第36話 対岸
--- ゼノビア視点 ---
三十一。
ゼノビアは、帳簿の欄に、その数字を書き入れた。
浅瀬の渡河に投入した兵、百二十。対岸に取りついた者のうち、捕らえられた者、推定十四。川に呑まれ、遺体の上がった者、二十三。上がらなかった者、八。合わせて三十一。
負傷者は、まだ数え終えていない。
天幕の外では、夜明けから続く雨が布を叩いていた。川の水かさは、昨日よりさらに増している。もう、あの三つの岩は、どの時刻にも顔を出さないだろう。
ゼノビアは、ペンを置いて、白い手袋の指先で、卓上の地図をなぞった。
渡し場の正面に、組み上げた舟を並べた。見せるための舟だった。反乱軍の本隊は、予想どおりそこへ集まった。その間に、上流の浅瀬から百二十を渡し、手薄になった砦の背後を突く。
雪解けの川は、昼に満ち、夜明け前に引く。
この地方の古い水利の記録から拾った知識だった。帝都の軍学の教本には載っていない。
策は、正しかった。
少なくとも、昨日の夜明けまでは。
ゼノビアは、地図の上流の曲がり目に指を止めた。
崖と川の間の細道。浅瀬を渡りきった兵が、必ず通る場所。
そこに、見張りが置かれていた。
生き残りの兵の証言は、どれも似通っていた。
角笛が鳴った。見張りは、十人ほど。装備は粗末で、動きは新兵のそれだった。
そこまでは、ゼノビアの想定の内にあった。反乱軍の盟主は、慎重な男ではないが愚かでもない。浅瀬に見張りくらいは置くだろう。
想定と違ったのは、その後だった。
見張りは、逃げなかった。
角笛を吹いたら引く。それが見張りの仕事であり、新兵ならなおさら、そう命じられているはずだった。
彼らは、細道の出口に留まった。
一度に二人しか通れない幅で、盾を並べ、上陸の一瞬を狙って突き落とし、水が戻るまでひたすら耐えた。
「盾を持った小僧が、一番前に立っていました」
肩に矢を受けた兵が、そう言った。
「火も、雷も、何も使わなかった。紋章を持っていないように見えました。ただ、受けて、押し返して、……待つんです。こっちが崩れる瞬間を」
「待つ」
「はい。気味が悪いくらい、焦らない奴でした。最後は、剣を布で手に縛りつけていました」
ゼノビアは、その証言を、帳簿の余白に書き留めた。
紋章を持たない新兵が、見張りの命令を超えて踏み留まり、水位の変化を待った。
偶然とは考えにくい。
あの浅瀬を読んだ者がいる。
そして、読んだ者の言葉を信じて、現場に立った者がいる。
反乱軍には、軍師がいないと聞いていた。去年の秋、北の砦で大敗を喫してから、まともな策を立てる者はいなくなった、と。
情報が古いのか。
それとも、軍師ではない誰かが読んだのか。
ゼノビアは、帳簿を閉じた。
どちらにせよ、一つだけ確かなことがある。
この川の向こうには、自分と同じ記録を読む目を持つ者がいる。
天幕の布が、外からめくられた。
雨の匂いと一緒に、大きな影が入ってきた。
「まだ数えているのか」
低い声だった。
ガルド将軍は、濡れた外套を脱ぎもせずに、卓の向かいに腰を下ろした。
五十を少し過ぎた男だった。岩を削り出したような体躯に、白いものの混じった黒髪を短く刈り込んでいる。左の頬から顎にかけて、古い刀傷が一本、走っていた。腰には、飾り気のない長剣が一本だけ。帝国の将軍の中で、宝石の一つもついていない剣を佩いているのは、この人だけだった。
「三十一です」
ゼノビアは言った。
「私の策で、三十一が死にました」
ガルドは、何も言わなかった。
卓の上の帳簿を、黙って引き寄せ、ゼノビアが書いた数字を指でなぞった。
太い指だった。剣だこで節が歪んでいる。
「数えたなら、覚えておけ」
ガルドは言った。
「忘れるために数える者がいる。覚えるために数える者もいる。おまえは、後のほうでいろ」
ゼノビアは、頷いた。
この人の下に来て、六年になる。
平民の出で、後ろ盾もなく、士官学校を出ても誰にも拾われなかった自分を、実力だけを見て取り立てたのがこの人だった。
それから六年、ガルドは一度も、ゼノビアの策の失敗を責めなかった。代わりに、必ず死者の数を聞いた。
「撤収する」
ガルドが言った。
ゼノビアは、顔を上げた。
「渡し場を押さえよという命令は」
「押さえる意味がなくなった。川がこの水かさでは、こちらからも渡れん。夏になれば、もっと増える。あの砦の連中を叩くために、これ以上、兵を川に沈める理由はない」
「帝都は、納得しないでしょう」
「させる」
短い答えだった。
ゼノビアは、それ以上言わなかった。
帝都の改革派は、紋章を使って反乱の芽を根こそぎ摘めと言う。ガルドは、それに頷いたことがない。紋章は持つことに意味があり、使うべきではない。そう考える人だった。
けれど、表立って逆らうこともなかった。
命令には従う。ただし、最小限に。
この遠征も、そうだった。ガルドは帝都の命令どおり渡し場まで兵を進め、ゼノビアに策を立てさせた。そして策が破れた今、ためらいなく兵を引こうとしている。
なぜ、この人は、ここまでして命令の形だけを守るのか。
ゼノビアには、時々、分からなかった。
何かを、守っているのだろうとは思う。
それが何なのかを、ガルドは一度も口にしたことがない。
「一つ、聞いてもよろしいですか」
ゼノビアは言った。
「北の街道の野営地で、将軍は、あの若者に会われました」
ガルドの指が、帳簿の上で止まった。
二週間ほど前のことだ。ベルナの襲撃の直後、北の街道に野営していた隊長が、一人の若者を連れてきた。銀灰色の髪の、大剣を背負った若者。金色の光で、狼の群れを串刺しにしたという。
ガルドは、その若者と、一晩中、天幕で話し込んでいた。
何を話したのか、ゼノビアは知らない。
翌朝、ガルドは若者を、自分の館のある東の砦へ送った。連れていた少女と一緒に。少女の世話は、娘のイゾルデに任せた。
それきり、ガルドは若者のことを、一言も口にしていない。
「あの若者を、どうなさるおつもりですか。帝都の改革派は、あの力を欲しがります。いずれ、知られます」
「知られるだろうな」
ガルドは、天幕の布越しに、雨の音を聞いているようだった。
「あいつは、自分の代償が誰にも流れないようにする方法を探している、と言った」
ゼノビアは、眉を寄せた。
「代償を、他人に回すのではなく」
「逆だ。誰にも回さず、全部、自分一人で払う方法を探している」
ガルドは、短く息を吐いた。
それは、笑ったようにも、溜め息のようにも聞こえた。
「全部を一人で持とうとする奴は、いずれ、持っているものに押し潰される。そういう奴を、一人、よく知っている」
誰のことかは、言わなかった。
ゼノビアは、ガルドの横顔を見た。
古い刀傷が、灯りの下で、深い影を作っていた。
この人が、誰かのことをこんな声で話すのを、ゼノビアは初めて聞いた。
雨が少し弱まった。
天幕の外で、撤収の支度をする兵たちの声がし始めた。
ガルドは立ち上がり、外套の雨を払った。
「捕らえられた十四人は、どうなさいますか」
ゼノビアが聞いた。
「反乱軍は、捕虜を殺さないと聞いています。ですが、こちらが引けば、取り返す手立てはありません」
ガルドは、天幕の布をめくった。
雨の向こうに、増水した川が、灰色にうねっていた。その先の、見えない上流のどこかに、反乱軍の砦がある。
「使者を出せ」
ガルドは言った。
「捕虜の交換を申し入れる。こちらにも、去年の秋に捕らえた反乱軍の兵が、帝都の牢に何人か残っているはずだ」
「交換の場所は」
「この渡し場でいい。水が引いた日の、昼に」
ガルドは、少しの間、川を見ていた。
「それから、こう伝えろ。交換には、将軍ガルドが自ら立ち会う。……旗の主にも、来てもらいたい、と」
ゼノビアは、ペンを取りかけた手を止めた。
「将軍。反乱軍の盟主に、会われるのですか」
「浅瀬に新兵を残した男だ」
ガルドは振り返らなかった。
「残れと命じたのか、残る者を止めなかったのか。どちらにせよ、そういう兵を持っている男の顔を、一度、見ておきたい」
天幕の布が、ガルドの背中で閉じた。
ゼノビアは、一人、卓の前に残された。
帳簿を開く。
三十一、と書いた欄の隣に、小さく書き足した。
盾の少年。
それから、少し考えて、もう一行。
浅瀬を読んだ者。
二つの言葉を、ゼノビアは、長いこと見つめていた。
雨は、まだ止まなかった。




