第31話 同じ鍋
夜明け前の川は、白い靄に沈んでいた。
ハルトは、砦の裏手の水場へ降りていった。
靄の中に、人影が一つあった。上着を脱いで、川の水で顔を洗っている。背中には、二本の剣が立てかけてあった。
レオニスだった。
ハルトの足音に気づいて、レオニスは顔を上げた。濡れた前髪から、雫が落ちる。
「早いな」
「答えを、言いに来ました」
レオニスは、手拭いで顔を拭きながら、黙って待った。
ハルトは、一晩考えた言葉を、頭の中で並べ直した。けれど、口に出したのは、ずっと短い言葉だった。
「巻きます」
「理由は」
「どっちでもない、じゃ、迎えに行けないから」
レオニスは、少しの間、ハルトの顔を見ていた。
それから、上着の懐から、細長い布を一本取り出した。
橙と、藍。
「自分で巻け」
レオニスは、布をハルトの手に載せた。
「誰かに巻いてもらった布は、いつか、誰かのせいにできる。自分で巻いた腕は、自分のものだ」
ハルトは、布を左の二の腕に回した。
結ぼうとして、右手の指が、うまく動かなかった。灰色の斑の残る指先は、朝の冷たさでさらに鈍っていて、布の端が、何度もすり抜けた。
レオニスは、手を貸さなかった。
ハルトは、歯で布の端を噛んで、引いた。
三度目で、ようやく結び目ができた。
不格好な、固い結び目だった。
「よし」
レオニスが言った。
「今日から、おまえは旗団の一兵卒だ。飯の量はみんなと同じ。仕事の量も、同じ。……覚悟しとけよ。うちの仕事は、だいたい地味だ」
目尻に皺が寄った。
ユノも、布を巻いた。
ゴードンも、巻いた。ゴードンの太い腕には、支給の布が短すぎて、結び目が小さく突き出していた。
リュネだけは、巻かなかった。
「私は研究者よ。どこの旗にも属さない」
腕を組んで、ぷいと横を向く。
「……でも、怪我人の手当てくらいは、手伝ってあげる。ここの薬師、一人で回してるみたいだし。それに、あんたの腕の経過観察もあるし」
最後のほうは、早口だった。
マーサは、荷車から炊事場の天幕へ移された。背中の傷で立つことはできないが、座ったまま芋の皮を剥けると言い張って、炊事係の女を困らせていた。
斥候が、預かっていた武器を返しに来た。
ハルトの片手剣。ゴードンの剣。リュネの長杖。
「布、巻いたんですね」
斥候は、ハルトの腕を見て言った。
「はい」
「なら、もう客じゃありません。俺も、もう弓は向けません」
斥候は、それだけ言って、背を向けた。
二、三歩行ったところで振り返った。
「結び目、ひどいですね」
新兵の仕事は、本当に地味だった。
薪割り。水汲み。崩れた石壁の積み直し。堀の底に溜まった泥の掻き出し。
ハルトが入れられたのは、新兵ばかり十人ほどの組だった。ベルナから流れてきた若者が半分。残りは、旧王国の村々から集まってきた農家の次男や三男だという。
組を仕切るのは、片目に古い傷のある古参兵だった。口数が少なく、手で指図する。
堀の泥は、膝まであった。
右手で鍬を握ると、指に力が入らない。左手で支えて、腰で引く。泥は重く、冷たかった。
隣で泥を掻いていた若者が、ハルトをちらりと見た。
ベルナの訛りがあった。
「おまえ、橋の上にいたやつだろ」
ハルトは、手を止めずに頷いた。
若者は、それ以上何も言わなかった。ただ、昼の休みまで、ハルトの隣から離れなかった。離れもせず、話しかけもしなかった。
昼の鐘が鳴った。
炊事場の前に、長い列ができた。
兵も、子供も、年寄りも、同じ列に並ぶ。同じ椀に、同じ量の麦粥。前に来た時と、何も変わっていなかった。
列の少し前に、痩せた男の背中が見えた。
焼け焦げた前掛け。
昨日、石を投げた男だった。
男は、粥を受け取って振り返り、ハルトと目が合った。
一瞬、足が止まった。
それから、何も言わずに、天幕の陰へ歩いていった。
ハルトも、何も言わなかった。
言える言葉が、まだ、どこにもなかった。
午後は、稽古だった。
砦の中庭で、古参兵が新兵を二人ずつ組ませる。
「得物と紋を見せろ」
古参兵が短く言った。
紋を持つ者は、それを見せる。手のひらに小さな火を灯す者。地面の砂を少しだけ浮かせる者。指先から細い水を出す者。どれも基本紋の、ささやかな力だった。
使った後、みんな少しだけ顔をしかめた。指先が痺れる者、こめかみを押さえる者。基本紋の代償は軽いが、ないわけではない。
ハルトの番が来た。
ハルトは、手のひらを前に出しかけて、止めた。
「……紋は、ありません」
「ない?」
「前は、火でした。今は、出ません」
組の中から、小さな笑いが漏れた。
「火も出ないのかよ」
ベルナから来た若者が、笑った男を睨んだ。笑いは、すぐに引っ込んだ。
古参兵は、何も言わなかった。片方だけの目で、ハルトの腕の灰色と、左腕の古い盾を順に見た。
「なら、剣と盾で見せろ」
ハルトの相手は、組で一番大柄な若者だった。農家の出だという。木剣を握る手が、大きくて分厚い。
中庭の端に、いつの間にかゴードンが立っていた。
腕を組んで、黙って見ている。
「始め」
大柄な若者が、踏み込んできた。
速くはない。けれど、重い。
ハルトは、盾で受けた。
衝撃が、腕から肩へ抜ける。昨日の痣が鈍く疼いた。
受けた勢いのまま、右手の木剣を返す。
その瞬間、体が勝手に待った。
刃に火が乗る、ほんの一拍を。
ずっと、そうしてきた。受けて、火を乗せて、薄く燃える刃で崩す。リュネと一緒に磨いた、その一拍が、体に染みついていた。
火は、来なかった。
空いた一拍に、大柄な若者の木剣が滑り込んだ。
脇腹に、鈍い衝撃。
息が詰まって、ハルトは膝をついた。
「一本」
古参兵の声が、乾いて響いた。
中庭がしんとした。
脇腹が熱かった。痛みは、遠い。けれど、息が吸えない苦しさだけは、遠くなかった。
(今の、一拍)
ハルトは、地面を見たまま、自分の右手を見た。
火がないのに、火を待っていた。
なくしたものの形が、手の中にまだ残っていた。
「ハルト」
ゴードンの声だった。
顔を上げると、ゴードンは、腕を組んだまま動いていなかった。
「火を待つな」
それだけだった。
「受けて、崩して、繋げ。俺は、おまえに火の使い方を教えたか」
「……いいえ」
「なら、待つものなんか、最初からない」
ハルトは、木剣を杖にして、立ち上がった。
「もう一本、お願いします」
大柄な若者が、少し驚いた顔をして、構え直した。
二本目。
大柄な若者は、さっきより強く踏み込んできた。
ハルトは、盾で受けた。
今度は、待たなかった。
受けた瞬間、盾の縁を相手の木剣に沿って滑らせる。押し返すのではなく、力の向きを、ほんの少しだけ外へずらす。
孤児院の裏の空き地で、何百回も繰り返した型だった。まだ髭の黒かったゴードンに、盾ごと何度も転がされながら覚えた動き。
大柄な若者の体が、前へ流れた。
崩れた。
ハルトは、木剣を振らなかった。
(繋ぐ相手は、いない)
だから、待った。
崩れた相手が、立て直そうとして足を踏み替える、その一瞬を。
右手がひどく重かった。灰色の指が、木剣の柄を握っているのか、柄に貼りついているだけなのか、わからない。
それでも、振った。
木剣の先が、相手の手首を打った。
大柄な若者の木剣が、乾いた音を立てて地面に転がった。
「一本」
古参兵が言った。
同時に、ハルトの右手から、木剣が落ちた。
拾おうとして、指が開かないことに気づいた。
握った形のまま、固まっている。灰色の斑のあたりから、氷を当てられたような冷たさが、手首の上まで這い上がってきていた。
左手で、右の指を一本ずつ剥がした。
関節が軋んだ。
痛みは遠かった。けれど、その冷たさだけは、いつまでも指の奥に残った。
大柄な若者が、自分の手首をさすりながら、ハルトの前に立った。
「……火がなくても、やるじゃないか」
ハルトは、何と答えていいか、わからなかった。
だから、左手を差し出した。
若者は、少し迷ってから、その手を握った。
古参兵が、片方の目を細めた。
ゴードンは、もう中庭にいなかった。
夕暮れ、炊事場の前に、また長い列ができた。
ハルトの椀にも、子供の椀にも、同じ量の粥が注がれた。干した豆が、少しだけ入っていた。
焚き火の輪の端に座ると、誰かが隣に腰を下ろした。
レオニスだった。
レオニスの椀も、ハルトと同じ量だった。
周りの兵たちは、もう慣れているのか、盟主が隣に座っても、誰も騒がなかった。
「稽古、見てたぞ」
レオニスが、粥をすすりながら言った。
「一本目は、ひどかった」
「……はい」
「二本目は、悪くなかった」
レオニスは、焚き火を見ていた。
「孤児院の出だってな。ゴードンさんから聞いた」
ハルトは、匙を止めた。
「うちの連中の半分は、帰る場所がない。焼かれたやつ、追われたやつ、最初からなかったやつ」
レオニスは、自分の椀を少し持ち上げた。
「だから、同じ鍋を囲む。同じ量を食う。それだけは、譲らないことにしてる」
焚き火の向こうで、ユノが子供たちに粥をよそっていた。リュネは、薬師の天幕から出てきて、疲れた顔で椀を受け取っている。炊事場の天幕の中から、マーサの笑い声が、かすかに聞こえた。
「おまえは、もう、その鍋の一人だ」
レオニスは、そう言って立ち上がった。
ハルトの肩を、軽く叩いて、別の焚き火のほうへ歩いていった。
ハルトは、椀の中の粥を見た。
一口すくって、口に入れた。
味は、まだ、遠かった。
けれど、粥が喉を通って、腹の底に落ちていくあたたかさだけは、確かにわかった。
(同じ鍋)
右手の指の奥に残った冷たさと、腹の底のあたたかさが、同じ体の中に並んでいた。
その夜更けだった。
砦の門のほうで、馬の嘶きが聞こえた。
ハルトは、天幕の中で目を開けた。
足音が、いくつも走っていく。誰かが、押し殺した声で、誰かの名前を呼んでいる。
天幕の布をめくると、門の前の篝火の下に、斥候の青年がいた。
馬の首は、汗で白く泡立っている。
その前に、レオニスが立っていた。
「渡し場の対岸に、帝国の旗が立ちました」
斥候の声が、夜気の中で、はっきり聞こえた。
「前の小隊じゃありません。天幕の数が、ずっと多い。……舟を、組み始めています」
篝火がぱちりと爆ぜた。
ハルトは、左腕の、不格好な結び目にそっと触れた。
(第一章 夜明け前の橋 了)




