第37話 名前
雨は、夜のうちに上がっていた。
ハルトは、天幕の中で目を開けて、まず右手を見た。
指が、握った形のまま、固まっていた。
眠っている間に、何かを掴もうとしていたらしい。左手で、一本ずつ開いていく。小指、薬指、中指。関節が、乾いた枝のように鳴った。
手首の上の灰色は、昨日と同じ場所にあった。
指一本分。
増えてもいないし、減ってもいない。
(戻らない、かもしれない)
リュネの声を思い出した。思い出しただけで、胸の中は、静かなままだった。
天幕を出ると、ゴードンが砦の崩れた石壁の前に座り込んでいた。
膝の上に、ハルトの盾があった。
「借りてるぞ」
ゴードンは顔も上げずに言った。
盾の縁に沿って、細い鉄の帯が巻かれていた。ゴードンが、それを小さな槌で叩いて締めていく。浅瀬で軋んだあたりに、髪の毛ほどの筋が一本、走っていた。
「割れては、いない」
ゴードンは、その筋を親指でなぞった。
「だが、木が疲れてる。おまえが二人分、受けたからな」
「……すみません」
「謝るな。盾は、受けるためにある」
槌の音が、朝の空気に、こん、こん、と響いた。
「これで、もう少しはもつ」
ゴードンは、盾をハルトに返した。
受け取った盾は、前より、ほんの少しだけ重かった。
炊事場の天幕の前を通ると、中から声がかかった。
「ハルト。ちょうどいいところに」
マーサだった。
背中に布を巻いたまま、木箱に腰かけて、鍋をかき混ぜている。立ち上がることは、まだ許されていない。
「これ、薬師の天幕に持っていっておくれ。オットに」
湯気の立つ椀を、差し出された。
ハルトは、椀を受け取って、少しの間、黙った。
「……オット」
「ベルナの子だよ。脚を刺された」
マーサは、鍋から目を離さずに言った。
「あんたの隣で、盾を持ってたんだろう。名前くらい、聞いておやり」
ハルトは、椀を見下ろした。
並んで泥を掻いた。並んで盾を構えた。二人分の重さを、一枚の盾で受けた。
その間、一度も、名前を聞かなかった。
薬師の天幕は、薬草と血の匂いがした。
一番奥の寝台に、ベルナの若者が横たわっていた。太腿に巻かれた布が、まだ赤い。顔色は、浅瀬の時よりはましだった。
「……盾の」
若者は、ハルトに気づいて、首だけを持ち上げた。
「マーサさんから。粥です」
ハルトは、寝台の脇に膝をついた。
それから、言った。
「名前、聞いてなかった」
若者は、きょとんとした。
それから、少しだけ笑った。痛みで顔が引きつった。
「オット」
「ハルト」
「知ってる。みんな、知ってる」
オットは、椀を受け取って、一口すすった。
「ベルナの、港の荷揚げで働いてた。紋はない。ずっと、なかった。力仕事しか、できることがなかった」
匙が止まった。
「あの夜、家が焼けた。母さんと妹は、南の親戚のとこへ行った。俺は、行かなかった」
「どうして」
「わかんねえ」
オットは、天幕の天井を見た。
「逃げてる時、西門の橋の上で、盾を構えて、人を通してるやつらが見えたんだ。遠くて、顔は見えなかった。……それで、なんか、足が止まった」
ハルトは、何も言わなかった。
「だから、おまえが、火、出ないって言った時」
オットは、もう一口、粥をすすった。
「ちょっとだけ、嬉しかったんだ。悪いけど」
天幕の入口が、大きな影で塞がった。
「お、起きてるな」
稽古で組んだ、大柄な若者だった。両手に、何かを抱えている。
「ロブだ。そういや、名乗ってなかったな」
ロブは、抱えていたものを、オットの寝台の脇に下ろした。干した林檎だった。皺だらけで小さい。
「去年の秋、うちの村で採れたやつ。最後の一袋」
「おまえの村の林檎、酸っぱいって言ってたじゃねえか」
「酸っぱいよ。でも、怪我人には、酸っぱいほうがいいって、母ちゃんが言ってた」
ロブは、どかりと地面に座った。
「村は、ここから北に三日。親父と母ちゃんと、弟が四人。去年、帝国の取り立てで、麦をほとんど持ってかれた。だから俺が、ここで稼いで、仕送りしてる」
ロブは、林檎を一つ齧った。顔をしかめた。
「本当に酸っぱいな」
オットが、笑って、また顔を引きつらせた。
「秋になったらさ」
ロブが言った。
「うちの村の収穫祭、来いよ。二人とも。林檎の酒が出る。こっちは、甘い」
天幕の入口で、小さな音がした。
ユノだった。替えの布を抱えて、立ち止まっていた。
ハルトが振り返ると、ユノは、すぐに笑った。
許しを求めるような、あの笑い方だった。
「……布、持ってきたの。リュネが、替えるって」
ユノは、寝台の脇に布を置いた。ハルトの顔を、一度だけ見た。
何か言いかけて、口を閉じた。
「ユノ?」
「ううん。なんでもない」
ユノは、そのまま天幕を出ていった。
(今の顔)
前にも、見たことがある気がした。
どこで見たのかは、わからなかった。
奥の仕切りの向こうで、リュネが薬を煎じていた。
ハルトが仕切りをくぐると、リュネは何も言わずに手を出した。ハルトは、右手を差し出した。
リュネは、細い針を取り出して、灰色の斑のすぐ外側を軽く突いた。
「これは」
「わかる」
斑の真ん中を突いた。
「これは」
「……少しだけ。押されてる、くらい」
リュネは、手帳に何かを書きつけた。
それから、もう一度、斑の真ん中を突いた。今度は、さっきより強く。
針の先に、小さな血の玉が浮いた。
ハルトは、それを見て初めて、突かれたのだと知った。
リュネの炭筆が止まった。
「……あんたね」
リュネは、手帳を閉じた。
「次に盾で二人分受ける時は、先に私に言いなさい。止めないから。止めないけど、知っておきたいの。どこまで行ったか」
「……わかった」
「わかってない顔」
リュネは、ハルトの手の血を布で拭った。
その手つきは、乱暴なのに、丁寧だった。
補給の天幕で、ハルトは布の再支給を頼んだ。
ノエラは、帳面から顔を上げずに、棚から橙と藍の布を一本取った。
「前の布は」
「剣を、手に縛るのに使いました。切ってもらって、もう、ないです」
ノエラの炭筆が、帳面の上を走った。
布、一。再支給。
それから、少し間を置いて、横に小さく書き足した。
用途、剣を手に縛る。
ハルトは、それを読めてしまった。
「……そこまで、書くんですか」
「書きます」
ノエラは、布をハルトの手に載せた。
「布が、何に使われて、なくなったのか。それを書かないと、次に何本要るのか、数えられません」
平らな声だった。
けれど、布を渡す指が、ほんの少しだけ、ハルトの手のひらに長く留まった。
「上流の岩」
ノエラは、帳面に目を戻した。
「三つ、と言ったのは、あなたでした」
「数えただけです」
「はい。数えただけです」
ノエラは、それ以上何も言わなかった。
天幕を出る時、背中で、炭筆の音が一度だけ止まって、また動き出した。
布は、自分で巻いた。
天幕の陰で、左の二の腕に回して、右手で端を摘まもうとした。
指が、布を掴めなかった。
二度、三度。布の端が、灰色の指の間から、すり抜けていく。
前は、三度目で結べた。
今日は、五度目でも、結べなかった。
ハルトは、歯で布の端を噛んで、引いた。
左手と歯だけで、結び目を作った。
前よりも、もっと不格好な結び目だった。
夕方、ハルトは、新兵の組の天幕を探した。
片目の古参兵は、天幕の外で、槍の穂先を研いでいた。
「隊長」
古参兵の手が止まった。
「それは、やめろ」
「え」
「隊長は、浅瀬の上にいるやつが名乗るもんだ。俺は、新兵の組を見てるだけの古株だ」
古参兵は、また砥石を動かし始めた。
「ベックだ」
「……ベックさん」
「さんも、いらん」
砥石の音が、しばらく続いた。
ハルトは、古参兵の左の目を見た。瞼の上から頬にかけて、古い傷が、引き攣れて走っている。目は、開かない。
ベックは、ハルトの視線に気づいていた。
「去年の秋だ。北の砦」
それだけ言った。
ハルトは、それ以上、聞かなかった。
去年の秋、北の砦。旗団が大敗した戦いだと、ヤンから聞いていた。ノエラが、その責めを負わされたことも。
「浅瀬では」
ベックが言った。
「おまえが言い出さなかったら、俺は引いていた。命令どおりにな。それで、砦の裏で、何人死んだか、わからん」
穂先を夕日にかざす。
「だが、次は、言い出す前に、俺に言え。先頭に立つのは、おまえ一人じゃない」
「……はい」
「それと、オットの脚は、たぶん、元には戻らん」
砥石が止まった。
「あいつには、まだ言うな。自分で気づく」
ハルトは、頷いた。
頷くことしか、できなかった。
砦の門のほうへ歩いていくと、投石の男がいた。
荷を背負っていた。焼け焦げた前掛けは、もう着けていなかった。
男は、ハルトを見て、足を止めた。
ハルトも、止まった。
「昼に、ベルナから商人が来た」
男が言った。
ハルトの顔を、見てはいなかった。
「穀物蔵の瓦礫の下に、地下の扉が見つかったそうだ。……剣を置いた女の騎士が、兵を連れて、毎日掘ってたんだと」
ハルトは、息を止めた。
剣を置いた、女の騎士。
西門で、布に包んだ剣を抱えていた人。
「扉は、まだ開いてない。瓦礫が重くて、もう少しかかるらしい」
男は、背中の荷を背負い直した。
「だから、帰る」
それだけだった。
男は、ハルトの横を通り過ぎようとして、ハルトの肩のあたりで、一度だけ、足を緩めた。
石が当たった、左の肩だった。
「……謝る気は、ない」
男は言った。
「まだ、な」
ハルトは、頷いた。
「はい」
男は、門を出ていった。
街道の先に、その背中が小さくなっていくのを、ハルトは長いこと見ていた。
(扉の向こうに)
内側から叩く音を、ハルトは覚えていた。燃える梁の下で、何度も、何度も。
扉が開いた時に、何が出てくるのか。
誰にも、まだ、わからなかった。
日が沈む頃、ヤンが、見慣れない男を連れて、門をくぐってきた。
黒い帝国の外套。手には、白い布を結んだ棒。
砦の中がざわめいた。兵たちが槍を手に集まり、焚き火の輪から、子供たちがマーサの天幕へ引っ張り込まれていく。
「帝国の使者です」
ヤンが言った。
「渡し場の対岸で、白旗を振っていました。渡し守の爺さんが、舟で渡しました。武器は、預かっています」
レオニスが、焚き火の前から立ち上がった。
使者は、レオニスの前に進み出て、膝をつき、封をした書状を差し出した。
レオニスは、封を切って、読んだ。
読み終えて、もう一度、頭から読んだ。
「捕虜の交換だ」
レオニスが、集まった兵たちに聞こえるように言った。
「浅瀬の十四人と、帝都の牢にいる、去年の秋のうちの連中を。場所は、渡し場。水が引いた日の、昼」
兵たちの中から、低い声が上がった。去年の秋。北の砦。誰かの名前を呼ぶ声が、いくつも混じっていた。
ハルトの隣で、ベックが、片方だけの目を閉じた。
「それから」
レオニスは、書状の最後の一行を指でなぞった。
「交換には、将軍ガルドが自ら立ち会う。旗の主にも、来てもらいたい、だとさ」
焚き火がぱちりと爆ぜた。
誰も、口を開かなかった。
ハルトは、レオニスの手を見た。
書状を持つ手ではなく、もう片方の手を。
その手は、背中の双剣の柄に、触れてはいなかった。
ただ、何かを握りしめるように、固く閉じられていた。
「会おう」
レオニスは、笑った。
いつもの、軽い笑い方だった。
「将軍閣下の顔を、一度、拝んでおきたい」
それから、焚き火の輪を、ぐるりと見回した。
その目が、ハルトのところで止まった。
「ハルト」
「はい」
「おまえも来い。その盾を持ってな」
ハルトは、左腕の盾に触れた。
ゴードンが巻いた鉄の帯が、指先に冷たかった。
その冷たさが、どこまで本当に冷たいのか、もう、ハルトにはよくわからなかった




