第40話 鋲
捕虜の交換から、三日が過ぎた。
朝の日差しが、もう、春のものではなくなっていた。堀の泥は乾いて白くひび割れ、門の前の草は、膝のあたりまで伸びていた。
ハルトは、門の見張りに立っていた。
新兵の組の、持ち回りの仕事だった。隣には、ヤンがいた。
「来ます」
ヤンが、弓に手をかけずに言った。
街道の向こうから、小さな影が近づいてきていた。
人が一人。後ろに、手押しの荷車。
荷車は、影の主よりずっと大きかった。槌、鉄床、鞴、ねじれた鉄の棒。積めるだけ積んだ荷が、轍に跳ねるたびに、がちゃがちゃと鳴った。
影は、門の手前で止まった。
小柄な女の子だった。
ハルトの肩くらいまでしか背がない。赤銅色の髪を後ろで一つにまとめて、額の上に、厚い硝子を嵌めた眼鏡を押し上げている。頬に、煤。体に合わない大きな革の前掛けに、工具がいくつもぶら下がっていた。
年の頃は、よくわからなかった。
「ここ、旗団の砦だよね」
女の子は、息を切らしながら言った。
「直すもの、ない? 鍋でも、釘でも、蹄鉄でも、剣でも」
ヤンが、ハルトを横目で見た。
「……どこから来ました」
「北。山のほう」
「一人で?」
「一人で」
ヤンの声が、丁寧なまま、少しだけ冷えた。
「この辺りの街道を、帝国の荷車も通ります。あなたが向こうから来ていない、と、どうやってわかりますか」
女の子は、むっとした顔をした。
それから、荷車の上の鉄床を、ばん、と叩いた。
「帝国の間者が、こんな重いもの押して、峠を三つも越えると思う?」
ヤンは、少しの間、黙った。
ハルトは、荷車の轍を見ていた。深い。街道の乾いた土に、はっきりと二本、刻まれていた。
「……補給の天幕に、連れていきます」
ハルトが言った。
ヤンは、何も言わなかった。弓から、手も離さなかった。けれど、門は開けてくれた。
「ネリ。鍛冶屋」
補給の天幕で、女の子は名乗った。
ノエラは、帳面から顔を上げた。灰色がかった目が、ネリの前掛けと、荷車と、手のひらの火傷の痕を順に見た。
「鍛冶の手は、欲しいです」
平らな声だった。
「修理を待っているものが、槍の穂先十一、鍋三、蹄鉄が二十と少し。直せる者が、今、ここにはいません」
ネリの顔が、ぱっと明るくなった。
「でも、代金は払えません」
ネリの顔が止まった。
「……ひとつも?」
「ひとつも」
ノエラは、天幕の隅から、取っ手の取れた鍋を一つ持ってきた。
「腕を、見せてください。それから、決めます」
砦の隅の、崩れた竈の跡に、ネリは小さな炉を組んだ。
ハルトは、鞴を押す役を頼まれた。
「ゆっくり。一、二、で吸って。三、で押す。火を怒らせないで」
ネリは、炭の色を見ながら言った。
鉄の棒が、赤から、橙へ、黄色へ変わっていく。ネリはそれを鉄床に載せて、槌を振るった。小さな体からは想像できない、重い音だった。
けれど、出来上がった取っ手は、不格好だった。
鍋の縁との継ぎ目が、ぼこりと膨らんで、瘤のようになっていた。
ノエラは、鍋を持ち上げて、取っ手を何度か揺すった。
「使えます」
ネリが息を吐いた。
「でも、売り物にはなりません」
ネリが息を止めた。
天幕の陰から覗いていた古参兵たちの何人かが、笑った。
その後ろから、年かさの髭の幹部が鍋を覗き込んだ。
「山のほうから来た鍛冶だと聞いたから、どんなものかと思えば」
髭の幹部は、鼻を鳴らした。
「子供の手遊びだな。補給係、穂先は町の鍛冶に回せ。食い扶持を一つ増やす余裕はない」
ネリは、何も言い返さなかった。
鍋を、そっとノエラの手から受け取って、自分の荷車に戻した。
それから、炉の火を、黙って崩し始めた。
荷車に槌を積み直していたネリの手が、ふいに止まった。
ハルトの左腕を見ていた。
正確には、そこに提げた、盾を。
「それ」
ネリは、ハルトの前まで歩いてきた。断りもなく、盾の縁に指を這わせる。ゴードンが巻いた、細い鉄の帯。
「誰が巻いたの、これ」
「俺だ」
背中から、声がした。
ゴードンだった。いつから見ていたのか、腕を組んで、炉の跡の脇に立っていた。
ネリは、ゴードンを見上げた。
見上げた首が、痛そうなくらいだった。
「巻き方は、いい。締めの順番も、正しい」
ネリは、帯の継ぎ目を、爪の先で軽く弾いた。
「でも、帯だけじゃ、もたないよ。中の木が、疲れてる」
「知ってる」
「割れるよ。いつか」
「知ってる」
ゴードンは、それだけ言った。
ネリは、しばらくゴードンの顔を見ていた。それから、また盾に目を戻した。
今度は、盾の表に打たれた、鋲を見ていた。
一つずつ、指でなぞっていく。
「……この鋲、ひとつずつ、鉄が違う」
ハルトは、自分の盾を見下ろした。
気づいたことがなかった。
言われてみれば、鋲の頭の色が少しずつ違った。黒いもの。赤茶けたもの。鈍く光るもの。一つだけ、やけに新しいもの。
「壊れるたびに、そこらの鉄で替えた」
ゴードンが言った。
「村の鍛冶屋の端切れ。古い鍋の底。馬の蹄鉄。……それは、去年の冬に、門の閂から抜いたやつだ」
ネリの指が、新しい鋲の上で止まった。
「混ざってる」
小さな声だった。
けれど、さっき鍋を手放した時とは、違う声だった。
「混ざってるから、まだ割れてないんだ。一つの鉄だったら、ひびが、まっすぐ走る。違う鉄が並んでると、そこで、ひびが迷う」
ネリは、盾から顔を上げた。
煤のついた頬が、少しだけ、赤くなっていた。
「爺ちゃんは、だめだって言うんだ。鉄は、一人で打つもんだって。他人の手が入ると、濁るって」
「爺ちゃん」
「里の鍛冶場の、一番えらい人。あたしの、爺ちゃん」
ネリは、前掛けの端をぎゅっと握った。
「あたしは、混ぜるほうが、好きなんだ。いろんな鉄を、いろんな人の手で打ったほうが、強くなる気がする。……だから、出てきた」
「それだけで?」
ハルトが聞くと、ネリは、一度、口を開きかけた。
「それに、今、里の炉は」
そこで止まった。
「……ううん。それだけ」
ネリは、首を振った。
それきり、盾の話も、里の話も、しなかった。
日が傾く頃、通りがかったリュネが、炉の跡で立ち止まった。
ネリの目が、すぐに、リュネの長杖に吸い寄せられた。
「その杖、留め金、緩んでる」
「触らないで」
リュネは、杖を引いた。
「これは、自分で直すの」
「直してないじゃん。三月は放ってる音がする」
リュネの眉が、ぴくりと動いた。
「……ふん」
リュネは、それ以上何も言わずに歩いていった。
ただ、薬師の天幕に入る前に、一度だけ、杖の先の留め金を、指で確かめていた。
結局、ネリは帰らなかった。
髭の幹部に追い払われたのに、炉の火をもう一度熾した。
「どうせ、今日は、もう峠を越えられないし」
ネリはそう言って、ノエラが「町に回す」と言った槍の穂先を、一本、勝手に引き抜いた。
ハルトは、また、鞴を押した。
誰に頼まれたのでもなかった。
穂先が赤く焼けて、ネリが鉄床の上で、それを裏返そうとした時だった。
火箸が滑った。
穂先が、鉄床から転がり落ちかけた。
ハルトは、とっさに右手でそれを押さえた。
じゅ、と音がした。
焦げた匂いがした。
ハルトは、自分の右手を見た。
灰色の斑の上に、焼けた鉄が載っていた。
熱くなかった。
痛くもなかった。
押されている、くらいだった。
「ばか!」
ネリが、ハルトの手首を掴んで、水桶に突っ込んだ。
水が、じゅう、と白く煙った。
ネリは、ハルトの手を、水の中で押さえたまま、離さなかった。
「何してんの! 焼けた鉄を、素手で……」
ネリの声が途切れた。
水の中のハルトの手を、見ていた。
灰色の斑の上に、赤く爛れた痕ができていた。ハルトは、それを、他人の手のように眺めていた。
「……熱くないの?」
「……わからない」
ハルトは、正直に言った。
「その辺り、もう、あんまり、わからないんです」
ネリは、黙った。
水の中で、ハルトの手首を掴んだ指に力が入った。
その指は、温かいはずだった。
半分しか、届かなかった。
「冷えた鉄はね」
ネリがぽつりと言った。
「割れやすいんだよ。叩いても、曲がらないで、割れる」
ハルトは、何も言えなかった。
ネリは、水桶から手を引き上げさせると、前掛けのポケットから、獣脂の匂いのする軟膏を出して、乱暴に塗った。
リュネと同じだ、と思った。
乱暴なのに、丁寧だった。
夜、炊事場の焚き火の輪に、ネリは、端のほうで座っていた。
マーサが、何も聞かずに、粥の椀を渡した。
ネリは、それを両手で抱えて、しばらく湯気を見ていた。
レオニスが、ハルトの隣にどかりと座った。左手には、まだ布が巻かれていた。椀は、右手だけで持っていた。
「ノエラから聞いた。鍛冶屋が来たって」
「はい」
「髭のおっさんが、追い返したって」
「……はい」
「で、まだいる」
レオニスは、焚き火の向こうのネリを見た。
それから、ハルトの右手の、軟膏で光る火傷を見た。
「おまえ、どう思う」
ハルトは、少しの間、考えた。
それから、椀を置いて、立ち上がった。
焚き火を回り込んで、ネリの前にしゃがんだ。
ネリが顔を上げた。
「ここ、鍛冶の人がいないんです」
ハルトは言った。
「槍の穂先が十一本。鍋が三つ。蹄鉄が、二十と少し。ノエラさんが、数えてました」
「……知ってる。聞いた」
「それから、この盾も」
ハルトは、左腕の盾を、少しだけ持ち上げた。
鉄の帯。違う色の鋲。
「いつか割れるって、ゴードンさんも、あなたも、言いました。……割れる前に、誰かに見ていてほしいんです」
ネリは、盾を見て、それから、ハルトの顔を見た。
「あたし、下手だよ。今日、見たでしょ」
「俺も、火、出ないです」
ハルトは言った。
「ここ、一人で打たなくても、いいところです。たぶん」
焚き火がぱちりと爆ぜた。
ネリは、長いこと、何も言わなかった。
ハルトの後ろで、レオニスの声がした。
「言っとくが、うちは客としては置かない。飯の量も、働く量も同じだ」
それから、少し笑った声で付け足した。
「髭のおっさんには、俺から言っとく。穂先を町に回す荷車代のほうが、粥一杯より高い」
ネリは、椀の中の粥を見下ろした。
それから、一口、すすった。
「……薄い」
「よく言われる」
レオニスは、笑った。
ネリも、少しだけ、笑った。煤のついた頬が、焚き火の色に照らされていた。
「布は、まだ、いい」
ネリは言った。
「一本、ちゃんと打てたら、巻く。それまでは、居候」
ノエラが、焚き火の輪の外で、帳面を開いていた。
ハルトが覗き込むと、ノエラは、隠さなかった。
鍛冶、一。
半、とは、書いていなかった。
「……一人分、なんですね」
「一人分です」
ノエラは言った。
「下手でも、そこに立つ人は、一人分です。……誰かに、そう教わりました」
ハルトは、何も言わなかった。
ノエラの炭筆が、次の行に移ろうとした時、ネリが、椀を抱えたまま、こちらへ歩いてきた。
「ねえ、帳面の人」
「ノエラです」
「ノエラ。言っとこうと思って」
ネリは、少しだけ、声を落とした。
「ここに来る途中、北の街道で、帝国の荷車の列を見た。十台くらい。鉄を積んでた。延べ棒の、まだ何にも打ってない鉄」
ノエラの炭筆が止まった。
「延べ棒に、刻印があった」
ネリは、椀を握る指に力を込めた。
「あれ、うちの里の印だった」
焚き火の音だけが、しばらく、続いた。
ノエラは、帳面のいちばん下の余白に、何かを書きつけた。
ハルトには、読めなかった。
数字では、なかった。
地図だった。




