↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/105

第38話 名簿

交換の日は、使者が来てから九日後に決まった。

帝都の牢から、去年の秋の捕虜を運んでくるのに、それだけかかるのだという。

その九日の間に、川の水は少しずつ引いていった。夜明けに顔を出す岩は、昼になっても、もう沈まなくなった。

春が、終わりかけていた。


渡し場へ向かったのは、旗団の兵が二十人ほどと、縄で手首を繋がれた帝国の捕虜が十四人だった。

レオニス。年かさの髭の幹部。ヤン。ベック。去年の秋に仲間を捕られた者たち。

ハルトは、その列の一番後ろを歩いた。

出がけに、レオニスに言われていた。

「おまえは、何も喋るな。盾を持って、俺の後ろに立ってろ。それだけでいい」

「……はい」

「向こうが何を言っても、だ」

レオニスは、そう言って笑った。いつもの笑い方だった。

けれど、その日のレオニスは、一度も双剣の柄に触れなかった。触れないように、気をつけているように見えた。

ゴードンは、砦に残った。

残れと言ったのは、レオニスだった。ゴードンは何も言い返さなかった。ただ、門の前で、ハルトの盾の鉄の帯を、もう一度だけ確かめた。

「向こうの顔を、よく見てこい」

それだけ言った。

(ミアのことを)

ハルトは、歩きながら考えていた。

カインが、ミアを連れて北の街道へ向かったこと。帝国の野営地があったこと。

もし、向こうの将軍が、何かを知っていたら。

聞けば、交換が壊れるかもしれない。

聞かなければ、この先、二度と聞けないかもしれない。

答えは、渡し場に着いても、まだ出ていなかった。


渡し場の岸には、昼前から日が照りつけていた。

対岸に、帝国の旗が並んでいる。黒地に鉄色の紋章。その中に一本だけ、剣を象った銀の印を重ねた旗。

舟が、二艘、こちらへ向かってきた。

一艘目には、帝国兵が十人ほど。鎧は着けていない。腰に剣を一本ずつ。

二艘目には、痩せた男たちが乗っていた。

旗団の兵だった。去年の秋に捕らえられた者たち。頬がこけ、髪も髭も伸び放題で、それでも、こちらの岸に並んだ橙と藍の布を見た途端、何人かが、舟の上で立ち上がりかけた。

ハルトの隣で、ベックの片方だけの目が、舟の上の顔を一つずつ追っていた。

一艘目の舟の舳先に、大きな男が立っていた。

鎧も着けず、外套だけを羽織っている。白いものの混じった黒髪。左の頬から顎にかけて、古い刀傷。腰には、飾り気のない長剣が一本。

舟が岸に着くと、男は、誰の手も借りずに、浅瀬に降りた。

水が男の膝を洗った。

それだけのことなのに、岸に並んだ旗団の兵たちが、半歩、後ろに下がった。

ハルトも、自分の足が下がりかけたのに気づいた。

(大きい)

体の大きさではなかった。

ゴードンも、大きい。ロブも、大きい。けれど、この男が浅瀬に立っただけで、川の流れの音まで、低くなったような気がした。

「将軍ガルドだ」

男は言った。

声は、大きくなかった。

「旗の主は、どれだ」

レオニスが、一歩、前に出た。

「俺だ。レオニス」

ガルドの目が、レオニスを見た。

上から下まで、ゆっくりと。粗末な麻の上着。革の胴当て。日に焼けた顔。

背中の、双剣。

ガルドの目が、そこで、ほんの一瞬だけ止まった。

それから、また、レオニスの顔に戻った。

「若いな」

「よく言われる」

レオニスは、笑った。


交換は、名前を読み上げることから始まった。

ガルドの後ろから、一人の女が進み出た。若い。帝国の軍服の上に、手には白い手袋をはめていた。脇に、分厚い帳簿を抱えている。

女は、帳簿を開いて、旗団の捕虜の名前を、一人ずつ読み上げた。

名前を呼ばれた男が、舟を降りて、こちらの岸へ歩いてくる。

レオニスの側からは、年かさの髭の幹部が、帝国の捕虜の名前を読み上げた。縄を解かれた帝国兵が、一人ずつ、浅瀬を渡っていく。

一人、また一人。

九人目の名前を呼んだところで、白い手袋の女は、帳簿から顔を上げた。

「以上です」

岸が静かになった。

舟の上は、もう、空だった。

「……九人?」

年かさの幹部が、低く言った。

「去年の秋、向こうに捕られたのは、十二人のはずだ」

ガルドが、女の手から、一枚の紙を受け取った。

それを、自分の手で、レオニスに差し出した。

「三人は、牢で死んだ。冬の病だ」

紙には、名前が三つ、書かれていた。

その下に、死んだ日付と、死んだ理由。最後の言葉が残っている者は、その言葉まで。

「名前は、ここにある。遺品は、舟に積んできた」

レオニスは、紙を受け取った。

長いこと、それを見ていた。

「……数えてくれたのか」

「数えた」

ガルドは言った。

「数えたなら、返すのが筋だ」


その時、旗団の列の中から、一人が飛び出した。

まだ若い兵だった。ハルトの知らない顔。手に、小刀を握っていた。

浅瀬を渡りかけていた帝国の捕虜の、最後の一人に向かって。

「兄貴を、返せ!」

誰も、間に合わなかった。

ハルトも、盾を上げかけて、間に合わなかった。

小刀が、帝国の捕虜の背中に届く寸前で止まった。

レオニスの手が、刃を、素手で握っていた。

指の間から、血が、ぽたぽたと浅瀬に落ちた。

「……っ、盟主……!」

若い兵の顔が引きつった。

レオニスは、刃を握ったまま、若い兵を見た。

笑っていなかった。

「こいつを刺しても、おまえの兄貴は帰ってこない」

静かな声だった。

「帰ってこないのは、去年の秋、俺が北の砦で負けたからだ。刺すなら、俺にしろ」

若い兵の手から、力が抜けた。

レオニスは、刃を握ったまま、小刀をそっと引き抜いた。

それから、血まみれの手で、若い兵の頭を、自分の肩に引き寄せた。

若い兵は、声を上げて泣いた。

帝国の捕虜は、何が起きたのかわからない顔で、浅瀬の真ん中に立ち尽くしていた。

「行け」

レオニスが捕虜に言った。

「おまえは、もう、うちの鍋じゃない。向こうの鍋に帰れ」

捕虜は、よろめきながら、帝国の舟のほうへ歩いていった。

ハルトは、上げかけた盾を、ゆっくりと下ろした。

腕が重かった。


ガルドは、その一部始終を、浅瀬に立ったまま見ていた。

一歩も、動かなかった。

レオニスが、手の血を外套の裾で拭うのを見届けてから、ガルドは口を開いた。

「誰も切り捨てない軍、と聞いた」

「そのつもりだ」

「浅瀬に、新兵を残したのも、それか」

レオニスは、少しだけ首を傾げた。

「残れとは言ってない。知らせたら引け、と言った」

ガルドは、黙ってレオニスを見ていた。

「残ったのは、あいつらだ」

レオニスは、振り返らなかった。

けれど、その言葉が、自分の後ろの誰に向けられているのかは、ハルトにもわかった。

ガルドの目が、レオニスの肩越しにハルトを見た。


その目に見られた瞬間、ハルトは、盾を持つ左腕に、力が入るのを感じた。

ガルドは、浅瀬を、二歩だけこちらへ歩いた。

近くで見ると、その指は、剣だこで節が歪んでいた。

「盾の少年か」

ハルトは、答えなかった。

何も喋るな、と言われていた。

ガルドは、ハルトの盾を見た。縁に巻かれた鉄の帯。髪の毛ほどの、細い筋。

「古い盾だな」

それから、盾を持つ左腕ではなく、だらりと下げた右手を見た。

手首の上まで這い上がった、灰色の斑。

ガルドの目が、そこで止まった。

レオニスの双剣を見た時よりも、長く。

「……そうか」

ガルドは、それだけ言った。

何が「そうか」なのか、ハルトにはわからなかった。

(今だ)

聞くなら、今しかなかった。

銀灰色の髪の。大剣を背負った。小さな女の子を連れた。

喉の奥まで、言葉が上がってきた。

ハルトは、レオニスの背中を見た。

盟主の手から、まだ、血が浅瀬に落ちていた。九人が、やっと帰ってきた。三人の名前が、紙に書かれていた。

ハルトは、口を閉じた。

右手を、握りしめた。

灰色の指が、握った形のまま、固まって動かなくなった。

ガルドは、ハルトから目を離さなかった。

「受けるだけの盾は、いずれ割れる」

低い声だった。

「割れる前に、何を守るのか、決めておけ」

それから、ガルドは背を向けた。

浅瀬を、舟のほうへ戻っていく。

一度も、振り返らなかった。

白い手袋の女だけが、舟に乗る前に、一度だけ、こちらを振り返った。

その目は、レオニスでも、ハルトでもなく、こちらの岸の、もっと後ろのほうを見ていた。

砦のある、上流の方角を。


帰り道、誰も、ほとんど喋らなかった。

帰ってきた九人は、旗団の兵に肩を貸されて歩いた。何人かは、歩きながら泣いていた。何人かは、ただ、前を見ていた。

ベックは、九人の顔を一人ずつ見て、それから、三つの名前が書かれた紙を、レオニスから借りて読んだ。

読み終えて、紙を返した。

何も言わなかった。

片方だけの目は、乾いていた。

レオニスの左手には、布がきつく巻かれていた。布は、もう赤く滲んでいた。

ハルトが横に並ぶと、レオニスは、前を向いたまま言った。

「よく、黙ってたな」

「……聞きたいことが、ありました」

「知ってる。顔に書いてあった」

レオニスは、笑った。

笑ったあとで、少しだけ、黙った。

「あの将軍は、俺たちの名前を、数えてきた」

レオニスは、布を巻いた左手を軽く握った。

痛みで、顔がわずかに歪んだ。

「次に会う時は、たぶん、数える側と、数えられる側だ」

ハルトは、右手を見た。

指は、まだ、握った形のまま固まっていた。

盾を下ろして、左手で、一本ずつ開いた。

関節が、乾いた枝のように鳴った。

渡し場の方角で、帝国の舟が、対岸に着いたのが見えた。

銀の印の旗が、ゆっくりと、下ろされていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。