第48話 三百十二
--- ノエラ視点 ---
天幕、四百七十。
ノエラは、帳面の欄に、その数を書き入れた。
対岸の土手に、夜明けから昼までかけて数えた数だった。一つの天幕に四人として、千八百八十。炊事の煙の数から割り出すと、千六百から二千。騎馬は、少なく見ても二百。
こちらは、三百十二。
戦える者の数だ。怪我人と、年寄りと、子供と、砦に流れ込んだベルナの避難民を除いて。
三百十二。
ノエラは、その数字の上で炭筆を止めた。
一人ずつの顔が、浮かびかけた。
浮かぶ前に帳面を閉じた。
ヤンが、昼過ぎに戻ってきた。
「舟を組んでいます。渡し場の正面に、春の倍。それから」
ヤンは、地図の上の川下の一点を指した。
「三百ほどの別働隊が、川沿いを下っています。向こう岸を。……川下の村の、対岸の辺りへ」
天幕の中の空気が、変わった。
ノエラは、その一点を見た。
川下の村。
収穫祭の夜、麦わらの冠の子供たちが、焚き火の周りを走っていた村。
ノエラは、自分の帳面の絵の頁を思い出した。下手な線で、何度も描き直した、冠の子供。
それから、地図を見た。
渡し場の正面に、舟。川下に、三百。
二つの線が、地図の上でこちらの砦を挟んでいた。
「見せています」
ノエラは言った。
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「舟も、別働隊も、隠していません。見せています。……見せているなら、本当に狙っているのは、そこではないかもしれない。でも、見せているものに、こちらが動かないとも、向こうは思っていない」
ノエラは、地図の上で炭筆を走らせた。
「川下の村を、こちらが見捨てないことを、向こうは知っています。夏の初めの徴発隊を、村で迎えたことを。捕虜の交換で、盟主が誰も刺させなかったことを。……あの川の向こうには、それを数えている人がいます」
浅瀬を読んだ、同じ記録を読む目。
ノエラは、その目の持ち主を知らなかった。
けれど、その目が、自分と同じように、人を数えることだけは、わかった。
軍議は、日が傾いてから開かれた。
天幕に、幹部が全員揃った。レオニス。年かさの髭の幹部。ベック。古参の隊長たち。ゴードン。それから、補給係のノエラ。
ノエラは、地図の前に立った。
立つ前に、指の震えを、帳面の端を握って止めた。
「砦を、捨てます」
天幕が静まり返った。
「今夜のうちに、川下の村の人々を、砦の非戦闘員と一緒に、北の丘陵へ逃がします。兵は、丘陵の尾根まで引きます。砦と、収穫と、川下の村は、捨てます」
炭筆で、北の尾根を指した。
「尾根なら、二千の軍は、一度に上がれません。補給も続きません。帝国は、空の砦と空の村を焼いて、冬の前に引き上げます。……こちらの死者は、計算の上では、ほとんど出ません」
髭の幹部が、腕を組んだまま低く唸った。
「理屈は、通っている」
意外な声だった。ノエラは、髭の幹部を見た。
「去年の秋に、半分を死なせた軍師の策だがな。……理屈は、通っている。俺は、乗る」
ベックは、何も言わなかった。片方だけの目で、地図の尾根をじっと見ていた。
ゴードンも、黙っていた。
ノエラは、最後にレオニスを見た。
レオニスは、地図を見ていなかった。
ノエラを見ていた。
「村の人は、何人だ」
レオニスが言った。
「川下の村です」
「わかってる。何人だ」
ノエラは、答えた。
「百四十一。そのうち、歩けない年寄りが、十一。乳飲み子が、六」
「北の丘陵まで、何日かかる」
「……二日です。年寄りと子供を連れて」
「その二日の間に、川下の三百が、渡ってきたら」
ノエラは、炭筆を握りしめた。
数えていた。その数も、もう、数えていた。
「追いつかれます。……一部は」
「一部は、何人だ」
ノエラは、答えなかった。
答えられなかった。
レオニスは立ち上がって、地図の前に来た。
ノエラの隣に並んだ。
「村を捨てて、丘へ逃げる。帝国は、空の村を焼く。逃げ遅れた年寄りと子供を、川下の三百が、街道で拾う」
レオニスの声は、静かだった。
責める声ではなかった。夏の初めに、徴発隊の軍議で聞いた声と同じだった。
「それは、切り捨てだ」
ノエラの指が、帳面の端を強く握った。
「俺たちは、川で受ける。渡し場の正面は、本隊で。川下の村は、ベックの組と、弓と、ゴードンさんで守る。三百なら、村の柵と麦畑で受けられる。……夏の初めに、受けた」
「あの時は、三十でした」
ノエラの声が、初めて、平らでなくなった。
「徴発隊は、三十。今度は、三百です。渡し場の正面は、千五百を超えます。こちらは、三百十二です。分ければ、どちらも」
「わかってる」
レオニスは、ノエラを見た。
「おまえの数字は、たぶん、正しい」
その目は、笑っていなかった。
「だが、百四十一を帳面から消して、三百十二を残すのが正しいなら、俺は、この旗を掲げた意味がない」
天幕の中で、誰も、息をしなかった。
ノエラは、口を開いた。
数字が、喉まで上がってきた。千五百。三百十二。分けた時の、それぞれの数。持ちこたえられる刻限。死ぬ人の、およその数。
全部、言えた。
言えば、通るかもしれなかった。
けれど、口から出てきたのは、数字ではなかった。
「……百四十一は」
声が掠れた。
「消せません」
去年の秋も、そうだった。
別の砦の、軍議の天幕。
北の砦が、帝国に囲まれていた。救援を求める使いが、血だらけで辿り着いた。砦には、町から逃げ込んだ人々も含めて、三百人が残っていると、使いは言った。
ノエラは、数字で反対した。救援に出れば、こちらが空く。北への道は一本しかない。間に合う見込みは、半分もない。
レオニスは、使いの顔を見て、言った。
この男は、三日走ってきた。三百人の顔を背負って。おまえは、その三百を、帳面から消せるのか。
ノエラは、消せなかった。
何も、言えなくなった。
旗団は、出た。
出ると決まってから、ノエラは、策を立てた。道も、刻限も、兵の置き方も。
北の砦に、着くまでは、全部、正しかった。
着いてから、崩れた。
ノエラは、兵を数で置いた。三日走ってきた足が、どれだけ重いかを、数に入れなかった。紋を使った者が、次にどれだけ使えるかを、数に入れなかった。
帳面の上では、持ちこたえるはずの場所が、持ちこたえなかった。
帰ってきたのは、半分だった。
ノエラは、帰ってきた者を数え、帰ってこなかった者を数えた。名前を一つずつ。ベックの左目の傷は、その時に、ノエラが帳面に書いた。
北の砦の三百人が、どうなったのかを、ノエラは、今も知らない。
軍議が終わって、天幕から幹部たちが出ていった。
ノエラは、地図の前に一人で残っていた。
レオニスが、出口で足を止めた。
「ノエラ」
「はい」
「数えておいてくれ」
ノエラは、顔を上げた。
レオニスは、背中を向けたまま、言った。
「俺が間違えた時に、何人で済むか。……おまえにしか、数えられない」
それから、出ていこうとして、もう一度、止まった。
左手を、外套の中で、握ったり、開いたりしていた。握りきれずに、指が途中で止まる。
ノエラは、それを見た。
見て、数えた。
握れなかった回数。三回。
「盟主」
レオニスは、振り返らなかった。
「その手のこと、私は、帳面に書いていません」
レオニスの肩が、少しだけ揺れた。
笑ったのだと、わかった。
「あいつ、言ったのか」
「誰も、何も言っていません」
ノエラは言った。
「私が、数えただけです」
レオニスは、しばらく、黙っていた。
「書かないでくれ」
「……書きません」
天幕の布が、揺れて、閉じた。
ノエラは、その夜、眠らなかった。
地図の上に、もう一本線を引いた。
砦の裏から、涸れた沢を伝って、北の尾根へ抜ける道。初夏に、レオニスがトマを背負って下ってきた沢だった。
崩れた時に、逃げる道だった。
誰にも、言わなかった。
言えば、レオニスの策を、信じていないことになる。
それでも、引いた。
夜明け前、ノエラは補給の天幕を出て、新兵の組の天幕を探した。
ベックが、天幕の外で槍の穂先を研いでいた。眠っていないのは、自分だけではなかった。
ノエラは、ベックに地図を見せた。
ベックは、片方だけの目でその線を、長いこと見ていた。
「去年の秋に、この道があればな」
それだけ言って、地図を返した。
「覚えた。新兵どもにも、教えておく」
「盟主には」
「言わん」
ベックは、砥石を動かし始めた。
「言わなくても、あの人は、わかってる」
補給の天幕に戻って、ノエラは帳面の新しい頁を開いた。
三百十二。
その数字を書かなかった。
かわりに名前を書いた。
レオニス。ベック。ヤン。ゴードン。ロブ。トマ。ユノ。リュネ。ハルト。
一人ずつ。
知っている名前を、全部。知らない名前は、天幕を回って、聞いて書いた。古参兵たちは、怪訝な顔をして、それでも、名前を言った。
ネリ。オット。マーサ。
非戦闘員の名前も、書いた。数えるためではなかった。
最後の一人を書き終えた時、東の空が白み始めていた。
ノエラは頁をめくって、名前を数えた。
三百十二ではなかった。
もっと、多かった。
帳面の上に、炭筆の粉が落ちていた。指が黒く汚れていた。
天幕の外で角笛が鳴った。
短く、三度。
対岸の舟が、動き出した合図だった。




