第34話 数える人
夜が明けると、砦の中は、昨日までとは違う音で満ちていた。
鍛冶場の槌の音。矢羽を削る小刀の音。荷車の車輪が、石畳を何度も往復する音。
誰も、大きな声を出さなかった。
けれど、全員が、同じ方角を気にしていた。川下の、渡し場のほうを。
ハルトの組には、朝一番に、仕事が言い渡された。
「補給の天幕へ、矢束を運べ」
片目の古参兵は、それだけ言って、別の組のほうへ歩いていった。
本隊の天幕では、レオニスと幹部たちが、朝から地図を囲んでいるらしい。新兵が呼ばれることはない。
ハルトは、矢束を二つ、背負子に括りつけた。
右手の指が、まだ少し強張っていた。昨日の稽古で固まった冷たさが、一晩経っても、指の奥に残っている。
「重くないですか」
声をかけられて、振り向いた。
斥候の青年だった。腰に、見覚えのある剣を下げている。
「これ、ゴードンさんの剣です。預かったままになっていたので」
「あ……ありがとうございます。渡しておきます」
青年は、剣をハルトに預けて、少し照れたように頬を掻いた。
「そういえば、名前を言っていませんでしたね。前に会った時も、昨日も」
「……そういえば」
「ヤンです」
青年は、軽く頭を下げた。
「斥候のヤン。盾の人は、ハルトさんでしたね。レオニスさんが、そう呼んでいました」
「ハルトで、いいです」
「じゃあ、俺もヤンで」
ヤンは、そう言って、少しだけ笑った。
渡し場で弓を向けてきた時とは、別人のような顔だった。けれど、目の下の疲れの色は、前に会った時と同じだった。
補給の天幕は、砦の一番奥の、崩れかけた倉の脇にあった。
布をくぐると、紙と、墨と、湿った麻袋の匂いがした。
天幕の中は、薄暗かった。
麦袋が壁際に積まれ、矢束と槍の穂先が、種類ごとに区分けされて並んでいる。几帳面すぎるほど、きっちりと。
その真ん中の、木箱を並べただけの机に、女が一人、座っていた。
二十代の半ばくらいだろうか。濃紺に近い黒髪を、肩の上で真っ直ぐに切り揃えている。目の下に薄い隈があった。
着ているのは、古い軍用の外套だった。上等な仕立てだったのだろうが、袖口は擦り切れ、インクの染みがいくつも散っている。肩のあたりに、何かを縫いつけてあったのを、無理に剥がしたような糸の跡が残っていた。
女は、顔を上げなかった。
炭筆を指の間で回しながら、帳面に何かを書きつけている。
「矢束を、持ってきました」
ハルトが言うと、女は、炭筆の先で天幕の隅を指した。
「そこ。二十本ずつの束なら左、三十本なら右」
声は、低くて平らだった。
ハルトは、背負子の矢束を数えて、左に置いた。
女の帳面が、ちらりと見えた。
びっしりと、数字が並んでいた。矢の本数。麦の袋数。槍の数。人の数。
その横に、川の形を描いた、小さな図があった。
渡し場の入り江。その上流の、川が大きく曲がるあたりに、丸が三つ、描き込まれている。
「……それ、川ですか」
女の炭筆が止まった。
初めて、顔を上げた。
灰色がかった、静かな目だった。何かを測るような目。けれど、人を見ているというより、人の向こうにある何かを数えているような。
「新兵ね。昨日入った」
「はい」
「火が出なくなった子」
ハルトは、少し驚いた。
「どうして」
「稽古の報告が来るの。ここには、全部来る。誰が何本矢を使って、誰が何日分の麦を食べて、誰が何人分の働きをするか」
女は、帳面の端を炭筆で叩いた。
「新兵の組、十人。戦えるのは四人。あなたは、紋がないなら、半人分」
平らな声だった。
意地悪で言っているのではないと、ハルトにはわかった。この人は、ただ数えているのだ。
「……俺は、一人です」
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
女の目がわずかに動いた。
「半分の人間は、いないです。火がなくても、俺は一人分、そこに立ちます」
天幕の中が静かになった。
女は、しばらくハルトを見ていた。
それから、ふっと目を逸らして、帳面に視線を落とした。
「……そうね」
炭筆が、一つの数字を消して、別の数字を書いた。
「ごめんなさい。悪い癖なの」
その声は、さっきより、ほんの少しだけ、低かった。
天幕を出ると、ヤンが、倉の陰で待っていた。
「会いましたか。ノエラさんに」
「ノエラ、さん」
「補給係の。……前は、そうじゃなかったんですけどね」
ヤンは、言いにくそうに目を伏せた。
「去年の秋、旗団は一度、大きく負けているんです。北の、別の砦で。その時の策を立てたのが、あの人でした」
ハルトは、天幕を振り返った。
「半分近くが、帰ってこなかった。俺の組の先輩も、何人か」
「……」
「それで、軍師から外されて、ずっと補給係です。幹部の中には、あの人の顔を見るのも嫌だって人もいます。でも、レオニスさんは、外さなかった。追い出しもしなかった」
ヤンは、小さく息を吐いた。
「誰も切り捨てない。うちの盟主は、そういう人なので」
昼過ぎ、ハルトの組は、川沿いの崖下で、柵用の杭を打つ仕事に回された。
砦から少し上流。川が大きく曲がって、流れが緩くなるあたりだった。
対岸は、ここからでは遠い。渡し場の向こうに立ったという帝国の旗も、木立に隠れて見えなかった。
ハルトは、杭を支えながら、川面を見ていた。
流れは濁って、速かった。雪解けの水だと、組の誰かが言っていた。北の山から、毎年この季節に下りてくる。
川の真ん中あたりに、岩が一つだけ、頭を出していた。
ハルトは、首を傾げた。
(三つ、あったよな)
昨日の夜明け前。レオニスに答えを言いに行く前に、ハルトは、砦の裏の水場へ降りた。あの時、靄の向こうの川面に、黒い岩の頭が、三つ並んで見えた気がする。
今朝も、そうだった。水汲みに降りた時、岩は三つ、並んでいた。
けれど、今は、一つしかない。
「おい、ちゃんと支えろ」
杭を打っていた大柄な若者が、ハルトを睨んだ。
「ごめん」
ハルトは、杭を握り直した。
右手の冷たさが、また少し、指の奥で疼いた。
夕方、ハルトは、ゴードンの剣を返しそびれていたことに気づいて、補給の天幕へ預けに行った。
ノエラは、まだ帳面に向かっていた。
机の上の灯りが、昼間より増えている。帳面の横に、川の図を大きく描き直した紙が広げられていた。
上流の曲がり目に、丸が三つ。その横に、細かい字で、数字がいくつも書き込まれている。
ハルトは、剣を置いて、その図を見た。
「その丸、岩ですか」
ノエラが顔を上げた。
「浅瀬。昔の地図に残っていたの。でも、使えない。この季節は、水が深すぎる。昨日、測らせたけれど、大人の背丈より深かった」
「何時ごろ、測ったんですか」
「……昼過ぎだけれど」
ハルトは、図の三つの丸を指でなぞった。
「朝は、岩が三つ見えました。昨日の夜明け前も、今朝も。でも、昼に見たら、一つしかなかった」
ノエラの炭筆が止まった。
「村の川も、そうだったんです。雪解けの時期は、昼過ぎに水が増えて、夜の間に引く。孤児院の裏の川で、毎年、春になると飛び石が出たり沈んだりして。カインが……」
そこまで言って、ハルトは口をつぐんだ。
飛び石で転んで、背負われた日のことを思い出しかけた。
ノエラは、もうハルトを見ていなかった。
図を見ていた。
炭筆が、猛烈な速さで動き始めた。数字が消され、書き直され、矢印が一本、対岸から三つの丸へ引かれた。
「夜明け前……一番水が引くのは、夜明けの少し前」
独り言だった。
「対岸の天幕は、渡し場の真正面に並んでいる。舟も、見えるところで組んでいる。見せている。見せているなら、そこからは来ない」
ノエラは、顔を上げた。
その目が、昼間とは違っていた。何かを数えている目ではなかった。
燃えていた。
「あなた、名前は」
「ハルト、です」
「ハルト」
ノエラは、立ち上がった。外套の裾が、机の角に引っかかって、帳面が床に落ちた。拾いもしなかった。
「一緒に来て。盟主に話す」
本隊の天幕では、ちょうど軍議が終わるところだった。
地図を囲んでいた幹部たちが、ノエラの顔を見た途端、空気が冷えた。
「補給係が、何の用だ」
髭の濃い、年かさの幹部が言った。
「上流の浅瀬から来ます」
ノエラは、前置きもなく言った。
「渡し場の舟は囮です。夜明け前、水が引いた時に、上流の三つの岩を足がかりに渡ってくる。本隊を渡し場に集めれば、背後を突かれます」
「浅瀬は使えんと、昨日測ったばかりだろう」
「昼に測りました。雪解けの川は、夜に水が引きます」
「誰が言った」
ノエラは、ハルトを見た。
天幕の中の視線が、一斉にハルトに集まった。
「……新兵か」
年かさの幹部が、鼻で笑った。
「火も出ない新兵の目と、去年の秋に旗団の半分を死なせた軍師の頭か。ずいぶん頼もしい組み合わせだな」
ノエラの肩が、わずかに強張った。
けれど、引かなかった。
「今朝と昼の岩の数は、誰でも確かめられます」
ハルトは、その横顔を見ていた。
握りしめた拳が、外套の袖の中で白くなっていた。
レオニスは、ずっと黙っていた。
人の話を聞く時の、静かな目だった。
やがて、口を開いた。
「本隊は、渡し場で迎える」
ノエラの唇が、きつく結ばれた。
「舟が見えている以上、そっちを空けるわけにはいかない。これは変えない」
レオニスは、地図の上の、上流の曲がり目を指で叩いた。
「ただし、上流にも見張りを置く。……新兵の組を回す」
「盟主、新兵では」
年かさの幹部が言いかけるのを、レオニスは手で制した。
「何もなければ、新兵が一晩、寒い思いをするだけだ。何かあれば」
レオニスは、ハルトを見た。
「稽古の二本目みたいに、待てるか?」
ハルトは、息を呑んだ。
崩して、待つ。昨日の中庭で、ようやく掴みかけた形だった。
「……はい」
「ヤンをつける。何か見えたら、すぐに知らせろ。戦うな。知らせるのが仕事だ」
夜更け、ハルトの組は、上流の崖下の茂みに伏せていた。
十人。槍と、盾と、合図の角笛が一本。
川の音が、昼間より低く聞こえた。
隣で、ヤンが、弓を膝に載せて、じっと対岸を見ていた。反対側では、大柄な若者が、歯を鳴らさないように顎を押さえている。
ハルトは、盾の持ち手を握っていた。
右手の指が冷えて痛んだ。
空が、ほんのわずかに白み始めた。
川面を靄が這っている。
その靄の切れ間に、黒い岩の頭が一つ見えた。
二つ。
三つ。
水が引いていく。
ハルトは、息を止めた。
対岸の木立が揺れた。
風ではなかった。
靄の向こうで、黒い影が、一つ、二つと、水際に降りてくる。
鎧の擦れる音は、しなかった。音を殺すために、何かで覆っているのだ。
影は、十を超えた。
二十を超えた。
数えきれなくなった。
ヤンが、角笛に手を伸ばした。
その指が震えていた。
「……ハルト」
ヤンが囁いた。
「ノエラさんの言ったとおりです」
先頭の影が、一つ目の岩に足をかけた。




