第38話 名簿
交換の日は、使者が来てから九日後に決まった。
帝都の牢から、去年の秋の捕虜を運んでくるのに、それだけかかるのだという。
その九日の間に、川の水は少しずつ引いていった。夜明けに顔を出す岩は、昼になっても、もう沈まなくなった。
春が、終わりかけていた。
渡し場へ向かったのは、旗団の兵が二十人ほどと、縄で手首を繋がれた帝国の捕虜が十四人だった。
レオニス。年かさの髭の幹部。ヤン。ベック。去年の秋に仲間を捕られた者たち。
ハルトは、その列の一番後ろを歩いた。
出がけに、レオニスに言われていた。
「おまえは、何も喋るな。盾を持って、俺の後ろに立ってろ。それだけでいい」
「……はい」
「向こうが何を言っても、だ」
レオニスは、そう言って笑った。いつもの笑い方だった。
けれど、その日のレオニスは、一度も双剣の柄に触れなかった。触れないように、気をつけているように見えた。
ゴードンは、砦に残った。
残れと言ったのは、レオニスだった。ゴードンは何も言い返さなかった。ただ、門の前で、ハルトの盾の鉄の帯を、もう一度だけ確かめた。
「向こうの顔を、よく見てこい」
それだけ言った。
(ミアのことを)
ハルトは、歩きながら考えていた。
カインが、ミアを連れて北の街道へ向かったこと。帝国の野営地があったこと。
もし、向こうの将軍が、何かを知っていたら。
聞けば、交換が壊れるかもしれない。
聞かなければ、この先、二度と聞けないかもしれない。
答えは、渡し場に着いても、まだ出ていなかった。
渡し場の岸には、昼前から日が照りつけていた。
対岸に、帝国の旗が並んでいる。黒地に鉄色の紋章。その中に一本だけ、剣を象った銀の印を重ねた旗。
舟が、二艘、こちらへ向かってきた。
一艘目には、帝国兵が十人ほど。鎧は着けていない。腰に剣を一本ずつ。
二艘目には、痩せた男たちが乗っていた。
旗団の兵だった。去年の秋に捕らえられた者たち。頬がこけ、髪も髭も伸び放題で、それでも、こちらの岸に並んだ橙と藍の布を見た途端、何人かが、舟の上で立ち上がりかけた。
ハルトの隣で、ベックの片方だけの目が、舟の上の顔を一つずつ追っていた。
一艘目の舟の舳先に、大きな男が立っていた。
鎧も着けず、外套だけを羽織っている。白いものの混じった黒髪。左の頬から顎にかけて、古い刀傷。腰には、飾り気のない長剣が一本。
舟が岸に着くと、男は、誰の手も借りずに、浅瀬に降りた。
水が男の膝を洗った。
それだけのことなのに、岸に並んだ旗団の兵たちが、半歩、後ろに下がった。
ハルトも、自分の足が下がりかけたのに気づいた。
(大きい)
体の大きさではなかった。
ゴードンも、大きい。ロブも、大きい。けれど、この男が浅瀬に立っただけで、川の流れの音まで、低くなったような気がした。
「将軍ガルドだ」
男は言った。
声は、大きくなかった。
「旗の主は、どれだ」
レオニスが、一歩、前に出た。
「俺だ。レオニス」
ガルドの目が、レオニスを見た。
上から下まで、ゆっくりと。粗末な麻の上着。革の胴当て。日に焼けた顔。
背中の、双剣。
ガルドの目が、そこで、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、また、レオニスの顔に戻った。
「若いな」
「よく言われる」
レオニスは、笑った。
交換は、名前を読み上げることから始まった。
ガルドの後ろから、一人の女が進み出た。若い。帝国の軍服の上に、手には白い手袋をはめていた。脇に、分厚い帳簿を抱えている。
女は、帳簿を開いて、旗団の捕虜の名前を、一人ずつ読み上げた。
名前を呼ばれた男が、舟を降りて、こちらの岸へ歩いてくる。
レオニスの側からは、年かさの髭の幹部が、帝国の捕虜の名前を読み上げた。縄を解かれた帝国兵が、一人ずつ、浅瀬を渡っていく。
一人、また一人。
九人目の名前を呼んだところで、白い手袋の女は、帳簿から顔を上げた。
「以上です」
岸が静かになった。
舟の上は、もう、空だった。
「……九人?」
年かさの幹部が、低く言った。
「去年の秋、向こうに捕られたのは、十二人のはずだ」
ガルドが、女の手から、一枚の紙を受け取った。
それを、自分の手で、レオニスに差し出した。
「三人は、牢で死んだ。冬の病だ」
紙には、名前が三つ、書かれていた。
その下に、死んだ日付と、死んだ理由。最後の言葉が残っている者は、その言葉まで。
「名前は、ここにある。遺品は、舟に積んできた」
レオニスは、紙を受け取った。
長いこと、それを見ていた。
「……数えてくれたのか」
「数えた」
ガルドは言った。
「数えたなら、返すのが筋だ」
その時、旗団の列の中から、一人が飛び出した。
まだ若い兵だった。ハルトの知らない顔。手に、小刀を握っていた。
浅瀬を渡りかけていた帝国の捕虜の、最後の一人に向かって。
「兄貴を、返せ!」
誰も、間に合わなかった。
ハルトも、盾を上げかけて、間に合わなかった。
小刀が、帝国の捕虜の背中に届く寸前で止まった。
レオニスの手が、刃を、素手で握っていた。
指の間から、血が、ぽたぽたと浅瀬に落ちた。
「……っ、盟主……!」
若い兵の顔が引きつった。
レオニスは、刃を握ったまま、若い兵を見た。
笑っていなかった。
「こいつを刺しても、おまえの兄貴は帰ってこない」
静かな声だった。
「帰ってこないのは、去年の秋、俺が北の砦で負けたからだ。刺すなら、俺にしろ」
若い兵の手から、力が抜けた。
レオニスは、刃を握ったまま、小刀をそっと引き抜いた。
それから、血まみれの手で、若い兵の頭を、自分の肩に引き寄せた。
若い兵は、声を上げて泣いた。
帝国の捕虜は、何が起きたのかわからない顔で、浅瀬の真ん中に立ち尽くしていた。
「行け」
レオニスが捕虜に言った。
「おまえは、もう、うちの鍋じゃない。向こうの鍋に帰れ」
捕虜は、よろめきながら、帝国の舟のほうへ歩いていった。
ハルトは、上げかけた盾を、ゆっくりと下ろした。
腕が重かった。
ガルドは、その一部始終を、浅瀬に立ったまま見ていた。
一歩も、動かなかった。
レオニスが、手の血を外套の裾で拭うのを見届けてから、ガルドは口を開いた。
「誰も切り捨てない軍、と聞いた」
「そのつもりだ」
「浅瀬に、新兵を残したのも、それか」
レオニスは、少しだけ首を傾げた。
「残れとは言ってない。知らせたら引け、と言った」
ガルドは、黙ってレオニスを見ていた。
「残ったのは、あいつらだ」
レオニスは、振り返らなかった。
けれど、その言葉が、自分の後ろの誰に向けられているのかは、ハルトにもわかった。
ガルドの目が、レオニスの肩越しにハルトを見た。
その目に見られた瞬間、ハルトは、盾を持つ左腕に、力が入るのを感じた。
ガルドは、浅瀬を、二歩だけこちらへ歩いた。
近くで見ると、その指は、剣だこで節が歪んでいた。
「盾の少年か」
ハルトは、答えなかった。
何も喋るな、と言われていた。
ガルドは、ハルトの盾を見た。縁に巻かれた鉄の帯。髪の毛ほどの、細い筋。
「古い盾だな」
それから、盾を持つ左腕ではなく、だらりと下げた右手を見た。
手首の上まで這い上がった、灰色の斑。
ガルドの目が、そこで止まった。
レオニスの双剣を見た時よりも、長く。
「……そうか」
ガルドは、それだけ言った。
何が「そうか」なのか、ハルトにはわからなかった。
(今だ)
聞くなら、今しかなかった。
銀灰色の髪の。大剣を背負った。小さな女の子を連れた。
喉の奥まで、言葉が上がってきた。
ハルトは、レオニスの背中を見た。
盟主の手から、まだ、血が浅瀬に落ちていた。九人が、やっと帰ってきた。三人の名前が、紙に書かれていた。
ハルトは、口を閉じた。
右手を、握りしめた。
灰色の指が、握った形のまま、固まって動かなくなった。
ガルドは、ハルトから目を離さなかった。
「受けるだけの盾は、いずれ割れる」
低い声だった。
「割れる前に、何を守るのか、決めておけ」
それから、ガルドは背を向けた。
浅瀬を、舟のほうへ戻っていく。
一度も、振り返らなかった。
白い手袋の女だけが、舟に乗る前に、一度だけ、こちらを振り返った。
その目は、レオニスでも、ハルトでもなく、こちらの岸の、もっと後ろのほうを見ていた。
砦のある、上流の方角を。
帰り道、誰も、ほとんど喋らなかった。
帰ってきた九人は、旗団の兵に肩を貸されて歩いた。何人かは、歩きながら泣いていた。何人かは、ただ、前を見ていた。
ベックは、九人の顔を一人ずつ見て、それから、三つの名前が書かれた紙を、レオニスから借りて読んだ。
読み終えて、紙を返した。
何も言わなかった。
片方だけの目は、乾いていた。
レオニスの左手には、布がきつく巻かれていた。布は、もう赤く滲んでいた。
ハルトが横に並ぶと、レオニスは、前を向いたまま言った。
「よく、黙ってたな」
「……聞きたいことが、ありました」
「知ってる。顔に書いてあった」
レオニスは、笑った。
笑ったあとで、少しだけ、黙った。
「あの将軍は、俺たちの名前を、数えてきた」
レオニスは、布を巻いた左手を軽く握った。
痛みで、顔がわずかに歪んだ。
「次に会う時は、たぶん、数える側と、数えられる側だ」
ハルトは、右手を見た。
指は、まだ、握った形のまま固まっていた。
盾を下ろして、左手で、一本ずつ開いた。
関節が、乾いた枝のように鳴った。
渡し場の方角で、帝国の舟が、対岸に着いたのが見えた。
銀の印の旗が、ゆっくりと、下ろされていった。




