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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第46話 薬草の名前

--- カイン視点 ---

その客は、昼過ぎに一騎で来た。

供は連れていなかった。帝国の軍服の上に、旅の埃を被った外套。門の前で馬を降りると、まず手綱を門番に預け、それから、外套の埃を、白い手袋の手で払った。

払い終えるまで、一歩も、中へ入らなかった。

「ゼノビア!」

中庭から、イゾルデが駆けていった。

カインは、それを、井戸の脇から見ていた。

イゾルデが、誰かに向かって走るのを見たのは、初めてだった。


ゼノビアは、二十代の半ばに見えた。

背は、イゾルデより少し低い。亜麻色の髪を、首の後ろで固く結い上げている。一筋も、乱れていなかった。目は、薄い琥珀の色をしていた。日の光の下で、その色が、ほとんど透けて見えた。

軍服は、将官のものではなかった。飾りも、勲章もない。ただ、腰の革袋に、分厚い帳簿が一冊、収まっていた。

「元気だった?」

イゾルデが言った。

「ええ。あなたは、また背が伸びたわね」

「伸びてないわよ。毎年、そう言うんだから」

ゼノビアは、少しだけ笑った。

笑ったまま、その目が、イゾルデの肩越しにカインを見た。

まっすぐに。

上から下まで。灰色の右腕。銀灰色の髪。それから、目。

カインは、目を逸らさなかった。

「あなたが、北の街道の」

ゼノビアは、それだけ言った。

最後まで言わなかった。言わなくても、わかった。この人は、もう知っている。金色の光。石の槍。ベルナで、何があったか。

「カインです」

「ゼノビア。将軍の参謀です」

白い手袋の手が、差し出された。

カインは、左手で握った。

ゼノビアは、それに気づいた。気づいて、何も言わなかった。

手袋越しの手は、細かった。けれど、握り返す力は、迷っていなかった。


ゼノビアは、そのまま書斎へ入っていった。

扉が閉まった。

一刻が過ぎても、開かなかった。

カインは、中庭で、木剣を振っていた。左を主に、右は添えるだけ。ガルドに直された握り。それでも、まだ、重心は時々、流れた。

イゾルデが、隣で木剣を振っていた。

二人とも、何も言わなかった。

書斎の窓から、時々、紙をめくる音が聞こえた。声は、聞こえなかった。

「ゼノビアが、帝都から直接ここへ来る時は」

イゾルデが、木剣を止めずに言った。

「いい知らせだったことが、一度もないの」


夕食の席に、ガルドは来なかった。

ゼノビアだけが来て、ミアの隣に座った。ミアは、最初、イゾルデの外套の陰に隠れていた。けれど、ゼノビアが帳簿の端に小さな馬の絵を描いて見せると、少しずつ、顔を出した。

「おうまさん」

「そう。将軍の馬よ。名前は、帳簿に載っていないけれど」

ミアは、くすくすと笑った。

カインは、それを見ながら、ほとんど何も食べなかった。

食卓の向こうで、ゼノビアが、カインの皿を見ていた。

何かを数えるように。


その夜、ガルドに呼ばれた。

書斎ではなかった。

館の裏の、薬草の庭の前だった。

木戸が開いていた。ガルドは、庭の中にいた。手に、小さな鋏を持って、薬草の枯れた葉を、一枚ずつ、切り落としていた。

月が明るかった。

「入れ」

カインは、木戸をくぐった。

土の匂いがした。あの日、ミアと一緒に、息を殺して隠れた庭だった。

ガルドは、手を止めなかった。

「秋に、川を渡る」

背中を向けたまま、言った。

「帝都からの命令だ。収穫の頃、反乱軍の砦を落とせ。軍は、俺のを使え。……今度は、撤収は許されん。文面が、そうなっている」

カインは、何も言わなかった。

言えなかった。

反乱軍の砦。

旗の布を巻いた、盾の少年がいる場所。

「それから、もう一つ」

ガルドの鋏が止まった。

「保護した若者は、秋の戦が終わった後、帝都で預かる。そう書いてあった」

「……俺を」

「おまえを、だ」

ガルドは、ようやく振り返った。

月明かりが、左頬の古い刀傷に、深い影を落としていた。

「勝てば、帝都はしばらく黙る。将軍の手柄の前で、若者一人をどうこう言う者は、いなくなる。……負ければ、俺には、おまえを帝都から隠す力はなくなる」

カインは、その言葉の意味を、ゆっくりと理解した。

ガルドは、秋の戦に勝つつもりでいる。

自分を、帝都の工房に渡さないために。

ハルトのいる軍を、相手にして。

「……やめてください」

声が勝手に出た。

「俺のために、あいつのいる軍と」

「おまえのためだけでは、ない」

ガルドは、また、薬草のほうを向いた。

「守るものが、多すぎるんだ。俺は」


しばらく、二人とも、黙っていた。

ガルドの鋏の音だけが、夜の庭に、小さく響いていた。

「盾の少年は」

カインは、やっと言った。

「殺さずに済むなら、殺さん」

ガルドは、手を止めずに言った。

「だが、約束はできん。戦場で、俺は、約束をしない」

「……はい」

「おまえは、ここに残れ」

ガルドの声が、少しだけ、低くなった。

「ミアと、イゾルデの横に立っていろ。それが、おまえの、秋の持ち場だ」

カインは、うつむいた。

自分の右腕を見た。月明かりの中で、灰色の肌が、石のように光っていた。

それから、外套の内側に左手を入れた。

隠しの中に、折り畳んだ紙があった。

カインは、それを取り出した。

ガルドに差し出した。

ガルドは、紙を受け取った。開いて、読んだ。一行だけの紙を、長いこと、見ていた。

「いつから、持っていた」

「使いが来た夜から」

「知っていた」

ガルドは、紙を折り畳んだ。

「館の中で、誰が置いたのかもな。……おまえが、いつ出すか、待っていた」

カインは、顔を上げた。

ガルドは、紙を、カインの手に戻した。

「持っていろ」

「……燃やせ、と言わないんですか」

「言わん」

ガルドは、また鋏を取った。

「俺がいなくなった時に、もう一度、それを読め。その時、自分の横に誰が立っているかを、見てから決めろ」

カインは、紙を握った。

「いなくなるなんて」

「戦に出る男は、みんな、そう言われる」

ガルドは、笑った。

カインは、この人が笑うのを初めて見た。口元だけではなかった。目尻に深い皺が寄った。

「……出したな」

ガルドが言った。

「今、一人で持っていたものを、一つ、俺に見せた」

カインは、何も言えなかった。

胸の奥で、何かがほどけかけて、また締まった。

ミアの笑い声を聞く時と、同じ場所だった。


「こっちへ来い」

ガルドは、庭の奥の、小さな畝の前にしゃがんだ。

カインも、隣にしゃがんだ。

ガルドは、薬草を一本ずつ、指で示していった。

「これは、熱を下げる。葉を煎じる」

「これは、傷に塗る。根を潰す」

「これは、眠れない夜に。花を乾かして、枕の下に入れる」

一つずつ、名前を言った。

帝国の古い言葉の名前だった。カインの知らない響きの名前ばかりだった。

「覚えておけ」

ガルドは言った。

「……なぜ、俺に」

「俺が、忘れたら」

ガルドの指が、最後の一本の上で止まった。

「おまえが、教えろ」

カインは、ガルドの横顔を見た。

月が、その顔の、半分だけを照らしていた。

冗談を言っている顔では、なかった。

「わかりました」

カインは言った。

それから、もう一度、最初から、名前を繰り返した。熱を下げる草。傷に塗る草。眠れない夜の花。

ガルドは、黙って聞いていた。

一つ、カインが言い間違えると、ガルドが、正しい名前を言い直した。

それが、なぜか、嬉しかった。

孤児院で、院長に字を直された時と、同じ嬉しさだった。


翌朝、中庭で、カインはイゾルデの横に立った。

前ではなかった。

横だった。

ガルドの木剣が、イゾルデの肩へ向かった。

カインは、間に入らなかった。

体が、勝手に前へ出ようとした。それを、左足で踏みとどまった。踏みとどまった分だけ、重心が右に流れかけた。

イゾルデが、ガルドの木剣を、自分の木剣で受けた。

受けて、横へ流した。

ガルドの胴が、一瞬だけ、開いた。

カインの前に。

カインは、打ち込んだ。左を主に、右は添えるだけ。

木剣の先が、ガルドの脇腹に触れた。

浅かった。けれど、触れた。

中庭が静かになった。

「……一本」

ガルドが言った。

イゾルデが、カインの顔を見た。

カインも、イゾルデの顔を見た。

「二人の、一本だ」

ガルドが言った。

中庭の端で、ミアが、両手を叩いていた。その隣で、ゼノビアが、帳簿に何かを書きつけていた。

イゾルデが、木剣の柄で、カインの肩を軽く小突いた。

小突かれたのが見えた。

感じは、しなかった。

それでも、カインは、その肩を、しばらく、左手で押さえていた。


ゼノビアは、その日の昼に館を発った。

門の前で馬に乗る時、ゼノビアは、見送りに出たカインに、一度だけ振り返った。

「秋の渡河の策は、私が立てることになりました」

平らな声だった。

「あなたのお友達のいる軍を、私が数えることになります」

カインは、何も答えなかった。

ゼノビアは、少しの間、カインの目を見ていた。

「……数えたら、覚えておきます」

それだけ言って、馬の腹を蹴った。


その夜、カインは、自分の部屋の窓から、薬草の庭を見下ろした。

月が、昨夜よりも少し欠けていた。

庭の中にガルドがいた。

一人で、畝の前にしゃがんでいた。昨夜と同じ場所。最後の一本の前。

ガルドの指が、薬草の葉に触れていた。

唇が動いていた。何かの名前を、言おうとしているように見えた。

唇が止まった。

ガルドは、しばらく、そのまま動かなかった。

それから、指を葉から離した。

立ち上がって、庭を出ていった。

カインは、窓辺で、その名前を、声に出さずに言った。

眠れない夜の、花の名前。

昨夜、ガルドが一度だけ、言い直してくれた名前だった。

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