第41話 御者
ノエラの地図は、三日で、帳面の余白からはみ出した。
ヤンが二晩かけて北の街道を見てきた。荷車は十台。引いているのは驢馬が二頭ずつ。護衛は二十と少し、騎馬が四。北の峠を越えて、川沿いの帝国の陣へ向かっている。
「速さは、轍で測れます」
軍議の天幕で、ノエラは、地図の一点に炭筆を置いた。
「荷は鉄です。重い。平らな道なら人が歩く速さ。でも、ここ」
峠の手前の、九十九折りの坂だった。
「この坂を登る時だけは、子供が歩くより遅くなります。荷車の間も開きます。護衛は前と後ろに分かれる。真ん中は、御者だけです」
年かさの髭の幹部が、腕を組んだまま言った。
「で、どうする」
「坂の上で、先頭の荷車を止めます。同時に、一番後ろの荷車の止め縄を切ります」
ノエラの炭筆が、坂を下へなぞった。
「後ろの荷車が坂を落ちて、後ろの護衛を塞ぎます。前の護衛は、坂の上の私たちと、止まった荷車に挟まれます。御者は、荷車が止まれば、逃げます」
ノエラは、顔を上げた。
「奪えるのは、七台。こちらの死者は、計算の上では、〇です」
天幕の中が静かになった。
髭の幹部は、しばらく地図を睨んでいた。
それから、レオニスを見た。
レオニスは、左手の布を巻き直しながら、黙って聞いていた。布の下の指が、動くのかどうか、ハルトにはわからなかった。
「ノエラの策でやる」
レオニスは言った。
「指揮は、ベック。ノエラは一緒に行って、坂の上で見てろ。……去年の秋から、一度も戦場に出てないだろ」
ノエラの炭筆が、指の間で止まった。
「……はい」
「鉄を見分ける目も要る」
レオニスは、天幕の入口のほうを見た。
いつからそこにいたのか、ネリが、煤のついた顔を覗かせていた。
「居候。来るか」
「行く」
ネリは、即座に答えた。
坂の上の岩陰に伏せたのは、二十五人だった。
ベックの新兵の組。ヤン。ゴードン。ユノと、弓を持った古参兵が四人。ノエラと、ネリ。
ハルトは、坂の上の、道の真ん中に一番近い岩の陰にいた。先頭の荷車を止める役だった。隣にロブ。少し後ろに、ゴードン。
ヤンだけが、坂の下へ回っていた。一番後ろの荷車の止め縄を、切る役だった。
日が高くなっていた。
初夏の日差しが、岩を焼いていた。右手の灰色の上の火傷は、まだ赤く爛れていたが、熱さは感じなかった。
(感じないなら、それでいい)
そう思った自分に、ハルトは少しだけ、ぞっとした。
坂の下から、車輪の軋む音が聞こえてきた。
荷車の列は、ノエラの言ったとおりに、のろのろと坂を登ってきた。
先頭に騎馬が二。その後ろに歩兵が八ほど。それから、荷車。間に、また歩兵。最後尾に、騎馬が二と歩兵が十。
荷車の間は、ノエラの言ったとおりに開いていた。
驢馬が、首を下げて、汗を光らせていた。荷台には、粗い布が掛けられていて、その下の形が、四角く、重たそうだった。
ハルトは、岩の陰から、先頭の荷車の御者台を見た。
痩せた男が座っていた。
帝国の外套は、着ていなかった。日に焼けた麻の服。農夫の手。
荷車が、ハルトのいる岩の、すぐ下まで来た。
その時、ハルトは見た。
御者の足首に、鉄の輪が嵌まっていた。
輪から伸びた鎖が、御者台の床に、太い鋲で打ちつけられていた。
ハルトは、二台目を見た。
同じだった。
三台目も。
(逃げられない)
息が止まった。
荷車が止まれば、御者は逃げる。ノエラは、そう数えていた。
けれど、この人たちは、逃げられない。
一番後ろの荷車が坂を落ちれば、その御者は、荷車と一緒に落ちる。
「ベック」
ハルトは、這うようにして、ベックのいる岩の陰まで戻った。
「御者が、鎖で、繋がれてます。荷車に」
ベックの片方だけの目が、坂の下を見た。
一瞬で見て取った。
「……ヤンは、もう下だ」
ベックの声は、低かった。
「合図は、先頭が止まった時。先頭を止めなきゃ、ヤンは縄を切らん」
「じゃあ」
「止めずに、行かせるか。全部、取り逃がす」
ハルトは、坂の上の、ノエラの伏せている岩を見た。
ノエラも、こちらを見ていた。ハルトの顔を見て、何かが起きたと、わかった顔だった。
けれど、それを伝えに走る時間は、なかった。
先頭の騎馬が、坂の上に、顔を出そうとしていた。
「止めます」
ハルトは言った。
「先頭を止めて、後ろも、落とさないで止めます。坂の途中で」
「どうやって」
「受けます」
ベックは、ハルトの顔を一度だけ見た。
それから、岩陰の全員に手で合図をした。
「言い出したのは、おまえだ」
ベックは言った。
「だが、一人で前に立つなと、言ったな」
先頭の騎馬が坂の上に出た瞬間、ユノの矢が、馬の鼻先の地面に突き立った。
馬が棹立ちになった。
古参兵たちの矢が続いた。帝国の歩兵が盾を上げる。坂の上が、一度に騒がしくなった。
ハルトは、岩陰から飛び出した。
先頭の荷車の、驢馬の前へ。
驢馬が、悲鳴を上げて、足を突っ張った。荷車が止まる。御者が、鎖に足を取られて、御者台から転がり落ちかけた。
止まった。
その瞬間、坂の下で、ヤンの角笛が短く鳴った。
縄が切られた。
坂のずっと下で、最後尾の荷車が、ゆっくりと、後ろへ動き出すのが見えた。
「ロブ! ゴードンさん!」
ハルトは、坂を駆け下りた。
荷車と荷車の間を、すり抜けていく。驚いた驢馬が跳ねる。帝国の歩兵が、何が起きたのかわからない顔で振り返る。その横を走り抜ける。
一台、二台、三台。
後ろから、ロブとゴードンの足音がついてきた。
最後尾の荷車は、もう、坂を半分落ちかけていた。
鉄を積んだ荷車が、自分の重さで、どんどん速くなっていく。驢馬が引きずられ、蹄で地面を掻いている。御者台で、御者が、鎖を両手で引っ張っていた。外れるはずのない鎖を。
その下には、後ろの護衛の騎馬と歩兵がいた。荷車が落ちてくるのを見て、道の脇へ散っていく。
ハルトは、荷車の後ろへ回り込んだ。
坂の、下側へ。
落ちてくる荷車の、正面へ。
「ハルト!」
ゴードンの声がした。
ハルトは、盾を両腕で構えた。
膝を落とした。
荷車の後ろの縁が、盾にぶつかった。
衝撃が、腕から肩へ、肩から背骨へ、背骨から足の裏へ抜けた。
足が、ずるずると、坂を滑った。
止まらない。
鉄の重さは、浅瀬の帝国兵の盾の壁とは、比べものにならなかった。人の重さではなかった。坂そのものが、落ちてくるようだった。
盾の縁で、ゴードンが巻いた鉄の帯が軋んだ。
(割れるな)
ハルトは、右手で、盾の裏の持ち手を握りしめた。
灰色の指が、持ち手に食い込んだ。
握る感覚は、なかった。
かわりに冷えが来た。
指先から、手首へ。手首から、その上へ。灰色の斑の縁から、冷たいものが、腕の中を這い上がってくる。浅瀬の時より、速かった。
盾が、少しだけ、止まった。
荷車の速さが、ほんの少しだけ、落ちた。
それでも、まだ、ずるずると滑っていた。
受けるだけでは、足りなかった。
受けて、崩して、繋げ。
崩すものは、ない。荷車は、崩れない。
なら。
「繋ぎます!」
ハルトは叫んだ。
何を、誰に、とは言わなかった。
言わなくても、わかってくれる人たちだった。
ロブが、荷車の横から、車輪の輻に、槍の柄を突っ込んだ。柄が、みしりと鳴って、車輪が一瞬、止まる。
その一瞬に、ゴードンが、反対側の車輪の下へ、拾った石を叩き込んだ。
荷車が、がくん、と揺れた。
ハルトの盾に、最後の重さが、どん、と来た。
それから、止まった。
坂の途中で。
ハルトの膝が、地面に落ちた。
その後のことは、半分しか覚えていない。
坂の上で、ベックの組と帝国の前の護衛がぶつかっていた。後ろの護衛は、止まった荷車に道を塞がれて、坂を上がってこられなかった。ノエラの計算どおりではなかった。けれど、挟まれていたのは、やはり、前の護衛のほうだった。
ユノの矢が、騎馬の手綱を射切った。
帝国の護衛の隊長らしい男が、坂の上と下を見比べて、退け、と叫んだ。
護衛は、荷車を置いて、峠の向こうへ退いていった。
ハルトは、坂の途中で、盾を構えた形のまま、動けずにいた。
右手が、持ち手に貼りついていた。
左手で、一本ずつ剥がそうとして、剥がれなかった。指が、握った形のまま、石のように固まっていた。
ゴードンが、黙って、ハルトの指を、一本ずつ、持ち手から外してくれた。
その手は、温かいはずだった。
何も、届かなかった。
荷車は、十台のうち、九台が残った。
一台だけ、坂の途中の、曲がりの外側で、横倒しになっていた。
後ろから三台目の荷車だった。
最後尾の荷車が落ち始めた時、その前の驢馬が驚いて跳ね、轅が折れて、荷車ごと、道の外の斜面へ傾いたのだった。
誰も、そこまでは見ていなかった。
ハルトも、最後尾の荷車しか、見ていなかった。
横倒しの荷車の下から、鎖が一本、伸びていた。
その先に御者がいた。
ゴードンとロブが、荷車を持ち上げようとした。鉄の延べ棒が、荷台からこぼれて、斜面を転がり落ちていった。
荷車は、持ち上がった。
御者は、もう、動かなかった。
ネリが鎖を切った。
九台の荷車の御者、九人の足首から。
槌と鑿で、鎖の環を一つずつ。
「打ち方が、下手」
ネリは、鎖を叩きながら、誰にともなく言った。
「わざと、外れにくく打ってある。下手なのに、そこだけ、丁寧」
鎖から外された御者たちは、自分の足首を、信じられないものを見るように、撫でていた。北の村の農夫たちだった。帝国の徴発で、荷車ごと連れてこられたのだと、一人が言った。
十人目の御者の鎖は、ネリが最後に切った。
もう、動かない人の足首から。
ネリは、切ったあとも、しばらく、その足首から手を離さなかった。
ノエラは、坂の上の岩に座っていた。
帳面を、膝の上に開いていた。
ハルトが近づいても、顔を上げなかった。
帳面には、荷車の数と、延べ棒の数と、こちらの負傷者の数が、もう書かれていた。
荷車、九。延べ棒、およそ三百。負傷、四。ロブの腕、折れた槍の柄で打撲。ハルト、右腕。
死者、の欄は、空いていた。
ノエラの炭筆が、その欄の上で止まっていた。
「……御者、十」
ノエラは言った。
「私は、計画の時に、そう書きました。御者、十。非戦闘員。荷車が止まれば、逃げる」
炭筆の先が震えていた。
「私は、御者を、荷車の数で、数えていました」
ハルトは、何も言えなかった。
「あの人は、旗団の者では、ありません」
ノエラは、自分に言い聞かせるように言った。
「帝国の荷車の、御者です。私の帳面に、書く理由は、ありません」
それから、書いた。
死者、一。
その横に小さく。
御者。北の村の人。名前、まだ。
「数えます」
ノエラは言った。
「書かないと、次に、何人、死なせずに済むのか、数えられません」
ハルトは、ノエラの隣に腰を下ろした。
右腕が、肩まで冷たかった。指は、まだ半分、握った形のままだった。
「俺も」
ハルトは言った。
「近くで見るまで、わかりませんでした。鎖のこと」
「でも、見ました」
「見ただけです」
ノエラは、ハルトの右腕を見た。
灰色の斑は、手首の上、指一本分から、指二本分に増えていた。
「……はい」
ノエラは、帳面を閉じなかった。
「見ただけです」
坂の下で、ネリが、こぼれた延べ棒を、一本ずつ拾い集めていた。
斜面を転がり落ちたものも、藪に分け入って、拾っていた。
ハルトが降りていくと、ネリは、一本の延べ棒を、両手で持ったまま、しゃがみこんでいた。
延べ棒の端に、刻印があった。
山の形を三つ重ねたような、小さな印。
ネリが、この砦に来た夜に言っていた、里の印だった。
けれど、ネリが見ていたのは、その隣だった。
刻印の横に、もう一つ、小さな傷のような印が打たれていた。槌の角で、一度だけ、打ったような。
「……これ」
ネリの声が掠れていた。
「爺ちゃんの、印だ」
ハルトは、何も聞けなかった。
一人で打つ人。他人の手を拒む人。
その人が打った鉄が、鎖で繋がれた御者の荷車に載って、帝国の陣へ運ばれていた。
ネリは、延べ棒を、前掛けの中に抱え込んだ。
夏の日差しの中で、その鉄だけが、冷たそうに見えた。




