第33話 剣を置く
--- セラ視点 ---
鎮魂の鐘が一つ鳴った。
セラは、崩れた石壁の影に座ったまま、その音を数えた。
一つ。
ベルナの鐘楼は焼け落ちた。今鳴っているのは、西門の物見台に吊るした、小さな警鐘だ。本来は敵襲を告げるための鐘を、死者のために一つだけ打つ。そう命じたのは、セラ自身だった。
膝の上に、鞘に収めた長剣を載せている。
左手が、柄を握ったまま震えていた。
止めようとして、右手で手首を押さえる。震えは、右手ごと伝わってきた。
あの夜から、止まらなくなった。
以前は、剣を抜けば止まった。構えれば、刃の先まで静かになった。だから、誰にも気づかれずに済んでいた。
今は、抜いても止まらないだろう。
それを確かめるのが怖くて、セラは三日間、一度も剣を抜いていなかった。
夕日の中を、少年が一人、こちらへ歩いてくるのが見えた。
盾の少年だった。ハルト。三日眠り続けていたと聞いた。目を覚ましたのだ。
少年は、セラに気づいて、足を止めた。
何か言いたそうな顔をして、それから、何も言わずに立ち去った。
セラは、それでいいと思った。
声をかけられても、返す言葉を持っていなかった。
翌朝、避難所の中央に張られた大天幕に、評議会が集まった。
町長。商人組合長。穀物商。三人とも、焼け出された住民と同じ幕舎で寝起きしているはずなのに、衣服には煤一つついていなかった。
天幕の外には、住民が押し寄せていた。布越しに、ざわめきが聞こえる。
セラは、天幕の中央に立たされた。
「守備隊を預かる騎士として、説明を求める」
町長が言った。
「北東の城壁が破られた。修繕中の区画だ。なぜ、あの区画の守りが手薄だったのか」
セラは、まっすぐ前を見た。
「北門の増員は、十名と決まりました。修繕区画に回せる兵は、残っていませんでした」
「十名と決めたのは、君の報告を受けた上でのことだ。足りぬなら、なぜそう言わなかった」
言った。
この評議会で。六日前に。増援の要請と、住民の避難勧告を、文書で。
「爆発騒ぎの塔の娘」の資料と一緒に、嘲笑とともに退けられた。
セラは、口を開きかけた。
「次に、穀物蔵の件だ」
穀物商が言葉をかぶせた。
「三百人を地下に入れたのは、誰の判断だ」
天幕の外のざわめきが、ぴたりと止んだ。
セラは、答えた。
「私です」
それは、本当だった。
避難勧告が退けられた後、セラは、町の中でいちばん堅い建物を探した。石造りで、地下が深く、入口が一つしかない。守りやすい場所。穀物蔵の地下を、避難所に指定した。
入口が一つしかないから、守りやすい。
入口が一つしかないから、塞がれれば終わる。
その両方を、セラは知っていた。知っていて、選んだ。
天幕の外で、誰かが泣き出した。女の声だった。それから、男の怒鳴り声。布が揺れて、押し返す兵の声がする。
「聞いてのとおりだ」
町長が、天幕の外に聞こえるように、声を張った。
「評議会は、守備隊の責任を明らかにする。処分は、追って決める」
セラは、何も言わなかった。
言えば、言い合いになる。言い合いになれば、外にいる人々は、誰を憎めばいいのか分からなくなる。
分からないまま憎むのは、きっと、もっと苦しい。
その夜、穀物商が、一人でセラの幕舎を訪ねてきた。
小柄な男だった。灯りの下で指輪が光った。
「話がある」
男は、勝手に椅子に座った。
「君は、増援の要請文の写しを持っているね」
セラは、答えなかった。
外套の内側に、折り畳んだ紙がある。あの日、評議会に出した要請文の写しだった。原本は、市庁舎と一緒に燃えた。写しは、これ一枚しかない。
「それを表に出せば、評議会は終わる。私も、町長も、組合長も。住民は、我々を憎むだろう」
男は、指輪を回した。
「だが、その後はどうなる。この避難所には、千を超える人がいる。冬までに家を建て直す金も、食い繋ぐ麦も、町の外の私の倉にしかない。評議会が割れれば、倉は開かない。誰が開けと命じるのかで、揉めるだけだ」
セラは、男を見た。
脅しではなかった。
脅しであれば、まだ楽だった。男の言っていることは、ただの事実だった。
「取引をしよう」
男は言った。
「君が責任を負う。守備隊の騎士の判断の誤りで、町は落ちた。そういうことにする。代わりに、私の倉を開ける。避難所の全員が、冬を越せるだけの麦を出す。証文も書こう」
「……私が、黙れば」
「君が、背負えば」
男は、立ち上がった。
「君の得意なことだろう」
天幕の布が揺れて、男は出ていった。
セラは、一人で灯りを見ていた。
外套の内側の紙に、手を当てた。
左手が震えていた。
――あなたも、背負い込むほうですか。
北の森の帰り道で、あの銀灰色の髪の剣士が言った。
静かな声だった。責めるのでも、憐れむのでもなく、ただ、同じ種類の人間を見つけた、というような声。
セラは、あの時、何と答えたのだったか。
覚えていなかった。
あの剣士は、昨日の夜明け前、少女を連れて北の街道へ去ったという。物見台の門番が、そう報告してきた。
背の高い剣士が、少女を背負って歩いていった、と。
町では「帝国兵に連れ去られた」と噂になっている。けれど、門番は、帝国兵の姿など見ていない。
剣士は、少女を背負っていた。
セラは、目を閉じた。
背負ったまま、去る者がいる。
背負ったまま、残る者がいる。
どちらが正しいのか、セラには分からなかった。
ただ、自分には、去るという選択がないことだけは、分かっていた。
三日後、評議会は、処分を言い渡した。
守備隊の騎士の任を解く。
剣と鎧を、評議会に返上すること。
大天幕の前に、住民が集まっていた。セラは、銀の鎧を脱いで、兵に渡した。
それから、腰の長剣に手をかけた。
町長が手を差し出した。
「剣を」
セラは、その手を見た。
煤一つついていない、柔らかな手だった。
「剣は、評議会から授かったものではありません」
自分の声が、驚くほど落ち着いていた。
「この剣は、騎士に叙される前から、私の剣でした。返上する先は、ありません」
町長の眉が動いた。
「では、どうする」
「私が、自分で置きます」
セラは、長剣を鞘ごと腰から外した。
左手が震えた。鞘の先が小さく揺れた。
集まった住民の中に、それに気づいた者がいたかどうか、セラには分からなかった。
剣を置く場所は、決めていた。
西門の、崩れかけた詰所。
襲撃の夜、セラが最後まで指揮を執った場所だった。北門が破られ、市街が燃え、穀物蔵の煙が上がるのを、そこから見ていた。
撤退の合図を出したのも、そこだった。
セラは、長剣を布で包んで、詰所の壁に立てかけた。
手を離す。
震えていた左手が、ふっと軽くなった。
軽くなったことが、たまらなく惨めだった。
剣を置いた翌日から、セラは、穀物蔵の瓦礫を掘り始めた。
兵の何人かが、勝手についてきた。もう命じる立場ではないと言っても、黙って鋤を握った。
焼けた梁は、重かった。
一本動かすのに、大人が六人がかりで半日かかった。
あの夜、あの剣士は、これを一人で持ち上げていたのだ。
セラは、焦げた梁の表面に、手のひらを当てた。
ほかの梁より、深く、指の形に抉れている場所があった。
鋤を握る左手は、震えていた。
けれど、鋤は、剣ほど真っ直ぐでなくても構わなかった。少しくらい刃先がぶれても、土は掘れる。
それが、救いなのか、罰なのか。
セラには、まだ分からなかった。
掘り始めて三日目の朝、大きな男が、驢馬の荷車を曳いて避難所に入ってきた。
外套が裂け、腰の剣の鞘に、乾いた血がこびりついていた。街道に散った魔物の残党を、一人で抜けてきたのだろう。
男は、まっすぐ、背中を怪我した女の幕舎へ向かった。
荷台に、小さな毛布が積まれていた。
セラは、瓦礫の上から、それを見ていた。
あの毛布を掛けるはずだった子供は、もう、ここにいない。
翌朝、セラは、詰所の前に座っていた。
剣は、布に包まれたまま、壁に立てかけてある。毎朝、穀物蔵へ行く前にここに来ていた。剣を見るためではない。剣を置いた自分を、確かめるためだった。
街道のほうから、荷車の軋む音が近づいてきた。
驢馬の荷車。背中を怪我した女が横たわっている。手綱を握る大きな男。栗色の三つ編みの娘と、ローブの小柄な娘。
そして、盾を背負った少年。
ハルトが、セラに気づいて、足を止めた。
セラは、ゆっくりと立ち上がった。
「行くのか」
「はい。暁の旗団を、頼ろうと思います」
「そうか」
渡し場の上流にいるという、反乱軍。ここまで噂が届いていた。夜明けの色の旗。
少年たちは、そこへ行く。帝国と戦う者たちのところへ。
あの銀灰色の髪の剣士が、去っていった方角と、向き合う場所へ。
「君たちを、北門に呼んだのは私だ。評議会にも、連れて行った」
言うつもりのなかった言葉が、口から出た。
「守れると言った。守ると決めていた」
少年は、何も言わずに聞いていた。
その目が、以前と違っていた。素直で、すぐに顔に出る少年だった。今は、何かが遠い。
この少年も、何かを置いてきたのだ、とセラは思った。
包まれた剣に目をやった。
左手が、外套の下で震えていた。
「……私は、残る。ここで、やるべきことがある。剣以外で」
少年は、少しの間、黙っていた。
慰めの言葉を探しているのだろうと、セラは思った。探さなくていい、と言おうとした。
その前に、少年が口を開いた。
「セラさんがいたから、俺たちは、橋まで行けました」
慰めではなかった。
ただ、見たままを言っている声だった。
橋まで。
あの夜、北門から市街を抜け、西門の石橋まで。セラが撤退の合図を出し、辻ごとに兵を残して、逃げ道を守らせた、あの道。
守れなかったものの数は、数えきれない。
けれど、あの道を通って、橋まで辿り着いた者たちがいた。
この少年も、その一人だった。
セラは、何か言おうとした。
声が出なかった。
出せば、崩れると分かっていた。
だから、少年の後ろの大きな男に、黙って頭を下げた。男も、黙って頷き返した。
少年は、背を向けて、歩き出した。
荷車の軋む音が、遠ざかっていく。
セラは、膝から力が抜けて、詰所の石段に座り込んだ。
左手を胸に押し当てた。
震えは、止まらなかった。
けれど、その奥で、ずっと冷えきっていた何かが、ほんのわずかに熱を持っていた。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
足音が駆けてきた。
穀物蔵の瓦礫を一緒に掘っていた、若い兵だった。顔が、煤と汗で黒く汚れている。
「セラ様」
もう、そう呼ばれる立場ではない。そう言おうとして、兵の顔を見て、言葉が止まった。
兵の目が赤かった。
「瓦礫の下に……地下の扉が、見えました」
セラは、立ち上がった。
詰所の壁に立てかけた剣を、一度だけ見た。
それから、剣に背を向けて、穀物蔵へ走った。




