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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第39話 持ち方

--- カイン視点 ---

木剣が手から消えた。

消えたように、見えた。

気づいた時には、カインの木剣は中庭の石畳を転がっていて、喉元に、ガルドの木剣の先が止まっていた。

「右が、死んでいるな」

ガルドが言った。

息一つ、乱れていなかった。

カインは、自分の右腕を見た。肘まで這い上がった灰色。握っているつもりの指が、柄の感触を返してこない。だから左で支える。左で支えるから、重心が右に流れる。

その一瞬を、この人は見逃さない。

「大したことは、ありません」

「慣れている、と言うつもりなら、言うな」

ガルドは木剣を下ろした。

「慣れた痛みは、痛みのまま残っている。数えるのをやめただけだ」


東の砦に来て、ひと月近くが経っていた。

砦というより、古い館だった。灰色の石を積んだ壁に囲まれ、中庭に井戸と、小さな果樹の木が三本。北の塔からは、帝国の東の平原が、どこまでも見渡せた。

ガルドは、ここに兵を百ほどしか置いていない。

将軍の館にしては、静かすぎる場所だった。

着いた日の夜、ガルドは言った。

「紋は使うな。ここにいる間は」

「……流れを断つ方法は」

「帝都にある。だが、今のおまえを帝都に連れていけば、あの連中は、おまえを道具として使い潰す」

ガルドは、それ以上は言わなかった。

翌朝から、剣の稽古が始まった。

毎朝、日の出から昼まで。カインは一度も、ガルドから一本を取れていなかった。


「また、負けたの」

中庭の端から、声がした。

イゾルデだった。

ガルドの娘。カインと同じくらいの年。父と同じ黒髪を、後ろで一本の三つ編みにして背に垂らしている。日に焼けた頬に、細い眉。立っているだけで、背筋に一本、剣を通したような娘だった。

着いた日、カインが最初に言葉を交わした帝国の人間がイゾルデだった。

あの日、イゾルデは、カインの背からミアを受け取りながら、こう言った。

「父上が拾ってくるのは、たいてい、壊れかけのものよ。剣とか、馬とか、人とか」

それから、カインの灰色の腕を見て、付け足した。

「壊れかけのものほど、手入れの仕方を覚えておかないと、すぐに駄目になるの」

それきり、この娘は、カインに遠慮というものをしたことがない。

「父上から一本取れたら、次は私の番だって、言ったわよね」

「取れていない」

「知ってる。だから、いつまで待たせるのって、聞いてるの」

イゾルデは、木剣を肩に担いでいた。

その足元に、小さな影があった。

ミアだった。

イゾルデの外套の裾を、片手で掴んでいる。もう片方の手には、果樹の木から落ちた、青い実を一つ。

ミアは、カインと目が合うと、ぱっと顔を明るくした。

「カインお兄ちゃん、まけたの?」

「……ああ」

「イゾルデおねえちゃんも、まいにち、まけてるよ」

イゾルデの頬が、わずかに赤くなった。

「余計なことは言わなくていいの」

ミアが、くすくすと笑った。

その声を聞くたびに、カインの胸の奥で、何かが、ほどけて、また締まった。

あの夜、街道で「ひとりで、いかないで」と言ってから、ミアは少しずつ、また口をきくようになった。最初は、はい、と、いいえ。それから、イゾルデの名前。それから、果樹の木の名前。

この館で、ミアは笑うようになった。

それが、帝国の館だということを、カインは、なるべく考えないようにしていた。

(いちばん安全な子供だ)

あの隊長の声を、時々、思い出した。


昼過ぎ、カインは館の裏手の、小さな庭の前を通った。

石の塀に囲まれた、薬草の庭だった。よく手入れされている。雑草一本、生えていない。

その庭にだけ、誰も足を踏み入れないことに、カインは来て数日で気づいていた。

「母上の庭」

後ろから、イゾルデが言った。

「私が十の時に、病で死んだの。それから、父上は、この庭を誰にも触らせない。帝都から戻るたびに、一人で手入れしてる」

イゾルデは、塀の上から、薬草の葉を見ていた。

「変でしょう。死んだ人の庭を、あんなに大事にして」

カインは、答えなかった。

孤児院の、薪小屋の裏を思い出した。院長が、誰にも言わずに、毎年、同じ場所に花の種を蒔いていた。誰のための花なのか、カインたちは、最後まで聞かなかった。

「変じゃない」

カインは言った。

「誰かのために続けていることは、変じゃない」

イゾルデが、少しだけ、こちらを見た。

それから、ふい、と目を逸らした。

「……あなた、時々、父上みたいなことを言うのね」


その日の夕方、ガルドが帝都への報告を終えて、館の書斎に戻ってきた。

正確には、渡し場から戻ったのは四日前だった。それから帝都へ使いを出し、返事を待ち、今日やっと、書斎の扉が開いた。

カインは、呼ばれた。

書斎は、狭かった。壁一面の棚に、帳簿と地図と、古い書物。机の上に、剣が一本、鞘ごと置かれている。宝石のない、飾り気のない長剣。

ガルドは、窓の外を見ていた。

「渡し場で、反乱軍と捕虜を交換した」

背を向けたまま、言った。

「旗の主に会った。若い男だった。……それから」

少しの間があった。

「盾の少年に、会った」

カインの呼吸が止まった。

ガルドは、振り返らなかった。

「古い盾を持っていた。縁に、新しい鉄の帯が巻いてあった。左の腕に、橙と藍の布。反乱軍の、旗の布だ」

旗の布。

反乱軍。

カインの頭の中で、二つの言葉が、ゆっくりと形になった。

ハルトが反乱軍にいる。

自分が力を差し出した、帝国と戦う側に。

「右手が、灰色だった」

ガルドが言った。

「手首の上まで、這い上がっていた」

カインは、自分の右腕を見た。

肘まで来た灰色。

あの夜、避難所で、ハルトの右腕を見た。灰色は、指先から手首までだった。

手首の、上まで。

(まだ、流れている)

離れれば、届かなくなると思っていた。

自分が遠くへ行けば、自分が何を選んでも、その重さはもう、ハルトには流れないと。

そう思って、ここまで来た。

なのに。

「……あいつは」

声が掠れた。

「あいつは、何か、言っていましたか」

「何も」

ガルドは、ようやく振り返った。

古い刀傷が、夕日の中で、深い影を作っていた。

「聞きたいことがある顔をしていた。喉の奥まで、言葉が上がってきていた。……それでも、黙っていた。旗の主の後ろで、盾を握りしめて」

ガルドは、机の上の剣に手を置いた。

「おまえの名前は、出さなかった」

「……なぜ」

「出せば、あの少年は、川を渡ってくる。そういう目をしていた」

カインは、何も言えなかった。

ハルトの目を、思い出そうとした。

迷っている時の目。決めた時の目。飛び石の上で、自分の背中にしがみついていた、小さな頃の目。

全部、思い出せた。

思い出せるのに、どれ一つ、もう、すぐそばにはなかった。


その夜、ミアの部屋の前を通ると、扉が少しだけ開いていた。

中で、イゾルデが、ミアに何かを読み聞かせていた。帝国の古い童話のようだった。

ミアは、寝台の上で、もう半分眠っていた。

カインが扉の前を離れようとした時、ミアが、ぱちりと目を開けた。

「カインお兄ちゃん」

ミアは、寝台から滑り降りてきた。

裸足のまま、廊下まで出てきて、カインの背中に、後ろから抱きついた。

「おやすみの、ぎゅう」

小さな腕が、カインの腰に回された。

頬が、背中に押しつけられているのがわかった。

わかるのは、それが見えているからだった。

背中には、何も届かなかった。

温かさも、重さも、小さな頬の柔らかさも。そこだけ、すっぽりと、何もなかった。

カインは、振り返って、ミアの頭に手を置いた。

左の手で。

「おやすみ」

「あのね」

ミアが、カインを見上げた。

「おかあさんに、おてがみ、かいてもいい?」

カインの手が、ミアの髪の上で止まった。

マーサの顔が浮かんだ。背中に傷を負ったまま、ミアを守るために魔物の前に身を投げた人。あの幕舎の前を、自分は、黙って通り過ぎた。

手紙が届けば、マーサは知る。ミアがどこにいるのか。誰が、連れ出したのか。

「……いつか、な」

カインは言った。

ミアは、少しだけ首を傾げた。それから、こくりと頷いた。

「やくそく?」

「ああ」

ミアが、イゾルデに手を引かれて、部屋に戻っていく。

扉が閉まる前に、イゾルデが、一度だけ、カインを振り返った。

何も言わなかった。

けれど、その目は、今の約束が守られないことを、知っている目だった。


夜更け、カインは中庭に出た。

月が、三本の果樹の影を、石畳に落としていた。

木剣を握った。

右手は、やはり柄を感じなかった。左で支える。重心が流れる。

振った。

もう一度、振った。

「眠れんか」

井戸の脇に、ガルドが立っていた。

いつから、そこにいたのか、わからなかった。

「将軍。帝都へ、連れていってください」

カインは、木剣を下ろさずに言った。

「流れを断つ方法を、早く知りたい。あいつの腕は、まだ灰色が増えている。俺がここで剣を振っている間にも」

「まだだ」

「なぜ」

ガルドは、井戸の縁に腰を下ろした。

「おまえの持ち方では、帝都に行っても、何も断てん」

「持ち方」

「剣の話ではない」

ガルドは、カインの右腕を見た。灰色の腕を。それから、カインの顔を見た。

「おまえは、全部を一人で受ける持ち方をしている。剣も、荷も、あの子も、あの少年のことも。一人で受けて、一人で払って、誰にも渡さない」

「……それの、何が悪いんですか」

「悪くはない」

ガルドは、月を見上げた。

「ただ、そういう持ち方をする奴は、最後に、持っているものごと、潰れる。周りにいる者を、巻き込んでな」

その声は、カインに向けられているようで、少しだけ、違う誰かに向けられているようにも聞こえた。

「明日から、持ち方を変える」

ガルドは立ち上がった。

「剣の、だ。まずは、そこからだ」

ガルドが館の中へ戻っていった後も、カインは、しばらく中庭に立っていた。

右手の木剣を見下ろした。

握っているはずの柄を、やはり、感じなかった。

(全部を、一人で)

それ以外の持ち方を、カインは、知らなかった。

孤児院で、罰を一人で引き受けた時も。雪の夜、怖がらせないと決めた時も。燃える梁の下でも。

それ以外の持ち方を、誰も、教えてくれなかった。

月が雲に隠れた。

背中は、まだ、何も感じていなかった。

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