第45話 隙間
門の見張りは、トマという名前だった。
脱走した、と言われた日から、七日が過ぎていた。トマは毎朝、誰よりも早く門の脇に座り、街道の先を見ていた。逃げたくなったら言え、とレオニスに言われた門の前で、一度もそう言わなかった。
「ハルト」
朝の見回りから戻ると、トマが門の上から声をかけてきた。
「川下の村の人が来てる。盟主に会いたいって。急いでる」
門の内側に、男が一人、膝に手をついて息を切らしていた。
見覚えがあった。砦に、野菜や卵を売りに来る村の男だった。
「帝国の、徴発隊が」
男は、顔を上げずに言った。
「明日の朝、村に来るって、触れが回った。麦と、家畜と。……去年の倍、出せって」
軍議の天幕は、昼前から熱がこもっていた。
夏だった。布の中の空気が、動かなかった。
「徴発隊は、三十」
ノエラが、地図の上に炭筆を置いた。
「ヤンの見立てでは、騎馬が六、荷車が十五。村から麦を積んで、川沿いの陣へ戻ります」
炭筆が、村から陣へ向かう街道をなぞった。
「村では、戦いません」
天幕の中が、少しざわついた。
「村の中は、家と柵と畑で、こちらの数が活きません。村人を巻き込みます。……徴発は、させます。荷車が麦を積んで、重くなったところを、街道の林で待ち伏せます。前と同じです。奪った麦は、村に返します」
ノエラは、顔を上げた。
「計算の上では、こちらの死者は、〇。村人の死者も、〇です」
髭の幹部が、腕を組んだまま頷いた。
ベックも、何も言わなかった。
ハルトは、地図を見ていた。
街道の林。荷車。麦。
坂の上から見下ろした、荷車の列を思い出していた。
「待ち伏せは、なしだ」
レオニスが言った。
天幕の中が静かになった。
「村で、受ける」
「理由を」
ノエラの声は、平らだった。
レオニスは、地図の上の村の印を指で叩いた。
「徴発隊は、荷車を誰に引かせる」
ノエラの炭筆が止まった。
「十五台だ。帝国の兵三十じゃ、手が足りない。……村の男を、引かせる。去年も、そうだった。この前の鉄の荷車と、同じだ」
レオニスは、ノエラを見た。
「街道で待ち伏せたら、荷車の御者台には、村の男が座ってる。足首に鎖を嵌められてな」
ノエラは、何も言わなかった。
帳面を握る指が、白くなっていた。
「おまえは、あの坂で、御者を一人、帳面に書いた」
レオニスの声は、静かだった。責める声ではなかった。
「同じ数字を、もう一度書く気か」
長い沈黙があった。
天幕の布の外で、蝉が鳴いていた。
「……いいえ」
ノエラは、炭筆を置いた。
「書きません」
川下の村は、砦から半日の距離にあった。
麦畑が、もう黄色くなりかけていた。村を囲む柵は、低い。家は、二十と少し。
レオニスは、旗団の四十を村の三か所に分けた。
北の入口に、ベックの新兵の組。ハルトとロブも、そこにいた。村の真ん中の広場に、弓の古参兵とユノ。そして、南の麦畑の脇の小屋の陰に、レオニスと、ヤンと、腕の立つ古参兵が五人。
「北で、受けろ」
レオニスは、出がけにハルトに言った。
「崩さなくていい。繋がなくてもいい。受けて、引きつけろ。……あとは、俺が通る」
「通る?」
レオニスは、笑った。
それから、背中の双剣の柄に右手で触れた。
左手は、布をほどいていた。傷は塞がっていた。けれど、その指が柄を握る形まで閉じきっていないことに、ハルトは気づいた。
徴発隊は、朝靄の中から来た。
騎馬が先頭に六。その後ろに、空の荷車が十五。荷車を引いているのは、驢馬と、それから、村の男たちだった。隣の村の男たちらしかった。足首に、鎖。
ハルトの喉が詰まった。
ノエラの帳面の、あの一行。
御者。北の村の人。名前、まだ。
「来るぞ」
ベックの声がした。
騎馬の兵が、村の柵の前で止まった。旗団の布を見て、一瞬驚いた顔をした。
それから、剣を抜いた。
「反乱軍だ! 蹴散らせ!」
騎馬が、柵に向かって突っ込んできた。
ハルトは、盾を構えた。右手は、持ち手に縛りつけてある。
馬の胸が盾にぶつかった。
衝撃が、腕を通って、背中に抜けた。足が半歩下がった。
下がって、止まった。
隣で、ロブが槍を突き出し、馬が棹立ちになる。ベックが手で合図をする。新兵の組が、柵の隙間を盾で一枚ずつ塞いでいく。
受ける。
受けて、引きつける。
帝国の兵が、北の入口に集まってきた。騎馬の後ろから、歩兵が十、二十。荷車の脇の兵まで、こちらへ回ってくる。
荷車と、鎖の男たちが、後ろに取り残された。
その時だった。
南の麦畑から、風が来た。
最初は、ただの風だと思った。
麦の穂が一斉に、北へ向かって倒れた。黄色い波が、畑の端から端まで走った。
その波の上を、何かが走ってきた。
レオニスだった。
双剣を抜いていた。
走っているのに、足音がしなかった。風が、レオニスの体を前へ前へと押していた。いや、押しているのではなかった。レオニスが、風の通る道を選んで走っていた。
荷車と荷車の、隙間。
驢馬と、鎖の男の、隙間。
帝国の兵と兵の、肩と肩の、隙間。
人が一人通れるはずのない幅を、レオニスは横向きにもならずに、まっすぐ抜けていった。
抜けた後に、帝国の兵の剣が地面に落ちた。
手首を斬られていた。浅く、けれど、正確に。剣を握れない深さだけ。
一人、二人、三人。
レオニスが通った線の上で、帝国の兵が、次々に武器を落としていく。誰も、斬られる瞬間を見ていなかった。気づいた時には、もう手首から血が流れていた。
ハルトは、盾を構えたまま、それを見ていた。
(人と人の、間を)
レオニスは、誰にもぶつからなかった。
味方にも、敵にも。
まるで、最初からそこに道があったかのように。
ただ、一度だけ。
レオニスが、騎馬の兵の脇を抜けた時、右の剣が騎手の手首を払い、左の剣が手綱を断つはずだった。
左の剣が遅れた。
ほんの一拍。瞬きより短い間。
手綱は、断たれなかった。馬が暴れて、前脚を振り上げた。
レオニスは身をひねって、蹄をかわした。風が、そこだけ、乱れた。
ハルトは、それを見ていた。
見ていたのは、たぶん、北の入口から全部を見渡せたハルトだけだった。
徴発隊の隊長が、退却を叫んだのは、レオニスが村の広場の端まで抜けた時だった。
剣を落とした兵が、十を超えていた。弓の古参兵とユノの矢が、残りの騎馬を追い立てた。
帝国の兵は、空の荷車を置いて、街道を逃げていった。
鎖の男たちは、置き去りにされた。
ネリは、今日は来ていなかった。ゴードンが、斧で鎖の留め金を叩き割った。一つずつ。
ハルトは、広場の端へ走った。
レオニスが、麦畑の脇の柵に背中を預けて座り込んでいた。
息が聞こえなかった。
肩が、上下していなかった。
「レオニスさん!」
ハルトが膝をつくと、レオニスは片手を上げた。
大丈夫だ、と言うように。
それから、口を開けて息を吸おうとした。
吸えなかった。
喉が、ひゅう、と細い音を立てた。もう一度。また、ひゅう、と。胸が、空気を求めて、何度も空回りした。
レオニスの顔が、赤くなって、それから、白くなった。
ハルトは、何もできなかった。
十を数えるくらいの間、レオニスは息ができなかった。
それから、ようやく、深く、一つ、息が入った。
レオニスは、咳き込んだ。何度も。体を折って、咳き込んで、それから、笑った。
「……悪い」
掠れた声だった。
「通ると、こうなる。毎回だ」
「毎回……」
「だから、普段は、よく喋るんだ。喋ってると、息の仕方を、忘れないからな」
レオニスは、また、笑った。
いつもの笑い方だった。
けれど、ハルトには、もうそれがただの笑い方には見えなかった。
ハルトは、レオニスの左手を見た。
剣を握ったまま、指が震えていた。
「左」
ハルトは、言いかけた。
レオニスは、ハルトの顔を見た。
それから、左手の剣をゆっくりと鞘に戻した。
「見えたか」
「……一拍だけ」
「一拍か」
レオニスは柵に頭をもたせかけて、空を見上げた。
「おまえ、いい目をしてるな。ノエラには、言うなよ。あいつは、数えるから」
ハルトは、答えなかった。
答えられなかった。
旗団の死者は、一人だった。
広場で、騎馬の突進を受けた古参兵が、一人。去年の秋の、北の砦を生き延びた男だった。その名前を、ハルトは知らなかった。
村人の死者は、なかった。鎖の男たちは、十五人とも生きていた。麦は一粒も、持っていかれなかった。
夕方、村の広場で、村人たちが旗団の兵に水と麦粥を配った。子供たちが、ユノの弓を遠巻きに眺めていた。
ノエラは、広場の端で、帳面を開いていた。
ハルトが近づくと、ノエラはもう書き終えていた。
旗団、死者、一。
村人、死者、〇。御者、十五、全員生存。麦、損失なし。
「正しかったです」
ノエラは、帳面を見たまま言った。
「盟主の策は、正しかった。私の策なら、鎖の人たちが、荷車と一緒に、林の中で死んでいたかもしれません」
炭筆が、帳面の上で止まっていた。
「でも、私の策なら、旗団の死者は、〇でした」
ハルトは、何も言えなかった。
「どちらが、正しかったんでしょうね」
ノエラは、ハルトに聞いたのではなかった。
帳面に聞いていた。
「数えれば、答えが出ると思っていました。……出ないんです。最近、ずっと」
砦へ戻る道で、ノエラは、ハルトの隣を歩いた。
レオニスは列の先頭で、また兵たちと軽口を叩いていた。
「あの人は、正しいんです」
ノエラがぽつりと言った。
「いつも。私が数字で言うと、あの人は、人の顔で言い返す。それで、たいてい、あの人のほうが、正しい」
ノエラは、前を歩くレオニスの背中を見ていた。
双剣。橙がかった茶色の髪。笑い声。
「去年の秋も、そうでした」
ハルトは、ノエラを見た。
「北の砦に出る前の、軍議で。私は、反対しました。数字で。あの人は、人の顔で言い返しました。私は、何も言えなくなりました。……今日と、同じように」
ノエラの声は、平らだった。
けれど、帳面を抱える腕に力が入っていた。
「あの人は、正しかったんです」
夕日が、街道の先を橙色に染めていた。
「北の砦に、着くまでは」




