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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第二章 暁の旗

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第35話 浅瀬

角笛が鳴った。

低く、長く、靄を裂いて川面を渡っていく。

ヤンの頬が、真っ赤に膨らんでいた。一度、二度、三度。砦の本隊へ、異変を告げる合図だった。

対岸の影たちが、一斉に動きを止めた。

それから、一斉にこちらを向いた。

もう、音を殺す理由はなくなったのだ。

金属の擦れる音が、川面いっぱいに広がった。覆いを剥ぎ取られた鎧が、白み始めた空の下で鈍く光る。

「下がるぞ」

片目の古参兵が、低く言った。

「知らせた。仕事は終わった。砦まで引く」

新兵たちが、茂みの中で腰を浮かせた。

ハルトも、立ち上がりかけた。

その時、足元の細道が目に入った。

崖と川の間を縫う、人ひとりがやっと通れるほどの道。浅瀬を渡りきった者は、この道を登るしかない。登りきった先には、砦の裏手がある。

裏手には、炊事場の天幕がある。

マーサが、芋の皮を剥いている天幕が。子供たちが寝ている幕舎が。

「隊長」

ハルトは、古参兵を呼んだ。

「本隊は、渡し場にいます。ここからは半日の距離です。今から知らせが届いても、戻ってくるのは昼過ぎです」

古参兵の片目が、ハルトを見た。

「この道を空けたら、あいつらは、本隊よりずっと先に砦の裏に着きます。砦に残ってるのは、怪我人と、年寄りと、子供だけです」

渡し場の舟は、囮だった。本隊を砦から引き離すための。ノエラの言葉が、今になって、別の重さで耳に戻ってきた。

「……新兵十人で、何ができる」

「この道なら、一度に通れるのは二人です」

ハルトは、盾を左腕に通した。

「十人じゃなくて、二人ずつ相手にすればいい。それに」

ハルトは、川を見た。

三つの岩が、靄の中に並んでいる。

「日が昇ったら、水がまた増えます。岩が沈んだら、あいつらは渡れなくなる。それまで、ここで待てば」

古参兵は、しばらく黙っていた。

先頭の影が、二つ目の岩に飛び移った。

「……盾持ち、前へ」

古参兵が言った。

「槍は盾の後ろ。弓は崖の上だ。斥候、おまえもだ」

「はい!」

ヤンが、崖の岩肌に取りつく。

「新兵」

古参兵がハルトを見た。

「言い出したのはおまえだ。一番前に立て」


細道の出口に、ハルトは立った。

右に崖。左に川。足元は、濡れた石と泥。

隣に、盾を構えたもう一人が並んだ。ベルナから来た若者だった。堀の泥掻きの時、黙ってハルトの隣にいた若者。

「……おまえ、本当に、火、出ないのか」

若者が、震える声で言った。

「出ない」

「そっか」

若者は、盾の持ち手を握り直した。

「じゃあ、俺と同じだな」

ハルトは、少しだけ若者を見た。

その時、先頭の帝国兵が、三つ目の岩を蹴って、こちらの岸に跳んだ。


着地の瞬間だった。

濡れた石の上で、帝国兵の足が、ほんの一瞬だけ滑った。

ハルトは、待たなかった。

いや、待っていた。その一瞬だけを。

盾の縁を、相手の胸当てに叩きつける。体勢の崩れた体は、驚くほど軽く、後ろへ傾いた。

背中から、川へ落ちる。

水柱が上がった。

二人目が、岩の上で踏みとどまる。槍を構えて、こちらへ跳ぶ機を窺っている。

「今だ、槍!」

古参兵の声と同時に、ハルトの後ろから、二本の槍が突き出された。

岩の上の帝国兵が、槍を払おうとして、足を踏み外した。

崖の上から、ヤンの矢が飛ぶ。三人目の肩に突き立った。

(いける)

そう思ったのは、ほんの短い間だけだった。

帝国兵たちは、すぐにやり方を変えた。

一人ずつ跳ぶのをやめた。岩の上に三人、四人と固まり、盾を前に並べて、じりじりと岸に寄ってくる。後ろから、腰まで水に浸かった兵が、次々と押し寄せる。

鉄の盾の壁が、細道の出口に、のしかかってきた。

ハルトは、それを、自分の盾で受けた。

衝撃が、腕から肩、背骨まで、まっすぐ突き抜けた。

足が、泥の中を、ずるりと後ろに滑る。

隣で、ベルナの若者が、歯を食いしばって押し返していた。

二枚の盾が、鉄の壁を押し留める。その隙間から、帝国兵の剣が突き出される。ハルトの頬を、冷たいものが掠めた。

後ろの槍が、壁の隙間を突く。悲鳴。誰かが川に落ちる音。

押される。押し返す。押される。

時間の感覚がなくなった。


右手が冷えていった。

剣を握る指の奥から、氷を流し込まれたような冷たさが、じわじわと這い上がってくる。昨日の稽古の比ではなかった。指が、柄に貼りついたまま、自分のものではなくなっていく。

剣を振った。

手首が、ついてこなかった。刃がぶれた。

相手の剣を受け損ねて、二の腕に熱い線が走った。

痛みは、遠い。

けれど、剣が、指の間から抜けかけた。

(落とす)

ハルトは、盾を構えたまま、左手で右の二の腕を探った。

指先に布が触れた。

橙と藍の、旗の布。昨日の朝、自分で結んだ、不格好な結び目。

ハルトは、それを歯で噛んで、引きほどいた。

布を、剣の柄ごと、右手に巻きつける。何重にも。固まった指の上から、柄が抜けないように。

最後の結び目は、また歯で噛んで、引いた。

不格好な結び目だった。

けれど、剣は、もう落ちなかった。


空の色が、変わり始めていた。

灰色から、薄い橙へ。

川面の靄が、少しずつ晴れていく。

その時、ベルナの若者が低く呻いた。

盾の下から、槍の穂先が、若者の太腿に突き刺さっていた。

若者の膝が折れた。

盾が傾いた。

鉄の壁が、その隙間に雪崩れ込もうとする。

「――っ!」

ハルトは、自分の盾を、若者の前に横から差し込んだ。

二人分の重さが、一枚の盾にのしかかった。

左腕の骨が軋む音がした。ゴードンの古い盾が、悲鳴のように鳴った。

それでも、割れなかった。

受けて、崩して、繋げ。

繋ぐ相手は、後ろにいた。

「槍!」

ハルトが叫んだ。

ハルトの盾の縁が、鉄の壁の一枚を、ほんのわずかに外へずらした。その隙間に、後ろから大柄な若者の槍が、まっすぐ突き込まれた。

壁が崩れた。

岸に上がりかけていた帝国兵が、仲間ごと、後ろの水の中へ押し戻される。

その時、崖の上でヤンが叫んだ。

「岩が――岩が、沈みます!」

ハルトは、川を見た。

三つ並んでいた岩の頭が、一つ、濁った水に呑まれた。

日が昇っていた。

雪解けの水が、上流から、ゆっくりと、けれど確実に戻ってきていた。


帝国兵たちの動きが、変わった。

岸に取りつこうとしていた者たちが、後ろを振り返る。二つ目の岩も、もう、足首まで水に浸かっている。

対岸から、鋭い笛の音が聞こえた。

退却の合図だった。

帝国兵たちが、一斉に水の中へ引き返していく。

けれど、川の真ん中にいた者たちは、もう遅かった。

腰までだった水が、胸に、肩に。重い鎧が、流れに足を取られる。誰かが、仲間の腕を掴もうとして、掴み損ねた。

濁った水が、黒い鎧を、一つ、また一つと、呑み込んでいった。

ハルトは、盾を構えたまま、それを見ていた。

誰も、声を上げなかった。

さっきまで、こちらを殺そうとしていた男たちだった。

それなのに、誰一人、勝ったとは言わなかった。


砦のほうから、足音が近づいてきた。

砦に残っていた兵たちだった。年寄りと、怪我の治りきらない者と、炊事係の男たち。手に手に、槍や鍬を握っている。

先頭に、ゴードンの姿が見えた。角笛を聞いて、残った者を掻き集めてきたのだ。

ゴードンは、細道の出口に立つハルトを見て、足を止めた。

ハルトの盾を見た。

右手に、旗の布で縛りつけられた剣を見た。

何も言わなかった。

ただ、ハルトの肩を強く掴んだ。

「……生きてるな」

それだけだった。

ハルトは、頷こうとして、膝から力が抜けた。

ゴードンの腕が、それを支えた。


日が高くなる頃、浅瀬の岸辺には、水を吐いて座り込んだ帝国兵が十数人いた。逃げ遅れて、岸に取り残された者たちだった。

昼過ぎ、渡し場から本隊が駆け戻ってきた。対岸の舟は、結局、一艘も川に出なかったという。

レオニスは、馬を飛び降りて、浅瀬の岸辺を見渡した。それから、捕虜たちを見た。

レオニスは、彼らを縛らせはしたが殺させなかった。

「捕虜は、同じ鍋だ。量は少し減らすがな」

旗団の兵の何人かが、不満げな顔をした。レオニスは、気にした様子もなかった。

ベルナの若者は、太腿を布できつく縛られ、担架に乗せられていた。顔は真っ白だったが、意識はあった。

担架が運ばれていく前に、若者はハルトのほうへ首を向けた。

「……火、出なくても」

掠れた声だった。

「盾は、あったな」

ハルトは、何も答えられなかった。

ただ、頷いた。


ハルトの右手の布をほどいたのは、リュネだった。

結び目は固く、リュネは小刀で布を切らなければならなかった。

布の下から現れた手を見て、リュネが、小さく息を呑んだ。

灰色の斑が、手首を越えていた。

指一本分ほど、腕のほうへ、這い上がっている。

「……戻らない、かもしれない」

リュネは、手帳を開かなかった。

ただ、ハルトの手を両手で包んだ。

「あんた、ほんとに、ばかよ」

その手は、温かかった。

ハルトの手には、その温かさが、半分しか届かなかった。


夕方、ハルトは、補給の天幕の前を通りかかった。

布が、少しだけ開いていた。

中で、ノエラが帳面に向かっていた。

炭筆が、いくつかの数字を書きつける。

負傷、七。うち重傷、一。

捕虜、十四。

それから、炭筆は、次の欄の上で、長いこと止まっていた。

やがて、ゆっくりと、一つの数字を書いた。

死者。〇。

ノエラは、その数字をじっと見ていた。

炭筆を持つ指が、震えていた。

ハルトは、布の外で、足を止めたまま、声をかけなかった。


その夜更け、渡し場の偵察に出ていたヤンが、馬を飛ばして戻ってきた。

ハルトは、焚き火の傍で、その報告を聞いた。

「対岸の天幕が、増えています。昨日の倍です」

ヤンの顔は、篝火の明かりの中でも、青ざめて見えた。

「真ん中に、ひときわ大きな天幕が張られていました。その前に、旗が一本」

黒地に鉄色の紋章。そこまでは、帝国の旗だった。

「紋章の上に、もう一つ、印が重ねてありました。剣を象った、銀の印です」

レオニスの顔から、笑みが消えた。

「将軍旗か」

「はい」

ヤンの声がかすれた。

「帝国の将軍が、自分で来ています」

焚き火がぱちりと爆ぜた。

レオニスは、背中の双剣の柄に、そっと手を触れた。

ハルトは、その手が、ほんの一瞬だけ止まったのを見た。

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