第44話 帝都
--- ゼノビア視点 ---
帝都の煙突は、一年前より七本、増えていた。
ゼノビアは、馬車の窓から、それを数えた。
城壁の内側、北の工匠街の一角。かつて古い鋳造所が並んでいた辺りに、新しい煉瓦の煙突が、空に向かって伸びている。そのうちの三本からは、昼だというのに、灰色の煙が上がっていた。
工房、と呼ばれている場所だった。
正式な名前は、ない。少なくとも、軍の帳簿には載っていない。載っていないものに、これだけの石と煉瓦と人手が流れ込んでいる。
ゼノビアは、白い手袋の指先で、膝の上の帳簿の背を押さえた。
帳簿に載らない支出は、誰かの懐から出ている。帝国で、これだけの懐を持つ者は、多くない。
召喚状の文面は、短かった。
浅瀬の渡河の失敗、および北の鉄の喪失について、将軍ガルドの軍の参謀が、軍務の評議に出頭して説明せよ。
将軍ではなく、参謀を呼んだ。
その意味は、帝都に着く前から、わかっていた。
評議の間は、旧い宮殿の東翼にあった。長い卓の両側に、将官と文官が並んでいる。卓の端の、一段高い席は、空いていた。
皇帝の席だった。
この半年、そこに人が座ったという記録を、ゼノビアは見たことがない。
「浅瀬の策を立てたのは、君だそうだな」
卓の右側から、声がかかった。
改革派の将官だった。胸元に、細い銀の鎖。この部屋に入ってから、ゼノビアは、同じ鎖を六つ数えていた。一年前は、二つだった。
「はい」
「百二十を投じて、三十一を失った。得たものは何もない。そのうえ将軍は、命令された渡河の継続を拒み、撤収した」
「命令の文面は、渡河を試みよ、でした」
ゼノビアは、帳簿を開いた。
「試みました。そのうえで、水位が戻り、再度の渡河は兵を川に沈めるだけだと判断し、撤収しました。判断の根拠は、ここに」
水位の記録。死者の名簿。捕虜の名簿。交換の記録。
ゼノビアは、それを一枚ずつ、卓の上に並べた。
「将軍は、命令の文面に、一字も背いていません」
部屋が静かになった。
文字で殴られた者は、文字で殴り返すしかない。それが、平民の出の参謀が、この部屋で生き残る唯一の方法だった。
「鉄は」
別の将官が言った。
「北の鉄だ。十台のうち九台を、反乱軍に奪われた。あれは、工房へ回す鉄だった」
「北の鉄の輸送は、将軍の軍の管轄ではありません」
ゼノビアは、帳簿の別の頁を開いた。
「輸送の命令は、工房から直接、北の街道の守備隊に出ています。将軍の軍には、通過の通知すら来ていません。……工房の命令が、どの帳簿から出ているのか、私には、わかりかねますが」
銀の鎖の将官たちが、互いに目を交わした。
ゼノビアは、それを見ていた。
誰が誰を見たか。誰が目を逸らしたか。それも、帳簿に書ける数字だった。
評議が終わったのは、夕刻だった。
結論は、出なかった。出さなかった、と言うべきかもしれない。将軍の責を問う言葉は、最後まで、誰も口にしなかった。
その代わり、廊下に出たゼノビアの手に、封をした書状が一通、渡された。
宛名は、将軍ガルド。
差出人の印は、ゼノビアの知らない印だった。皇帝の印ではなかった。
「久しぶりだね、ゼノビア」
廊下の柱の陰から、男が出てきた。
ゼノビアと同じ年頃。色の薄い金髪を、きれいに後ろへ撫でつけている。仕立てのいい黒の上着。その胸元に、細い銀の鎖。
指には、インクの染み一つなかった。
「ハインツ」
「覚えていてくれて、嬉しいよ」
ハインツは、笑った。士官学校の頃と、同じ笑い方だった。口元だけが正確に動く。
「評議は、見事だった。帳簿で将官を黙らせる参謀なんて、帝都じゅう探しても、君くらいだ」
「褒めに来たの」
「まさか」
ハインツは、ゼノビアの隣に並んで、歩き始めた。
「殿下の軍師として、同期に、少しだけ忠告をしに来た」
殿下。
その言葉を、ハインツは、ためらいなく口にした。
二人は、宮殿の回廊を並んで歩いた。
夕日が、柱の影を、床に長く落としていた。
「北の街道で、将軍が若者を一人、拾ったそうだね」
ハインツは、天気の話をするような声で言った。
「ベルナの件の報告書は、僕も読んだ。金色の光。石の槍。一人で、魔物の群れを殲滅した。……そんな若者を、将軍は、館に囲って、剣の稽古をつけているとか」
ゼノビアは、答えなかった。
「工房の使いは、追い返されたそうだ。皇帝陛下の名で」
ハインツは、空いた玉座のほうを、ちらりと振り返った。
「陛下の名は、便利だね。誰も、陛下に確かめに行けないから」
「何が言いたいの」
「将軍は、守るものが多すぎる、ということさ」
ハインツは、足を止めた。
回廊の窓から、北の工匠街が見えた。七本の煙突。その下の通りを、鎖で繋がれた男たちの列が、ゆっくりと歩いていた。十人ほど。囚人服。両脇に、銀の鎖を下げた男たち。
列は、工房の門の中へ、吸い込まれていった。
ゼノビアは、その数を数えた。
十一人。
「拾った若者。館の庭。それから」
ハインツは、窓の外を見たまま言った。
「将軍の参謀。……全部を一人で守ろうとする人は、いずれ、どれかを手放すことになる。手放す順番を、選べるうちに選んだほうがいい」
ゼノビアの手袋の指が、帳簿の背を強く押さえた。
「将軍は、何も手放さない」
「君は、昔から、そうだった」
ハインツは、振り返った。
「誰かを信じると、帳簿の数字より、その人を信じる」
口元だけが笑っていた。
別れ際、ハインツは、思い出したように言った。
「そうそう。もう一つ」
「まだあるの」
「浅瀬の件だ。君の策を読んだ者がいるだろう、反乱軍に」
ゼノビアは、足を止めた。
「僕のところにも、少しだけ、反乱軍の話が入ってくる。……向こうの補給係に、士官学校を出た女がいるそうだ。去年の秋、北の砦で大敗した時の軍師だったとか」
ハインツは、ゼノビアの顔をじっと見ていた。
その反応を、数えるように。
「ノエラだよ」
回廊の夕日が、急に、遠くなった気がした。
ノエラ。
同じ教室で、同じ地図を広げた。同じ古い記録を、図書室の奥で、取り合うように読んだ。
あの演習の日まで。
「懐かしいだろう」
ハインツの声は、少しも懐かしそうではなかった。
「僕たち三人のうち、一番の成績で出たのは、彼女だった。それが今は、反乱軍の補給係だ。……人の運は、わからないものだね」
ゼノビアは、何も言わなかった。
言えば、数えられる。
この男は、昔から、人の言葉の数を数えていた。
「将軍によろしく」
ハインツは、軽く手を上げて、回廊の奥へ歩いていった。
その背中が、柱の影に消えるまで、ゼノビアは動かなかった。
宿へ戻る道は、士官学校の前を通った。
ゼノビアは、馬車を止めさせなかった。ただ、窓から、古い石の門を見た。
門の奥に、図書室の窓が見えた。三階の、西の端。夕日が、硝子を橙色に染めていた。
あの窓の下の机で、二人は、よく古い水利の記録を広げた。
教本には載っていない記録だった。誰も読まないから、埃をかぶっていた。ゼノビアは、その古い数字が好きだった。誰も知らないことが、そこに眠っているから。
ノエラは、それを「数字の墓場」と呼んだ。濃い色の髪を、肩の上で真っ直ぐに切り揃えていた。今も、そうだろうか。
「墓場の数字は、そのままじゃ使えないわ」
ノエラは、記録の頁を指で押さえながら言った。
「今の川を、自分で測らないと。測った数字と並べて、初めて生き返るの」
ゼノビアは、古い記録を信じた。ノエラは、自分で測った数字を信じた。
浅瀬の策を立てた夜、ゼノビアは、古い記録だけで川の息を読んだ。向こう岸で、誰かが川を測っているとは、考えなかった。
ハインツは、その机に、一度も座らなかった。
いつも、少し離れた書架の陰から、二人が何を読んでいるのかを見ていた。
馬車が角を曲がった。
図書室の窓は、見えなくなった。
その夜、ゼノビアは、帝都の宿の一室で、渡された書状を卓に置いた。
封は、切らなかった。将軍宛てのものを、参謀が開くことはない。
ただ、封蝋の印を、ランプの灯りにかざして、長いこと見ていた。
皇帝の印ではない。
軍務の印でもない。
細い鎖が、輪になって、剣を囲んでいる印だった。
ゼノビアは、帳簿を開いた。
今日、数えたもの。
煙突、七。評議の間の銀の鎖、六。一年前は、二。工房の門に入った囚人、十一。
それから、新しい頁に、一つだけ名前を書いた。
ノエラ。
その下に、何を書けばいいのか、わからなかった。
数字ではなかった。
ゼノビアは、ペンを置いた。
書状の中身は、知らない。
けれど、帝都で一日を過ごしただけで、そこに何が書かれているのか、おおよその見当はついていた。
夏が終わり、収穫の季節が来る頃。
将軍の軍は、もう一度、あの川を渡ることになる。
今度は、命令の文面に、逃げ道のない形で。




