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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第47話 収穫祭

夏が過ぎた。

帝国は、一度も川を渡ってこなかった。対岸の天幕は、春に比べればずっと少なく、時々、見回りの騎馬が土手を行き来するだけだった。

砦の隅には、ネリの炉がすっかり居ついていた。毎朝、槌の音で目が覚める。蹄鉄の釘、槍の穂先、鍋の取っ手。取っ手の継ぎ目は、もう瘤にはならなくなっていた。

ハルトの右手の灰色は、手首の上、指二本分のまま、止まっていた。

止まっている、とリュネは言った。広がってはいない。けれど、引いてもいない。

「張りつめた弦みたい」

リュネは、針で斑の縁を突きながら言った。

「引いたまま、放してない。……放したら、どこに飛ぶのか、私にもわからない」

ハルトには、その意味がよくわからなかった。

触れられた温かさは、まだ届いたり、届かなかったりしていた。


川下の村から、使いが来たのは、朝晩の風が冷たくなり始めた頃だった。

夏の初めに徴発隊のことを知らせに来た、あの男だった。

「今年は、麦が、一粒も持っていかれなかった」

男は、レオニスの前で、帽子を握りしめて言った。

「村の年寄りが、言ってる。旗団の連中を、収穫祭に呼べって。……大したもんは出せねえ。麦の粥と、焼いたパンと、去年の酒の残りくらいだけど」

レオニスは、笑った。

「行く」

即答だった。

「全員は無理だ。見張りは残す。だが、行ける奴は、全員行け」


村の広場には、刈り取ったばかりの麦の束が、輪のように積まれていた。

その真ん中で、焚き火が燃えていた。

村の女たちが、大鍋で麦の粥を煮ていた。男たちは、樽を転がしてきて、去年の酒の栓を抜いた。子供たちが、麦わらで編んだ冠を被って、焚き火の周りを走り回っていた。

旗団の兵たちは、最初、広場の端でどうしていいかわからない顔で立っていた。

それをマーサが崩した。

「ほら、突っ立ってないで。鍋を運ぶのを手伝いなさい」

マーサは、もう杖をついて立てるようになっていた。背中の傷は塞がったが、長くは立っていられない。それでも、村の女たちの輪の中に、あっという間に入っていった。

ゴードンは、その背中を広場の端から見ていた。

「あいつは、どこへ行っても、ああだ」

ぶっきらぼうな声だった。

けれど、その目は、マーサではなく、麦わらの冠を被った子供たちのほうを見ていた。

ミアと同じくらいの背丈の、女の子を。

ハルトは、何も言わなかった。

ゴードンも、それ以上、何も言わなかった。


焚き火の輪の中で、オットが杖をついて立っていた。

太腿の傷は、塞がっていた。けれど、脚は、元には戻らなかった。夏の間に、オットはそれに自分で気づいた。ベックが言ったとおりだった。

「踊れねえな、これじゃ」

オットは、笑った。

「ベルナの収穫祭じゃ、毎年、港の連中と夜通し踊ってたのに」

「座って見てればいいだろ」

ロブが、酒の椀を二つ持ってきて、一つをオットに渡した。

「ほら。甘くはないけどな」

ロブは、椀の中身を一口飲んで、顔をしかめた。

「……うちの村の林檎の酒のほうが、ずっと甘い」

「帰りたいか」

オットが聞いた。

ロブは、少しの間、焚き火を見ていた。

「帰りたいよ。今頃、村でも、収穫祭だ。弟たちが、林檎を盗み食いして、母ちゃんに怒られてる」

それから、ハルトのほうを見た。

「来年は、来いよ。二人とも。約束したからな」

ハルトは、頷いた。

ロブの言う「約束」が、春の薬師の天幕でのことだと、ハルトにはわかった。

その時、焚き火の向こうで、ユノがこちらを見ていた。

ハルトと目が合うと、ユノはすぐに目を逸らした。


広場の隅の村の鍛冶小屋の前に、人だかりができていた。

ネリだった。

村の年寄りの前に、何かを差し出していた。

鎌だった。

新しい、刃の細い鎌。柄は、村の木で作ったらしい、まだ白い木肌。刃は焚き火の光を受けて、鈍く光っていた。

「刈り入れには、間に合わなかったけど」

ネリは、少しだけ早口で言った。

「来年の分。……夏の初めに、ここの麦を守ってもらったお礼に、って、盟主が」

年寄りは、鎌を受け取って、刃を指でなぞった。

それから、目を細めた。

「いい鎌だ」

ネリの頬が、煤の下で赤くなった。

ハルトは、その鎌の刃を見た。

刃の根元に刻印があった。山を三つ重ねたような、小さな印。

その横にもう一つ。

槌の角で、一度だけ打ったような、小さな傷。

「……あの延べ棒」

ハルトが言うと、ネリはこちらを見ずに頷いた。

「爺ちゃんの鉄と、御者の鎖の鉄と、夏に村の連中が持ってきた古い鍬の鉄。三つ、混ぜた」

ネリは、前掛けの端を握った。

「爺ちゃんが見たら、怒る。濁ってるって」

それから、少しだけ、笑った。

「でも、一本、ちゃんと打てた」


ネリは、その夜、布を巻いた。

橙と藍の布。ノエラが、帳面に「鍛冶、一。布、一」と書いてから、渡したものだった。

ネリは、それを、腕ではなく、額に押し上げた眼鏡の革紐に結びつけた。

自分で結んだ。

「腕だと、槌を振る時に、邪魔だから」

結び目は、きれいだった。

ハルトの結び目より、ずっと。

「……上手いですね」

「鍛冶屋だもん。結び目くらい、作れなきゃ」

ネリは、眼鏡の紐を指で弾いた。

焚き火の向こうで、レオニスがこちらに椀を掲げていた。


レオニスは、よく喋った。

村の男たちと肩を組んで、去年の酒を飲み、子供たちに双剣の鞘を触らせて、年寄りの昔話に大げさに頷いていた。

息が途切れないように、と、ハルトは思った。

喋っている間は、息の仕方を忘れないから。

焚き火の輪の外れに、ノエラが座っていた。

帳面を、膝の上に開いていた。祭りの夜にも、何かを数えていた。

レオニスが、椀を二つ持って、ノエラの隣にどかりと座った。

「数えるな、今夜は」

「数えていません」

「じゃあ、何を書いてる」

ノエラは、帳面を閉じなかった。

ハルトの位置からは、その頁が見えた。

数字では、なかった。

麦わらの冠を被った子供の、小さな絵だった。下手な線で、何度も描き直してあった。

「……書いていません」

ノエラは言った。

レオニスは何も言わずに、椀を一つノエラの手に押しつけた。

ノエラは、それを受け取った。

飲まずに、両手で持っていた。

二人はしばらく何も言わずに、並んで焚き火を見ていた。

それだけだった。

それだけなのに、ハルトはなぜか、その二人から目が離せなかった。


門の見張りに残ったトマに、ハルトは、粥とパンを包んで持って帰った。

砦の門の脇で、トマは一人で焚き火の番をしていた。

「祭り、行かなかったんですか」

「誰かが、門にいなきゃな」

トマは、包みを受け取って、少しだけ笑った。

「……ありがとう、ハルト」

「トマさんの分です。半分こ、じゃなくて、全部」

トマは、パンを一口齧って、空を見上げた。

「牢にいた頃は、収穫祭のことなんか、考えなかった。考えたら、眠れなくなるからな」

それから、川下の村の方角を見た。焚き火の明かりが、遠くに小さく揺れていた。

「来年は、俺も行く」


ハルトが村へ戻ると、祭りは終わりかけていた。

子供たちは、母親の膝で眠っていた。焚き火は、熾火になっていた。

ユノが、広場の外れの麦の束の陰に座っていた。

ハルトは、その隣に座った。

しばらく、二人とも、何も言わなかった。

ユノの首の布飾りが、熾火の光で赤く見えた。

「ハル」

ユノが、熾火を見たまま言った。

「この春にね」

ユノの声は、小さかった。

「ベルナの宿の、屋根裏のバルコニーで。ハルとカインが、二人で約束してたの」

ハルトは、ユノを見た。

「……俺と、カインが」

「私、階段のところで、聞いちゃったの。上がっていこうとして、二人の声がしたから」

ユノは、膝を抱えた。

「カインが言ったの。来年の収穫祭は、みんなで行こうって。そしたら、ハルが、絶対行くって。ユノ姉も、リュネも、ミアもって。……二人で、手を握ってた」

ユノの指が、膝の上で赤い組み紐を握っていた。

ミアが結んだ、赤い組み紐。

「ハルは、覚えてないのよね。あの日のこと」

ハルトは、答えられなかった。

覚えていなかった。

ミアの町案内も、組み紐を結んでもらった時のことも、ゴードンの手紙も、バルコニーの約束も。

あの一日は、ハルトの中から、すっぽりと抜け落ちていた。

「ごめんね」

ユノが言った。

「言わないほうが、いいと思ってた。でも、今日、ロブが約束って言った時に、ハルが、何も知らない顔で頷いてて。……それが、なんだか、苦しくて」

ユノは、膝の上で、パンを二つに割った。

祭りの残りの、焼いた麦のパン。

半分を、ハルトに差し出した。

「半分こ」

ハルトは、受け取った。

パンは、まだ少しだけ温かかった。

温かい、はずだった。

指先に、何も届かなかった。

ハルトは、パンを口に入れた。味が遠かった。

ユノの声も。熾火の色も。約束の話も。

全部が、少しずつ、遠かった。

なのに。

胸の奥の、どこかが、きりきりと、引き絞られていた。

痛みではなかった。悲しみでもなかった。

ただ、何かが、細い弦のように、張りつめていた。

引いたまま。

放されないまま。

「……来年は」

ハルトは、言った。

声が、自分のものではないように、平らだった。

「来年は、みんなで、行こう」

ユノがハルトを見た。

それから、泣きそうな顔で笑った。

許しを求めるような笑い方では、なかった。

「うん」

ユノは言った。

ユノがさっき話した、カインの言葉と同じ言葉だった。ハルトは、言ってから、それに気づいた。

「今度は、ハルも、覚えててね」


砦に戻ったのは、夜更けだった。

門の前で、トマが立ち上がっていた。

その隣にヤンがいた。

息を切らしていた。肩で、大きく息をしていた。

「レオニスさんは」

ヤンは、ハルトの顔を見るなり、言った。

「後ろの列です。……何が」

ヤンは、川の方角を見た。

「対岸に、天幕が立ち始めました。夕方から、ずっと」

ヤンの声は、丁寧なままだった。

けれど、その丁寧さが、ぎりぎりのところで保たれていた。

「数えきれません。春の、三倍は、あります」

ハルトの背中を、冷たいものが這い上がった。

「それから」

ヤンは、ハルトの盾を見た。

「将軍旗です。……帝国旗の上に、剣を象った、銀の印」

熾火の匂いが、まだ外套に残っていた。

ハルトは、右手を見た。

灰色の指が、握った形のまま、盾の持ち手に貼りついていた。

いつから握っていたのか、わからなかった。

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