↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/90

第40話 鋲

捕虜の交換から、三日が過ぎた。

朝の日差しが、もう、春のものではなくなっていた。堀の泥は乾いて白くひび割れ、門の前の草は、膝のあたりまで伸びていた。

ハルトは、門の見張りに立っていた。

新兵の組の、持ち回りの仕事だった。隣には、ヤンがいた。

「来ます」

ヤンが、弓に手をかけずに言った。

街道の向こうから、小さな影が近づいてきていた。

人が一人。後ろに、手押しの荷車。

荷車は、影の主よりずっと大きかった。槌、鉄床、鞴(ふいご)、ねじれた鉄の棒。積めるだけ積んだ荷が、轍に跳ねるたびに、がちゃがちゃと鳴った。

影は、門の手前で止まった。

小柄な女の子だった。

ハルトの肩くらいまでしか背がない。赤銅色の髪を後ろで一つにまとめて、額の上に、厚い硝子を嵌めた眼鏡を押し上げている。頬に、煤。体に合わない大きな革の前掛けに、工具がいくつもぶら下がっていた。

年の頃は、よくわからなかった。

「ここ、旗団の砦だよね」

女の子は、息を切らしながら言った。

「直すもの、ない? 鍋でも、釘でも、蹄鉄でも、剣でも」

ヤンが、ハルトを横目で見た。

「……どこから来ました」

「北。山のほう」

「一人で?」

「一人で」

ヤンの声が、丁寧なまま、少しだけ冷えた。

「この辺りの街道を、帝国の荷車も通ります。あなたが向こうから来ていない、と、どうやってわかりますか」

女の子は、むっとした顔をした。

それから、荷車の上の鉄床を、ばん、と叩いた。

「帝国の間者が、こんな重いもの押して、峠を三つも越えると思う?」

ヤンは、少しの間、黙った。

ハルトは、荷車の轍を見ていた。深い。街道の乾いた土に、はっきりと二本、刻まれていた。

「……補給の天幕に、連れていきます」

ハルトが言った。

ヤンは、何も言わなかった。弓から、手も離さなかった。けれど、門は開けてくれた。


「ネリ。鍛冶屋」

補給の天幕で、女の子は名乗った。

ノエラは、帳面から顔を上げた。灰色がかった目が、ネリの前掛けと、荷車と、手のひらの火傷の痕を順に見た。

「鍛冶の手は、欲しいです」

平らな声だった。

「修理を待っているものが、槍の穂先十一、鍋三、蹄鉄が二十と少し。直せる者が、今、ここにはいません」

ネリの顔が、ぱっと明るくなった。

「でも、代金は払えません」

ネリの顔が止まった。

「……ひとつも?」

「ひとつも」

ノエラは、天幕の隅から、取っ手の取れた鍋を一つ持ってきた。

「腕を、見せてください。それから、決めます」


砦の隅の、崩れた竈の跡に、ネリは小さな炉を組んだ。

ハルトは、鞴を押す役を頼まれた。

「ゆっくり。一、二、で吸って。三、で押す。火を怒らせないで」

ネリは、炭の色を見ながら言った。

鉄の棒が、赤から、橙へ、黄色へ変わっていく。ネリはそれを鉄床に載せて、槌を振るった。小さな体からは想像できない、重い音だった。

けれど、出来上がった取っ手は、不格好だった。

鍋の縁との継ぎ目が、ぼこりと膨らんで、瘤のようになっていた。

ノエラは、鍋を持ち上げて、取っ手を何度か揺すった。

「使えます」

ネリが息を吐いた。

「でも、売り物にはなりません」

ネリが息を止めた。

天幕の陰から覗いていた古参兵たちの何人かが、笑った。

その後ろから、年かさの髭の幹部が鍋を覗き込んだ。

「山のほうから来た鍛冶だと聞いたから、どんなものかと思えば」

髭の幹部は、鼻を鳴らした。

「子供の手遊びだな。補給係、穂先は町の鍛冶に回せ。食い扶持を一つ増やす余裕はない」

ネリは、何も言い返さなかった。

鍋を、そっとノエラの手から受け取って、自分の荷車に戻した。

それから、炉の火を、黙って崩し始めた。


荷車に槌を積み直していたネリの手が、ふいに止まった。

ハルトの左腕を見ていた。

正確には、そこに提げた、盾を。

「それ」

ネリは、ハルトの前まで歩いてきた。断りもなく、盾の縁に指を這わせる。ゴードンが巻いた、細い鉄の帯。

「誰が巻いたの、これ」

「俺だ」

背中から、声がした。

ゴードンだった。いつから見ていたのか、腕を組んで、炉の跡の脇に立っていた。

ネリは、ゴードンを見上げた。

見上げた首が、痛そうなくらいだった。

「巻き方は、いい。締めの順番も、正しい」

ネリは、帯の継ぎ目を、爪の先で軽く弾いた。

「でも、帯だけじゃ、もたないよ。中の木が、疲れてる」

「知ってる」

「割れるよ。いつか」

「知ってる」

ゴードンは、それだけ言った。

ネリは、しばらくゴードンの顔を見ていた。それから、また盾に目を戻した。

今度は、盾の表に打たれた、鋲を見ていた。

一つずつ、指でなぞっていく。

「……この鋲、ひとつずつ、鉄が違う」

ハルトは、自分の盾を見下ろした。

気づいたことがなかった。

言われてみれば、鋲の頭の色が少しずつ違った。黒いもの。赤茶けたもの。鈍く光るもの。一つだけ、やけに新しいもの。

「壊れるたびに、そこらの鉄で替えた」

ゴードンが言った。

「村の鍛冶屋の端切れ。古い鍋の底。馬の蹄鉄。……それは、去年の冬に、門の閂から抜いたやつだ」

ネリの指が、新しい鋲の上で止まった。

「混ざってる」

小さな声だった。

けれど、さっき鍋を手放した時とは、違う声だった。

「混ざってるから、まだ割れてないんだ。一つの鉄だったら、ひびが、まっすぐ走る。違う鉄が並んでると、そこで、ひびが迷う」

ネリは、盾から顔を上げた。

煤のついた頬が、少しだけ、赤くなっていた。

「爺ちゃんは、だめだって言うんだ。鉄は、一人で打つもんだって。他人の手が入ると、濁るって」

「爺ちゃん」

「里の鍛冶場の、一番えらい人。あたしの、爺ちゃん」

ネリは、前掛けの端をぎゅっと握った。

「あたしは、混ぜるほうが、好きなんだ。いろんな鉄を、いろんな人の手で打ったほうが、強くなる気がする。……だから、出てきた」

「それだけで?」

ハルトが聞くと、ネリは、一度、口を開きかけた。

「それに、今、里の炉は」

そこで止まった。

「……ううん。それだけ」

ネリは、首を振った。

それきり、盾の話も、里の話も、しなかった。


日が傾く頃、通りがかったリュネが、炉の跡で立ち止まった。

ネリの目が、すぐに、リュネの長杖に吸い寄せられた。

「その杖、留め金、緩んでる」

「触らないで」

リュネは、杖を引いた。

「これは、自分で直すの」

「直してないじゃん。三月は放ってる音がする」

リュネの眉が、ぴくりと動いた。

「……ふん」

リュネは、それ以上何も言わずに歩いていった。

ただ、薬師の天幕に入る前に、一度だけ、杖の先の留め金を、指で確かめていた。


結局、ネリは帰らなかった。

髭の幹部に追い払われたのに、炉の火をもう一度熾した。

「どうせ、今日は、もう峠を越えられないし」

ネリはそう言って、ノエラが「町に回す」と言った槍の穂先を、一本、勝手に引き抜いた。

ハルトは、また、鞴を押した。

誰に頼まれたのでもなかった。

穂先が赤く焼けて、ネリが鉄床の上で、それを裏返そうとした時だった。

火箸が滑った。

穂先が、鉄床から転がり落ちかけた。

ハルトは、とっさに右手でそれを押さえた。

じゅ、と音がした。

焦げた匂いがした。

ハルトは、自分の右手を見た。

灰色の斑の上に、焼けた鉄が載っていた。

熱くなかった。

痛くもなかった。

押されている、くらいだった。

「ばか!」

ネリが、ハルトの手首を掴んで、水桶に突っ込んだ。

水が、じゅう、と白く煙った。

ネリは、ハルトの手を、水の中で押さえたまま、離さなかった。

「何してんの! 焼けた鉄を、素手で……」

ネリの声が途切れた。

水の中のハルトの手を、見ていた。

灰色の斑の上に、赤く爛れた痕ができていた。ハルトは、それを、他人の手のように眺めていた。

「……熱くないの?」

「……わからない」

ハルトは、正直に言った。

「その辺り、もう、あんまり、わからないんです」

ネリは、黙った。

水の中で、ハルトの手首を掴んだ指に力が入った。

その指は、温かいはずだった。

半分しか、届かなかった。

「冷えた鉄はね」

ネリがぽつりと言った。

「割れやすいんだよ。叩いても、曲がらないで、割れる」

ハルトは、何も言えなかった。

ネリは、水桶から手を引き上げさせると、前掛けのポケットから、獣脂の匂いのする軟膏を出して、乱暴に塗った。

リュネと同じだ、と思った。

乱暴なのに、丁寧だった。


夜、炊事場の焚き火の輪に、ネリは、端のほうで座っていた。

マーサが、何も聞かずに、粥の椀を渡した。

ネリは、それを両手で抱えて、しばらく湯気を見ていた。

レオニスが、ハルトの隣にどかりと座った。左手には、まだ布が巻かれていた。椀は、右手だけで持っていた。

「ノエラから聞いた。鍛冶屋が来たって」

「はい」

「髭のおっさんが、追い返したって」

「……はい」

「で、まだいる」

レオニスは、焚き火の向こうのネリを見た。

それから、ハルトの右手の、軟膏で光る火傷を見た。

「おまえ、どう思う」

ハルトは、少しの間、考えた。

それから、椀を置いて、立ち上がった。

焚き火を回り込んで、ネリの前にしゃがんだ。

ネリが顔を上げた。

「ここ、鍛冶の人がいないんです」

ハルトは言った。

「槍の穂先が十一本。鍋が三つ。蹄鉄が、二十と少し。ノエラさんが、数えてました」

「……知ってる。聞いた」

「それから、この盾も」

ハルトは、左腕の盾を、少しだけ持ち上げた。

鉄の帯。違う色の鋲。

「いつか割れるって、ゴードンさんも、あなたも、言いました。……割れる前に、誰かに見ていてほしいんです」

ネリは、盾を見て、それから、ハルトの顔を見た。

「あたし、下手だよ。今日、見たでしょ」

「俺も、火、出ないです」

ハルトは言った。

「ここ、一人で打たなくても、いいところです。たぶん」

焚き火がぱちりと爆ぜた。

ネリは、長いこと、何も言わなかった。

ハルトの後ろで、レオニスの声がした。

「言っとくが、うちは客としては置かない。飯の量も、働く量も同じだ」

それから、少し笑った声で付け足した。

「髭のおっさんには、俺から言っとく。穂先を町に回す荷車代のほうが、粥一杯より高い」

ネリは、椀の中の粥を見下ろした。

それから、一口、すすった。

「……薄い」

「よく言われる」

レオニスは、笑った。

ネリも、少しだけ、笑った。煤のついた頬が、焚き火の色に照らされていた。

「布は、まだ、いい」

ネリは言った。

「一本、ちゃんと打てたら、巻く。それまでは、居候」


ノエラが、焚き火の輪の外で、帳面を開いていた。

ハルトが覗き込むと、ノエラは、隠さなかった。

鍛冶、一。

半、とは、書いていなかった。

「……一人分、なんですね」

「一人分です」

ノエラは言った。

「下手でも、そこに立つ人は、一人分です。……誰かに、そう教わりました」

ハルトは、何も言わなかった。

ノエラの炭筆が、次の行に移ろうとした時、ネリが、椀を抱えたまま、こちらへ歩いてきた。

「ねえ、帳面の人」

「ノエラです」

「ノエラ。言っとこうと思って」

ネリは、少しだけ、声を落とした。

「ここに来る途中、北の街道で、帝国の荷車の列を見た。十台くらい。鉄を積んでた。延べ棒の、まだ何にも打ってない鉄」

ノエラの炭筆が止まった。

「延べ棒に、刻印があった」

ネリは、椀を握る指に力を込めた。

「あれ、うちの里の印だった」

焚き火の音だけが、しばらく、続いた。

ノエラは、帳面のいちばん下の余白に、何かを書きつけた。

ハルトには、読めなかった。

数字では、なかった。

地図だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。