↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/90

第48話 三百十二

--- ノエラ視点 ---

天幕、四百七十。

ノエラは、帳面の欄に、その数を書き入れた。

対岸の土手に、夜明けから昼までかけて数えた数だった。一つの天幕に四人として、千八百八十。炊事の煙の数から割り出すと、千六百から二千。騎馬は、少なく見ても二百。

こちらは、三百十二。

戦える者の数だ。怪我人と、年寄りと、子供と、砦に流れ込んだベルナの避難民を除いて。

三百十二。

ノエラは、その数字の上で炭筆を止めた。

一人ずつの顔が、浮かびかけた。

浮かぶ前に帳面を閉じた。


ヤンが、昼過ぎに戻ってきた。

「舟を組んでいます。渡し場の正面に、春の倍。それから」

ヤンは、地図の上の川下の一点を指した。

「三百ほどの別働隊が、川沿いを下っています。向こう岸を。……川下の村の、対岸の辺りへ」

天幕の中の空気が、変わった。

ノエラは、その一点を見た。

川下の村。

収穫祭の夜、麦わらの冠の子供たちが、焚き火の周りを走っていた村。

ノエラは、自分の帳面の絵の頁を思い出した。下手な線で、何度も描き直した、冠の子供。

それから、地図を見た。

渡し場の正面に、舟。川下に、三百。

二つの線が、地図の上でこちらの砦を挟んでいた。

「見せています」

ノエラは言った。

自分の声が、ひどく平らに聞こえた。

「舟も、別働隊も、隠していません。見せています。……見せているなら、本当に狙っているのは、そこではないかもしれない。でも、見せているものに、こちらが動かないとも、向こうは思っていない」

ノエラは、地図の上で炭筆を走らせた。

「川下の村を、こちらが見捨てないことを、向こうは知っています。夏の初めの徴発隊を、村で迎えたことを。捕虜の交換で、盟主が誰も刺させなかったことを。……あの川の向こうには、それを数えている人がいます」

浅瀬を読んだ、同じ記録を読む目。

ノエラは、その目の持ち主を知らなかった。

けれど、その目が、自分と同じように、人を数えることだけは、わかった。


軍議は、日が傾いてから開かれた。

天幕に、幹部が全員揃った。レオニス。年かさの髭の幹部。ベック。古参の隊長たち。ゴードン。それから、補給係のノエラ。

ノエラは、地図の前に立った。

立つ前に、指の震えを、帳面の端を握って止めた。

「砦を、捨てます」

天幕が静まり返った。

「今夜のうちに、川下の村の人々を、砦の非戦闘員と一緒に、北の丘陵へ逃がします。兵は、丘陵の尾根まで引きます。砦と、収穫と、川下の村は、捨てます」

炭筆で、北の尾根を指した。

「尾根なら、二千の軍は、一度に上がれません。補給も続きません。帝国は、空の砦と空の村を焼いて、冬の前に引き上げます。……こちらの死者は、計算の上では、ほとんど出ません」

髭の幹部が、腕を組んだまま低く唸った。

「理屈は、通っている」

意外な声だった。ノエラは、髭の幹部を見た。

「去年の秋に、半分を死なせた軍師の策だがな。……理屈は、通っている。俺は、乗る」

ベックは、何も言わなかった。片方だけの目で、地図の尾根をじっと見ていた。

ゴードンも、黙っていた。

ノエラは、最後にレオニスを見た。

レオニスは、地図を見ていなかった。

ノエラを見ていた。


「村の人は、何人だ」

レオニスが言った。

「川下の村です」

「わかってる。何人だ」

ノエラは、答えた。

「百四十一。そのうち、歩けない年寄りが、十一。乳飲み子が、六」

「北の丘陵まで、何日かかる」

「……二日です。年寄りと子供を連れて」

「その二日の間に、川下の三百が、渡ってきたら」

ノエラは、炭筆を握りしめた。

数えていた。その数も、もう、数えていた。

「追いつかれます。……一部は」

「一部は、何人だ」

ノエラは、答えなかった。

答えられなかった。

レオニスは立ち上がって、地図の前に来た。

ノエラの隣に並んだ。

「村を捨てて、丘へ逃げる。帝国は、空の村を焼く。逃げ遅れた年寄りと子供を、川下の三百が、街道で拾う」

レオニスの声は、静かだった。

責める声ではなかった。夏の初めに、徴発隊の軍議で聞いた声と同じだった。

「それは、切り捨てだ」

ノエラの指が、帳面の端を強く握った。

「俺たちは、川で受ける。渡し場の正面は、本隊で。川下の村は、ベックの組と、弓と、ゴードンさんで守る。三百なら、村の柵と麦畑で受けられる。……夏の初めに、受けた」

「あの時は、三十でした」

ノエラの声が、初めて、平らでなくなった。

「徴発隊は、三十。今度は、三百です。渡し場の正面は、千五百を超えます。こちらは、三百十二です。分ければ、どちらも」

「わかってる」

レオニスは、ノエラを見た。

「おまえの数字は、たぶん、正しい」

その目は、笑っていなかった。

「だが、百四十一を帳面から消して、三百十二を残すのが正しいなら、俺は、この旗を掲げた意味がない」

天幕の中で、誰も、息をしなかった。

ノエラは、口を開いた。

数字が、喉まで上がってきた。千五百。三百十二。分けた時の、それぞれの数。持ちこたえられる刻限。死ぬ人の、およその数。

全部、言えた。

言えば、通るかもしれなかった。

けれど、口から出てきたのは、数字ではなかった。

「……百四十一は」

声が掠れた。

「消せません」


去年の秋も、そうだった。

別の砦の、軍議の天幕。

北の砦が、帝国に囲まれていた。救援を求める使いが、血だらけで辿り着いた。砦には、町から逃げ込んだ人々も含めて、三百人が残っていると、使いは言った。

ノエラは、数字で反対した。救援に出れば、こちらが空く。北への道は一本しかない。間に合う見込みは、半分もない。

レオニスは、使いの顔を見て、言った。

この男は、三日走ってきた。三百人の顔を背負って。おまえは、その三百を、帳面から消せるのか。

ノエラは、消せなかった。

何も、言えなくなった。

旗団は、出た。

出ると決まってから、ノエラは、策を立てた。道も、刻限も、兵の置き方も。

北の砦に、着くまでは、全部、正しかった。

着いてから、崩れた。

ノエラは、兵を数で置いた。三日走ってきた足が、どれだけ重いかを、数に入れなかった。紋を使った者が、次にどれだけ使えるかを、数に入れなかった。

帳面の上では、持ちこたえるはずの場所が、持ちこたえなかった。

帰ってきたのは、半分だった。

ノエラは、帰ってきた者を数え、帰ってこなかった者を数えた。名前を一つずつ。ベックの左目の傷は、その時に、ノエラが帳面に書いた。

北の砦の三百人が、どうなったのかを、ノエラは、今も知らない。


軍議が終わって、天幕から幹部たちが出ていった。

ノエラは、地図の前に一人で残っていた。

レオニスが、出口で足を止めた。

「ノエラ」

「はい」

「数えておいてくれ」

ノエラは、顔を上げた。

レオニスは、背中を向けたまま、言った。

「俺が間違えた時に、何人で済むか。……おまえにしか、数えられない」

それから、出ていこうとして、もう一度、止まった。

左手を、外套の中で、握ったり、開いたりしていた。握りきれずに、指が途中で止まる。

ノエラは、それを見た。

見て、数えた。

握れなかった回数。三回。

「盟主」

レオニスは、振り返らなかった。

「その手のこと、私は、帳面に書いていません」

レオニスの肩が、少しだけ揺れた。

笑ったのだと、わかった。

「あいつ、言ったのか」

「誰も、何も言っていません」

ノエラは言った。

「私が、数えただけです」

レオニスは、しばらく、黙っていた。

「書かないでくれ」

「……書きません」

天幕の布が、揺れて、閉じた。


ノエラは、その夜、眠らなかった。

地図の上に、もう一本線を引いた。

砦の裏から、涸れた沢を伝って、北の尾根へ抜ける道。初夏に、レオニスがトマを背負って下ってきた沢だった。

崩れた時に、逃げる道だった。

誰にも、言わなかった。

言えば、レオニスの策を、信じていないことになる。

それでも、引いた。

夜明け前、ノエラは補給の天幕を出て、新兵の組の天幕を探した。

ベックが、天幕の外で槍の穂先を研いでいた。眠っていないのは、自分だけではなかった。

ノエラは、ベックに地図を見せた。

ベックは、片方だけの目でその線を、長いこと見ていた。

「去年の秋に、この道があればな」

それだけ言って、地図を返した。

「覚えた。新兵どもにも、教えておく」

「盟主には」

「言わん」

ベックは、砥石を動かし始めた。

「言わなくても、あの人は、わかってる」


補給の天幕に戻って、ノエラは帳面の新しい頁を開いた。

三百十二。

その数字を書かなかった。

かわりに名前を書いた。

レオニス。ベック。ヤン。ゴードン。ロブ。トマ。ユノ。リュネ。ハルト。

一人ずつ。

知っている名前を、全部。知らない名前は、天幕を回って、聞いて書いた。古参兵たちは、怪訝な顔をして、それでも、名前を言った。

ネリ。オット。マーサ。

非戦闘員の名前も、書いた。数えるためではなかった。

最後の一人を書き終えた時、東の空が白み始めていた。

ノエラは頁をめくって、名前を数えた。

三百十二ではなかった。

もっと、多かった。

帳面の上に、炭筆の粉が落ちていた。指が黒く汚れていた。

天幕の外で角笛が鳴った。

短く、三度。

対岸の舟が、動き出した合図だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。