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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第43話 見せる背中

朝の点呼で、一人、足りなかった。

去年の秋に捕らえられ、捕虜の交換で帝都の牢から帰ってきた九人の、一人だった。

痩せた、三十に届かないくらいの男。帰ってきてからずっと、炊事場の薪割りをしていた。口数が少なく、夜はよく、天幕の外に座っていた。眠れないのだと、誰かが言っていた。

寝床は、冷たかった。

荷物は、ほとんど残っていた。持っていったのは、水筒と、外套だけだった。

「脱走だ」

年かさの髭の幹部が、点呼の列の前で言った。

声が砦の中に響いた。

「帰ってきて、まだひと月も経たん。牢で何を吹き込まれたか、わからん。帝国に駆け込まれたら、砦の場所も、兵の数も、全部筒抜けだ」

列がざわついた。

ハルトの隣で、ベックが片方だけの目を細めていた。

「……昨日の夕方」

列の後ろのほうから、ネリの声がした。

ネリは、炉の脇に積んだ鎖の山を指さしていた。坂で御者たちの足首から切った、鎖。打ち直して釘にするつもりで、まとめて置いてあったものだ。

「あの人、あれを、ずっと見てた。薪を割る手、止めて」

誰も、何も言わなかった。

ハルトは、鎖の山を見た。

錆びた鉄の環が、朝日の中で鈍く光っていた。


「俺が行く」

レオニスが言った。

左手には、まだ布が巻かれていた。

「ヤン。足跡を読め。ハルト、盾を持ってこい」

「盟主が自ら行く話ではない」

髭の幹部が前に出た。

「脱走は脱走だ。連れ戻すなら兵をやればいい。連れ戻したら、規律どおりに」

「規律どおりに、何だ」

レオニスは、笑っていなかった。

髭の幹部は、一瞬、言葉に詰まった。

それから、低く言った。

「……旗団の規律では、脱走は、死罪だ。あんたが作った規律だぞ」

「知ってる」

レオニスは、外套を肩に掛けた。

「だから、俺が行く」


ヤンは、川沿いの柔らかい土に足跡を見つけた。

北東へ向かっていた。帝国の陣の方角ではなかった。けれど、そちらには、帝国の見回りが通る道があった。

「歩幅が、乱れてます」

ヤンが、しゃがみこんで言った。

「走って、転んで、また走って。右足を、引きずってます。たぶん、どこかで捻ってる」

「遠くには、行ってないな」

「はい。でも」

ヤンは、北東の林のほうを見た。

「見回りの道まで、あと少しです」

三人は、足を速めた。

初夏の日差しが、川面に照り返していた。歩くだけで、汗が首筋を伝った。

ハルトの右手は、盾の持ち手に布で縛りつけてあった。朝、自分で縛った。歯と、左手で。もう、それが当たり前になっていた。

御者の坂の日から、右手は剣の柄を握れなくなっていた。握れない手なら、盾に縛っておけばいい。それからは、剣を左に、盾を右に持ち替えていた。

レオニスは、前を歩いていた。

左手は布を巻いたまま、だらりと下げていた。

あの日、渡し場で、素手で刃を握った手。

指が動くのかどうか、ハルトはまだ、聞けずにいた。


男は、林の手前の涸れた沢の底にいた。

岩の陰に、膝を抱えてうずくまっていた。右の足首が腫れ上がって、靴の上から見てもわかるほどだった。

三人の足音に気づいて、男は顔を上げた。

その顔が真っ白になった。

「……来るな」

男は、岩に背中を押しつけた。

「来るな。戻らない。俺は、もう」

声が裏返った。

「鎖の音がするんだ。夜になると。あの砦の、炉の脇から。……牢の音と、同じなんだ。じゃら、じゃら、って。耳を塞いでも、聞こえる」

レオニスは、沢の縁で止まった。

降りていかなかった。

「帝国に行くつもりだったか」

男は、首を振った。何度も。

「どこにも、行くつもりなんか、なかった。ただ、音のしないところに、行きたかった」

その時、ヤンが、さっと手を上げた。

林の向こうから、馬の蹄の音がした。

一頭、二頭。

帝国の見回りだった。


三人は、沢の底へ滑り降りた。

岩の陰に、男と一緒に身を伏せる。

蹄の音が近づいてきた。沢の上の道を、ゆっくりと。話し声が聞こえた。帝国の言葉の訛り。笑い声。

男の体が震えていた。

歯が、かちかちと鳴っていた。

レオニスが、男の頭を右手で自分の胸に押しつけた。

音が消えた。

蹄の音が、沢の真上で止まった。

ハルトは、盾を持ち上げた。

岩の陰から、沢の縁を見上げる。馬の脚が、四本。乗り手の影が、沢の底を覗き込むように、傾いた。

(見られたら)

ハルトは、盾の位置をほんの少しだけずらした。

沢の底に差し込む日差しが、盾の表で跳ね返らないように。

鉄の帯が、光らないように。

縛りつけた右手を、動かさないように、じっと固めた。

冷えが、手首から、上がってきた。

指二本分の灰色の縁から、また、少しずつ。

動かせば、楽になる。けれど、動かせば、盾が鳴る。

ハルトは、動かなかった。

乗り手の影が、しばらく沢の底を眺めて、それから、離れた。

蹄の音が、林の奥へ遠ざかっていった。

誰も、しばらく、息をしなかった。


「帰るぞ」

レオニスが言った。

男は、レオニスの胸から顔を上げた。

「……帰ったら、死罪だろう」

「誰が言った」

「髭の、幹部が。いつも、言ってる。脱走は死罪。盟主が作った規律だって」

「作ったのは、俺だな」

レオニスは、男に背中を向けてしゃがんだ。

「乗れ」

男は、動かなかった。

「足、捻ってるだろ。乗れ」

「盟主に、背負われるなんて」

「盟主はやめてくれ」

レオニスは、振り返らずに言った。

「早くしろ。見回りが戻ってくる」

男が、レオニスの背中におずおずと体を預けた。

レオニスは、右腕だけで男の膝を抱えた。

左手は、使わなかった。

使えないのか、使わないのか、ハルトにはわからなかった。

立ち上がる時、レオニスの膝が、一度だけ、震えた。


帰り道は、長かった。

レオニスは、男を背負ったまま、一度も止まらなかった。

汗が、レオニスの顎から滴り落ちた。男の腕が、レオニスの首に回されていた。男は、しばらく何も言わなかった。それから、レオニスの肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

ハルトは、レオニスの横を歩いた。

「重くないんですか」

聞いてから、馬鹿な質問だと思った。

レオニスは、笑った。

「重いさ」

息が上がっていた。

「重いから、こうやって、おまえらに見せてる」

「……見せてる?」

「一人で背負ったら、誰も、こいつの重さを知らないままだろ」

レオニスは、前を向いたまま言った。

「おまえとヤンが見てる。砦に帰れば、みんなが見る。こいつがどれだけ重かったか、知ってるやつがいれば、次にこいつが倒れた時、誰かが手を出せる」

ハルトは、何も言えなかった。

レオニスの左手が、男の膝の下でだらりと揺れていた。

沢を三つ越えたところで、ハルトは言った。

「代わります」

レオニスは、ハルトを見た。

それから、ハルトの右手を見た。盾の持ち手に、布で縛りつけられた、灰色の手を。

「その手でか」

「左と、背中で、背負えます。……半分だけ、代わります」

レオニスは、少しの間、黙っていた。

それから、笑った。

「半分か」

レオニスは、男をそっと地面に下ろした。

ハルトは、盾をヤンに預けて、男の前にしゃがんだ。右手の布をほどいた。灰色の指は、握った形で固まっていて、男の膝を抱えることはできなかった。

だから、左腕だけで抱えた。

男の重さが、背中にのしかかった。

重かった。

鉄の荷車ほどではなかった。でも、人の重さだった。息をして、震えて、泣いている重さだった。

その重さは、背中にちゃんと届いた。

半分では、なかった。


砦に着いたのは、日が傾いてからだった。

門の前に、兵が集まっていた。

最後の一里を背負ったのは、またレオニスだった。ハルトの膝が、途中で笑い始めたからだ。

レオニスは、男を背負ったまま、門をくぐった。

兵たちの間を、まっすぐに歩いていった。

誰も、何も言わなかった。

ただ、見ていた。

炊事場の前で、レオニスは、男を下ろした。マーサが、何も聞かずに、水を汲んできた。

髭の幹部が、兵たちの輪の中から進み出た。

「規律は、どうする」

「規律どおりにする」

レオニスは、汗を拭いもせずに言った。

輪が静まり返った。

「旗団の規律では、脱走は死罪。俺が作った。……だが、こいつは、脱走してない」

「何だと」

「帝国にも、どこにも、行くつもりはなかった。音のしないところへ、行きたかっただけだ」

レオニスは、炉の脇の、鎖の山を見た。

「ネリ」

「……はい」

ネリが、炉の陰から、顔を出した。

「あの鎖、今夜のうちに、全部溶かせるか」

ネリは、鎖の山と、レオニスの顔を交互に見た。

それから、頷いた。

「釘にする。蹄鉄の釘。明日の朝までに」

「頼む」

レオニスは、地面に座り込んでいる男を見下ろした。

「明日から、おまえは門の見張りだ。逃げたくなったら、門の前で、そう言え。止めはしない。ただ、言ってから行け」

男は、レオニスを見上げた。

何か言おうとして、言えなかった。

ただ、頷いた。

髭の幹部は、長いこと、レオニスを睨んでいた。

それから、吐き捨てるように言った。

「甘い」

「知ってる」

髭の幹部は、背を向けた。

けれど、その背中は、輪から出ていく前に、一度だけ、男のほうを振り返った。


輪がほどけた後、ノエラが、レオニスの前に立った。

帳面を胸に抱えていた。

「もし、帝国の見回りが、先に彼を見つけていたら」

平らな声だった。

「砦の場所。兵の数。浅瀬の道。奪った鉄の置き場所。全部、向こうに渡っていました。……盟主と、斥候と、新兵が一人。三人とも、戻らなかったかもしれません」

レオニスは、汗の乾いた顔でノエラを見た。

「そうだな」

「計算すれば、兵を三人、出せば済む話でした」

「そうだな」

「あなたは、計算を、情で退けました」

ノエラの声は、責めてはいなかった。

ただ、数字を読み上げるように、平らだった。

レオニスは、少しの間、黙っていた。

「計算は、おまえがしてくれ」

レオニスは言った。

「俺は、こいつの顔を見る」

ノエラの指が、帳面の端を強く握った。

何か言いかけて、言わなかった。

そのまま、補給の天幕へ戻っていった。

ハルトは、その背中を見ていた。

(どっちも、間違ってない)

そう思った。

そう思えてしまうことが、なぜか、少しだけ怖かった。


夜、ハルトは、炉の脇を通った。

ネリが、鎖を溶かしていた。鞴(ふいご)の音と、槌の音。炉の火が、ネリの煤けた顔を赤く照らしていた。

門の脇の焚き火に、あの男が座っていた。

水筒を、両手で抱えていた。足首には、薬師の布が巻かれていた。

ハルトが近づくと、男は、顔を上げた。

「……盾の」

「ハルトです」

「知ってる」

男は、焚き火を見た。

「背中、ありがとう。半分」

ハルトは、首を振った。

それから、隣に座った。

しばらく、二人とも、何も言わなかった。

炉のほうから、鎖が溶ける音がかすかに聞こえていた。じゃら、じゃら、ではなく、じゅう、という音だった。

「牢でな」

男がふいに言った。

「冬の病で死んだ三人のほかにも、牢から、いなくなったやつがいた」

ハルトは、男を見た。

「俺たちじゃない。帝国の、罪人たちだ。盗人とか、人殺しとか。……ある日、帝都から、銀の鎖を胸に下げた男たちが来て、何人か、連れていった」

男の指が、水筒を握りしめた。

「工房へ行く、って言ってた。行き先は、それだけ」

焚き火がぱちりと爆ぜた。

「誰も、帰ってこなかった」

男は、それきり黙った。

ハルトは、炉の火を見た。

工房。

その言葉の意味を、ハルトは、まだ知らなかった。

ただ、男が鎖の音を聞くたびに思い出していたのは、自分の牢のことだけではなかったのだと、その時、わかった。

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