第32話 切り離す
--- カイン視点 ---
ハルトは、二日経っても目を覚まさなかった。
カインは、寝台の脇の椅子に座って、その寝顔を見ていた。
幕舎の中は暗い。吊るした小さな油灯が、天幕の布に、揺れる影を落としている。反対側の椅子では、ユノが、ハルトの寝台に突っ伏して眠っていた。リュネは、幕舎の隅で、毛布にくるまって丸くなっている。
誰も、起きていなかった。
だから、カインは、ハルトの右腕を見ることができた。
毛布の外に出た指先から、手首にかけて。薄い灰色の斑が、油灯の光を鈍く吸っている。
石の色だった。
カインは、自分の右手を見た。
同じ色が、同じ場所に残っていた。指の付け根から手首まで。橋の上で、ユノの傷を塞いだ時に払ったものだ。
本当なら、肘の上まで来ていたはずだった。
あの時、体の中を這い上がってくる冷たさを、カインは確かに感じていた。腕を越え、肩を越え、胸の奥まで石になる。そう覚悟した。
それが途中で止まった。
ハルトの手が、自分の背を支えた瞬間に。
銀白色の光。無数の細い糸。その糸を伝って、自分の中から何かが、ハルトのほうへ流れ出していく感覚。
半分こ。
ハルトは、そう言った気がする。
カインは、眠るハルトの灰色の指先にそっと触れた。
冷たかった。
自分の指と、同じ冷たさだった。
俺の代償だ、とカインは思った。
俺が払うはずだった石の重さを、こいつが半分持っていった。ハルトはまだ十五で、本当なら、こんなものを知らずに済んだはずだった。
三日目の朝が来ても、目を覚まさないかもしれない。
目を覚ましても、何かを失っているかもしれない。
リュネは、「わからない」としか言わなかった。あの娘が「わからない」と言うのを、カインは初めて聞いた。
梁のことを、カインは何度も思い返していた。
あの時、自分の腕は、まだ持てたのか。
わからなかった。
持てなかった、と言えば、嘘になる気がする。持てた、と言っても、嘘になる気がする。骨の芯まで石になりかけていた。それは本当だ。けれど、あと少しなら、あと一人分なら、という手応えも、確かにあった。
覚えているのは、一つだけだ。
ミアの声が聞こえた時、自分は、梁の下の暗がりではなく、ミアを見た。
それだけだった。
それを、選んだと呼ぶなら、選んだのだ。だからハルトにも、そう言った。
言い訳を探すつもりはなかった。
ただ、今になって、別のことがわかった。
自分が何かを選ぶたびに、その重さは、自分一人では済まないのだ。
孤児院の頃から、そうしてきたつもりだった。罰は自分が受ける。痛いのは自分だけでいい。そうすれば、ハルトもユノも、怖い思いをしない。
けれど、橋の上で、ハルトはその重さに手を伸ばしてきた。
あいつは、また同じことをする。
自分が力を使えば、あいつは手を伸ばす。それが、ハルトという人間だった。誰かが一人で重いものを持っていると、黙って見ていられない。
だとしたら。
ユノの寝息が、静かに聞こえていた。
カインは、ユノの横顔を見た。
ほどけかけた三つ編み。目の下の隈。首の布飾りが、少しずれている。
その手が、自分の手を弾いた瞬間のことは、何度思い返しても、痛くはなかった。
当然だと思った。
金色の光で狼を串刺しにして、石の棺で巨獣を閉じ込めた手だ。怖くないはずがない。
雪の夜を、カインは覚えていた。
――お前たちを怖がらせない。
あの夜、薪小屋で、自分はそう決めた。
普通の兄でいる。それができれば、二人の傍にいられる。
もう、できなかった。
カインは、ユノの肩からずり落ちかけた毛布を、そっと掛け直した。
指先が、ユノの髪に触れそうになって、止まった。
それ以上は、伸ばさなかった。
酒場で会った旅装の男の言葉を、カインは忘れていなかった。
――代償を、他人に回す技術がある。
――背負わなくていい世の中が来ます。
あの時は、聞き流した。ハルトが「渡さない。分ける」と言ったのを、隣で聞いていた。
けれど、今は、別の意味に聞こえた。
代償を他人に回せるのなら、他人へ流れていくのを、止めることもできるはずだ。
自分とハルトの間に通ったあの糸を、断ち切る方法がどこかにある。
帝国は、それを知っている。
渡し場で、帝国の隊長は、自分だけを見ていた。値踏みするような、何かを確かめるような目で。
――次は見逃さんぞ。
あれは、脅しではなかったのかもしれない。
そして、北の街道の先に、帝国の部隊が野営している。避難所の兵士たちが、そう噂していた。
カインは、立ち上がった。
大剣を背に負う。灰色の外套の襟を立てる。
最後に、もう一度だけ、ハルトの寝顔を見た。
「……ごめんな、ハル」
声に出すつもりはなかった。
ハルトの睫毛が、かすかに動いた気がした。
カインは、それ以上待たずに、幕舎の布をくぐった。
夜の避難所は、焚き火の燠が赤く残るだけだった。
カインは、幕舎の間を、足音を殺して歩いた。
昼間の囁きが、まだ耳の奥に残っている。
――化け物だ。
――あんなのがいるなんて。
構わなかった。そう呼ばれるのには、慣れている。
隣の幕舎の前で、足が止まった。
マーサが眠っている幕舎だった。
布越しに、浅い寝息が聞こえる。背中の傷は深いが、命に障りはないと、薬師は言っていた。
あの人は、自分に「誰かに頼るのよ」と言った。約束して、と。
自分は、「努力します」と答えた。
努力は、しなかった。
カインは、布に触れずに、その前を通り過ぎた。
西門の脇の、崩れた柵の隙間から、外へ出た。
門番の目には入らない場所だった。昼のうちに、確かめておいた。
街道に出て、北へ向き直った時だった。
背後で、小さな足音がした。
振り返ると、ミアが立っていた。
裸足だった。
寝間着の上に、マーサの肩掛けを羽織っている。栗色の髪がほどけて、赤いリボンが片方だけ残っていた。
カインは、息を止めた。
「……ミア」
ミアは、何も言わなかった。
あの夜から、ミアは一言も喋っていない。マーサの手を握ったまま、黙って、天幕の天井を見ていた。
カインと目が合うと、すぐに逸らした。
それなのに、今は、まっすぐ自分を見ていた。
「戻れ」
カインは言った。
「お母さんのところに、戻るんだ。夜は危ない」
ミアは、動かなかった。
「ミア」
カインは、膝をついて、ミアと目の高さを合わせた。
「俺は、行かなきゃならない。おまえは、連れて行けない」
ミアの手が伸びてきた。
小さな指が、カインの外套の裾を掴んだ。
震えていた。
手首に、銀灰色の組み紐が巻かれていた。カインの手首にあるのと、同じ色の。
「……ひとりで」
掠れた声だった。
何日も使われていなかった喉から、絞り出すような。
「ひとりで、いかないで」
カインは、動けなくなった。
ミアの目に、涙が溜まっていた。けれど、零れなかった。零さないように、唇を噛んでいた。
穀物蔵の前で、炎を映していた目と同じ目だった。
あの時、ミアは見ていた。自分の目が、梁の下から、ミアへ移るのを。
この子は、何を思って、あれから黙っていたのだろう。
何を思って、今、自分を追ってきたのだろう。
わからなかった。
わからないまま、カインは、ミアの冷たい足を見た。
ここに置いていけば、この子はきっと、自分が見えなくなるまで、この街道に立ち続ける。
西門の上で、松明が一つ、揺れた。
門番が、こちらを見下ろしているのがわかった。
構わなかった。
「……朝までだ」
カインは言った。
「朝になったら、近くの村に預ける。いいな」
ミアは、答えなかった。
ただ、外套の裾を離さなかった。
カインは、背中の大剣を胸の前に回して、ミアに背を向けた。
「乗れ」
小さな体が背中に乗った。
驚くほど、軽かった。
北の街道は、月明かりに白く伸びていた。
ミアは、背中ですぐに眠った。
首に回された細い腕の重みを感じながら、カインは歩いた。
昔、飛び石で転んだハルトを、こうして背負ったことがある。自分も足首を捻っていたのに、笑って背負った。痛いのは、自分だけでよかった。
あの頃と、何も変わっていない。
変わったのは、自分の手が、もう普通の兄の手ではないということだけだ。
夜明け前、街道の脇の林から、松明が三つ、現れた。
黒地に、鉄色の紋章。
帝国兵だった。
槍の穂先が、カインに向けられる。
カインは、背中のミアを揺らさないように、ゆっくりと両手を上げた。
「隊長に、会わせてくれ」
カインは言った。
「渡し場で会った隊長だ。銀灰色の髪の男が来た、と伝えれば、わかる」
帝国の野営地は、街道から少し外れた丘の陰にあった。
天幕は二十ほど。整然と並び、篝火の間隔まで揃っている。ベルナの避難所の、継ぎ接ぎの幕舎とは、何もかもが違った。
隊長は、一番奥の天幕の前で待っていた。
渡し場で、馬の上からこちらを見下ろしていた男だった。兜を脱いだ顔を見るのは初めてだったが、あの値踏みするような目には、覚えがあった。四十がらみの、背の高い男。短く刈った髪に、白いものが混じっている。
隊長は、カインを見て、それから、カインの背中で眠るミアを見た。
「やはり来たか」
低い声だった。
「ベルナの橋の話は、ここまで届いている。金色の光で、狼の群れを串刺しにした剣士がいた、とな」
カインは、何も答えなかった。
「見せてもらえるか」
隊長が、顎で地面を示した。
カインは、ミアを、近くの丸太の上にそっと下ろした。外套を脱いで、その体に掛ける。ミアは、目を覚まさなかった。
地面に右手をついた。
胸の奥で、何かが目を覚ます。
熱ではなかった。冷たく、重く、底のない何かだった。地の紋を使っていた頃とは、まるで違う。土に呼びかけるのではなく、土のほうが、自分にひれ伏してくる。
指の間から、金色の光が漏れた。
地面が割れて、石の槍が一本、天に向かって突き出した。
人の背丈の倍ほどの高さで、止まる。
周りの兵士たちが、息を呑む音がした。
同時に、右手の灰色が、手首から肘へ、音もなく這い上がった。
冷たさが、骨の芯に食い込んでくる。
カインは、歯を食いしばった。
一人分の重さだった。
橋の上で感じた、あの細い糸の気配は、どこにもなかった。誰も、手を伸ばしてこない。重さは、全部、自分のところに留まっている。
それで、いい。
カインは、灰色に染まった右腕を、外套のない肩の下へ隠した。
「……十分だ」
隊長が言った。
その目が、ほんのわずかに細められた。
「お前の目。今、金色だったな」
カインは、顔を伏せた。
「望みは」
隊長が聞いた。
カインは、顔を上げた。
「代償の流れを、断ち切る方法を知りたい」
「断ち切る」
「俺の代償が、他人に流れないように。俺が払うものは、俺一人で払えるように」
隊長は、しばらく黙っていた。
それから、口の端だけで薄く笑った。
「面白いことを言う。帝国の連中は、皆、逆を欲しがるのだがな。自分の代償を、誰かに押しつける方法を」
「俺は、そんなものはいらない」
「だろうな」
隊長は、頷いた。
「帝国には、その答えに近いものを知る者がいる。お前を、そこへ連れていくことはできる」
「代わりに」
「代わりに、お前の力を、帝国のために使う。わかりやすい取引だ」
カインは、頷いた。
最初から、そのつもりだった。
「一つだけ、条件がある」
カインは、丸太の上で眠るミアを見た。
「あの子には、指一本触れるな。朝になったら、近くの村まで送る。俺が自分で」
「その必要はない」
隊長が言った。
穏やかな声だった。
「あの年の子供を、焼け出された村に一人で置いていくつもりか。帝国が責任を持って預かろう。温かい寝床も、食事も用意できる」
隊長が片手を上げた。
天幕の陰から、女の兵士が二人、出てきた。
一人が、眠るミアを、慣れた手つきで抱き上げる。
カインは、一歩、踏み出しかけた。
「心配はいらない」
隊長の声が、背中から追ってきた。
「お前が帝国の役に立つ限り、あの子は、帝国でいちばん安全な子供だ」
カインの足が止まった。
ミアを抱いた兵士が、奥の天幕へ歩いていく。
小さな手首で、銀灰色の組み紐が揺れていた。
カインは、自分の手首を見た。
同じ色の紐が、灰色に染まった腕の先で揺れていた。
「……わかった」
声が、自分のものではないように、冷たく聞こえた。
ミアの手のぬくもりを、思い出そうとした。
さっきまで、首に回されていた腕の、あの重さを。
思い出せなかった。
背中に残っているはずの温度が、どこにもなかった。灰色の腕と同じように、そこだけ、感覚がすっぽりと抜け落ちていた。
隊長が、カインの肩に手を置いた。
「歓迎する。……ああ、それから」
その手が軽く叩いた。
「ガルド将軍が、お前に会いたいそうだ」
東の空が白み始めていた。
カインの影が、帝国の黒い旗の影と重なって、長く、地面に伸びていた。




