第42話 受け皿
--- カイン視点 ---
「二人で来い」
朝の中庭で、ガルドは木剣を一本だけ持って立っていた。
カインの隣には、イゾルデがいた。三つ編みを背に払って、木剣を構えている。
「持ち方を変える、と言ったな」
ガルドは言った。
この五日、ガルドはカインに、握りだけを直させていた。左を主に、右は添えるだけ。それで、少しは重心が流れなくなった。
「今日から、おまえは一人で俺に打ち込まない。イゾルデと二人で来い。どちらが一本取っても、二人の一本だ」
イゾルデが、ちらりとカインを見た。
不満そうな顔だった。けれど、何も言わなかった。
カインも、言わなかった。
言う必要がなかった。二人がかりなら、隙は作れる。自分が前に出て受ければ、イゾルデが打てる。
そう思った。
一本目は、すぐに終わった。
ガルドの木剣が、イゾルデの肩に向かった。カインは、間に体を入れた。灰色の右腕で受けた。
受けた音はした。痛みは、来なかった。
その隙に、イゾルデが打ち込む。ガルドは、半歩引いただけでそれを外した。外しながら、カインの脇腹を軽く打った。
「一本」
二本目も、同じだった。
ガルドがイゾルデを狙う。カインが間に入る。受ける。イゾルデの打ち込みは、カインの体が邪魔になって、届かない。
三本目。
ガルドの木剣が、イゾルデの背後へ回った。カインは、イゾルデを突き飛ばすようにして、その前に出た。
木剣が、カインの背を打った。
乾いた音がした。
カインは、振り返らなかった。そのまま、ガルドの胴へ打ち込んだ。
ガルドの木剣が、それを払った。カインの木剣が、石畳に落ちた。
「一本」
中庭が静かになった。
イゾルデが、石畳に手をついたまま、カインを見上げていた。
「……今の」
イゾルデの声が低かった。
「背中、打たれたの、わからなかったでしょう」
カインは、答えなかった。
「振り向きもしなかった。痛かったら、人は振り向くのよ」
イゾルデは、立ち上がった。木剣を拾って、カインの胸に、柄の側を突きつけた。
「私を守らないで」
「……守ったつもりは」
「守ったわ。三本とも。私の前に出て、全部、一人で受けた」
イゾルデの目が、まっすぐだった。
「私も、剣を持ってるの。父上に、毎日負けてるけど。持ってるのよ」
カインは、何も言えなかった。
ガルドは、二人のやりとりを黙って見ていた。
「今日は、ここまでだ」
それだけ言って、木剣を壁に立てかけた。
昼前、館の門の前に、馬が四頭止まった。
黒い外套の男たちだった。帝国の軍服ではない。胸に、細い銀の鎖を下げている。
先頭の男は、痩せていた。年の頃は、ガルドより一回り若い。旅の埃が、外套の裾にだけ、きれいに払われずに残っていた。
館の中が急にざわついた。
「帝都の使いよ」
イゾルデが、カインの腕を掴んだ。
掴んだのは、灰色のほうの腕だった。掴まれた、とわかったのは、引かれて体が動いたからだった。
「父上が、あなたとミアは裏へって」
「なぜ」
「わからない。でも、父上がそう言う時は、言うとおりにして」
イゾルデは、カインとミアを、館の裏手へ連れていった。
薬草の庭の前で止まった。
石の塀に囲まれた、誰も足を踏み入れない庭。
イゾルデは、一瞬、迷うように塀を見上げた。
それから、木戸を開けた。
「入って」
「ここは」
「わかってる。……父上が、ここなら誰も覗かないって」
ミアが、カインの手を握って、木戸をくぐった。
土の匂いがした。よく耕された、柔らかい土。整然と並んだ薬草の、青い匂い。
塀の向こう側は、ガルドの書斎の窓だった。
窓は、開いていた。
声が聞こえてきた。
「北の街道で、将軍閣下が保護された若者のことです」
痩せた男の声だった。丁寧で、よく通る声。
「ベルナの件の報告は、帝都にも届いております。金色の光。石の槍。一人で、魔物の群れを殲滅した若者」
カインは、塀の内側で息を殺した。
ミアが、カインの外套の裾を握りしめた。
「そのような若者は、知らん」
ガルドの声だった。
「北の街道の隊長は、閣下に引き渡したと申しておりますが」
「引き渡された者は、何人もいる。逃げた者もいる。死んだ者もいる」
「では、別の話をいたしましょう」
紙を広げる音がした。
「帝都の工房で、長く研究されてきた技術が、ようやく形になりつつあります。紋章の代償を、使い手本人ではなく、別の者に払わせる技術です」
カインの指が、土の上で止まった。
「受け皿さえ用意すれば、使い手は、何も失わずに力を振るえる。受け皿は、誰でもいい。罪人でも、捕虜でも、徴発した農夫でも」
「人の代償を、別の人間に払わせるのか」
「殿下は、それを、秩序とお呼びです」
男の声は、少しも揺れなかった。
「ただ、工房には、受け皿を繋ぐための鉄が足りません。北から運ばせていた荷車が、先日、川沿いの陣に着く手前で、反乱軍に奪われました。それに、肝心の、強い使い手がおりません」
少しの間があった。
「代償の重さに、自分一人で耐えている使い手がいるのなら。その者こそ、この技術を、最も必要としているはずです」
カインは、自分の右腕を見た。
肘まで這い上がった、灰色。
(別の者に、払わせる)
それなら。
それなら、あいつには、もう、流れない。
顔も知らない誰かが払う。罪人か、捕虜か、どこかの農夫が。ハルトではない、誰かが。
その考えが、胸の中に、すとん、と落ちた。
落ちた場所が、思っていたより、冷たくなかった。
カインは、それが怖かった。
「帰れ」
ガルドの声がした。
低く、短い声だった。
「ここに、おまえの探している者はいない。皇帝陛下の名で、そう報告しておけ」
「承知いたしました」
男は、少しも食い下がらなかった。
椅子が引かれる音。足音が、書斎の扉へ向かう。
それから、足音が止まった。
「そういえば、閣下」
男の声が、窓のほうへ近づいた。
「奥方様の庭は、今も、ご自分でお手入れを?」
ガルドは、何も答えなかった。
「よく手入れされた庭は、外からでも、わかるものです。では」
扉が閉まった。
塀の内側で、ミアが、カインを見上げていた。
カインは、ミアの口を、そっと左手で覆った。
ミアは、頷いた。
窓の向こうで、何かが、机に叩きつけられる音がした。
一度だけ。
使いの馬が去ってから、カインはミアをイゾルデに預けた。
庭を出る時、イゾルデが、塀の上の窓を見上げていた。
「父上が、物に当たるところ、初めて聞いた」
イゾルデは言った。
カインは、何も言わなかった。
奥方様の庭。
あの男は、それを知っていた。知っていて、口にした。
ガルドが、何を守るために、帝都の命令の形だけを守っているのか。
カインには、まだ、わからなかった。
ただ、それが、自分と同じ種類の重さだということだけは、わかった。
夕方、書斎の扉は、開いていた。
ガルドは、机の前に座っていた。机の端が少し欠けていた。
「聞いていたな」
顔を上げずに言った。
「……はい」
「庭に入れたのは、俺だ。気にするな」
カインは、扉の前に立ったまま、言った。
「その技術なら、あいつに流れている分を、断てますか」
ガルドの手が止まった。
「断てる」
ガルドは言った。
「おまえの代償は、あの少年には流れなくなる。代わりに、誰かが払う。おまえが、一生、顔を見ることのない誰かがな」
「……それでも」
「それでも、か」
ガルドは、ゆっくりと顔を上げた。
「今朝、イゾルデの前に出て、三本、全部を一人で受けたな」
「それとこれとは」
「同じだ」
ガルドの声は、静かだった。
「おまえは、受ける時は一人で受ける。払う時も一人で払う。そして、払えなくなったら、今度は、顔の見えない誰かに払わせる。……どれも、同じ持ち方だ。誰にも、何も、渡していない」
カインは、言い返そうとした。
言葉が出てこなかった。
「背負うというのはな」
ガルドは、机の欠けた端を指でなぞった。
「全部を自分の背に載せることではない。何を載せているのかを、横に立つ者が知っていることだ」
「……横に立つ者が、いなければ」
「いないのではない。おまえが、立たせていないだけだ」
ガルドは、窓の外を見た。
薬草の庭の、塀の向こうを。
「一人で決めた男を、一人、知っている」
その声は、また、カインではない誰かに向いていた。
「守るつもりで、全部を一人で決めた。誰にも言わずにな。……その結果、一番大事なものを、一番遠くに置くことになった」
カインは、何も聞かなかった。
聞いてはいけない、と思った。
「明日も、二人で来い」
ガルドは言った。
「イゾルデの前に出るな。横に立て。……それができるまで、帝都の話はしない」
夜、カインは、自分の部屋に戻った。
寝台の上に、小さな紙が、一枚、置いてあった。
封はされていない。折り畳まれただけの紙。
誰が置いたのかは、わからなかった。昼間の使いの供の誰かか。館の中の、誰かか。
開いた。
一行だけ、書かれていた。
金色の目の若者へ。流れを断ちたければ、帝都の工房はいつでも扉を開けている。
カインは、その紙を、長いこと見ていた。
燃やすべきだと、わかっていた。
ガルドに渡すべきだとも、わかっていた。
カインは、紙を、もう一度折り畳んだ。
それから、外套の内側の、隠しに入れた。
背中の向こうで、ミアの部屋から、イゾルデの読む童話の声が、かすかに聞こえていた。
(誰にも、渡していない)
ガルドの言葉が、耳の奥に残っていた。
カインは、外套の上から、紙の入った場所に左手を当てた。
その手が、少しだけ、震えていた。




