を越えた兵たちが、麦畑の縁の柵に取りついた。

ハルトは、柵の継ぎ目の前に立った。

麦束と荷車を積んだ、一番弱いところ。

柵が揺れた。

向こう側から、槍の穂先が麦束の隙間を突いてきた。

ハルトは、盾で受けた。

衝撃が、腕を伝って、肩へ来た。

痛くなかった。

冷たかった。

右手の灰色の縁から、冷えがまた這い上がってきた。肘を越えて、肩へ。春から何度も、同じだった。

それなのに、灰色は、広がらなかった。

手首の上、指二本分のまま。

張りつめた弦のまま。

柵の向こうで、帝国兵が荷車を押し倒そうとしていた。

「ロブ!」

「おう!」

ロブの槍が、荷車の下の隙間から、帝国兵の足を払った。

隣で、村の男たちが鍬と鎌を握って、柵の内側に並んでいた。

その中に、ネリの鎌を握った年寄りがいた。

収穫祭の夜に、「いい鎌だ」と言った、あの年寄りだった。

年寄りは、鎌を、麦を刈る時と同じ高さに構えていた。

戦い方を知らなかった。

柵の隙間から、帝国兵の槍が年寄りの胸に向かって突き出された。

ハルトは、盾を横から差し込んだ。

二人分。

穂先が、盾の鉄の帯を擦って、滑った。

盾が軋んだ。

ゴードンが巻いた鉄の帯の下で、木がぎしりと鳴った。

前にも、聞いた音だった。浅瀬で。坂の上で。

けれど、今度の音は前より深かった。

木の奥の、どこかで、何かがずれる音だった。

ハルトは、それを聞かなかったことにした。


どれくらい受け続けたのか、わからなかった。

日が、靄の上に出ていた。

麦畑の半分が、踏み倒されていた。

柵の内側で、村の男が二人、倒れていた。ベックの組の古参兵が一人、柵にもたれて、動かなくなっていた。ハルトは、その兵の名前を知らなかった。

ノエラなら、知っているはずだった。

ユノの矢筒は、空に近かった。

リュネは、二回目の泥のあと、麦束の陰に座り込んで、膝を抱えていた。歯が鳴っていた。

三回目は、まだ使っていなかった。

「……残してるの」

ハルトが聞くと、リュネは、紫の唇で言った。

「最後の一回は、倉の前に、取っておく」

それから、目を逸らした。

「ばか。そんな顔、しないで」

ハルトは、自分がどんな顔をしているのか、わからなかった。


帝国兵の攻めが止んだ。

不意にだった。

柵の向こうで、角笛が鳴った。短く、二度。

帝国兵が、泥の浅瀬へ退いていった。倒れた仲間を、引きずりながら。舟に乗り込み、対岸へ。

追う者は、いなかった。追う力が、誰にも残っていなかった。

「……勝ったのか」

ロブが、槍に寄りかかって言った。

誰も、答えなかった。

ベックが、片方だけの目で、退いていく舟を見ていた。

「早すぎる」

ベックは言った。

「三百で来て、半分も減ってない。……押し切れたはずだ。なのに、引いた」

ハルトも、舟を見た。

舟は、対岸に着いても、兵を降ろさなかった。

そのまま、岸に沿って、川上へ。

渡し場の、方角へ。

ハルトの背中を、冷たいものが這い上がった。

灰色の冷えとは、違う冷たさだった。

「……ここに、俺たちを、置いておくためだった」

ハルトは言った。

声が平らだった。

「村を、見捨てないって、わかってたから。ここに三百を見せて、こっちの組を、ここに縛って。……向こうの、正面を」

ベックは、何も言わなかった。

片方だけの目が、川上を見ていた。

川上の空の煙が、いつの間にか太くなっていた。


丘の角笛が、聞こえなくなっていた。

まだ持っている、という合図が。

いつから止んでいたのか、誰も気づいていなかった。柵の前で、それどころではなかった。

静かだった。

麦畑の上を風が渡った。踏み倒された麦が、少しだけ揺れた。

その静けさが、ハルトには何よりも怖かった。

日が高くなった頃、川沿いの道を、誰かが走ってきた。

一人だった。

脚を少しだけ引きずっていた。

トマだった。

砦の門の見張りに、残っていたはずの。

トマは、柵の手前で膝をついた。息が、喉で、ひゅうひゅうと鳴っていた。

「トマさん」

ハルトは柵を越えて、駆け寄った。

トマは、ハルトの外套を掴んだ。

指が震えていた。

「……逃げたく、なったら、言えって。言ってから、行けって」

トマは、笑おうとして、笑えなかった。

「言う相手が、いなかった。……だから、こっちに、走ってきた」

「何が」

トマは、川上を見た。

「将軍が、川を、渡った」

ハルトの指が、盾の持ち手の上で固まった。

「一人で、前に出てきた。舟の、一番前に。……盟主が、風で、通ろうとした。いつもみたいに。隙間を」

トマの声が掠れた。

「通れなかった」

風が止んだ。

麦畑の上の、風が。

「正面が、割れた。……ノエラさんが、沢の道を、って。叫んでて」

トマは、ハルトの外套をもう一度強く掴んだ。

「盟主が、残るって。……殿に、残るって、言ってた」

ハルトは、川上を見た。

川上の空で、煙が黒くなっていた。

背中で、ベックが組の名前を一つずつ呼び始めていた。

右手が冷たかった。

灰色の指が、盾の持ち手を握りしめていた。

握ったまま、放されないまま。

弦が鳴った気がした。

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