第30話 どっちでもない
弦が、きりきりと鳴っていた。
ハルトは、盾を胸の前に構えたまま、動かなかった。
葦の茂みまで、十歩ほど。矢の先は、まっすぐハルトの喉を向いている。この距離なら、盾を上げるより先に届く。
背中で、驢馬が落ち着きなく蹄を鳴らした。
「答えてください。ベルナから来たんですか」
「……そうです」
ハルトは言った。
「暁の旗団を、頼りに来ました」
茂みの中で、短い沈黙があった。
それから、葦を分けて、男が一人、姿を見せた。
細身の体。二十歳そこそこの、疲れの滲んだ目。革の胸当て。腕に巻いた、橙と藍の布。
前に、この渡し場で会った。帝国兵とぶつかっていた、旗団の斥候だった。ハルトが「手当てだけ」と言ってついて行った時、野営地まで先導してくれた青年だ。
弓は、下りなかった。
「やっぱり、あなたでしたか。盾の人」
丁寧な口調は、前と変わらなかった。けれど、声の温度がまるで違った。
斥候の目が、ハルトから、ユノ、リュネ、荷車のマーサ、手綱を握るゴードンへと移っていく。
一人ずつ、数えるように。
そして、もう一度、全員を見回した。
「あの大剣の人は、どうしたんですか」
ユノの肩が強張った。
「銀灰色の髪の。あなたたちと一緒にいた、背の高い剣士です」
「……今は、いません」
「いない」
斥候は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「ベルナから逃げてきた人たちが、四日前から、砦に流れてきています。みんな、同じ話をするんです」
矢の先がわずかに揺れた。
「橋の上で、銀灰色の髪の剣士が、金色に光って狼の群れを串刺しにした。人間の業じゃなかった。その化け物が、夜のうちに女の子を連れて、北の街道へ消えた。街道の先には、帝国の部隊がいた、と」
斥候は、ハルトを見た。
「俺も、見ているんです。この渡し場で。帝国の隊長が、あの人だけを、じっと見ていた。『次は見逃さんぞ』と言って引いた」
「それは」
「あの時は、目をつけられたんだと思いました。でも、今は違う考えも浮かぶんです」
斥候の声が低くなった。
「最初から、知り合いだったんじゃないですか」
ハルトは、答えられなかった。
違う、と言いたかった。
けれど、その言葉の重さを支える何かが、胸の中に見つからなかった。怒りは、あった。遠くの、薄い怒りが。それを声にしようとしても、喉の手前でほどけて消えた。
(違う。カインは、そんなんじゃない)
心の中でだけ、言った。
その時、荷車の上で軋む音がした。
ゴードンが、手綱を置いて、地面に降りた。
「動かないでください!」
斥候が、弓をゴードンに向け直す。
ゴードンは、構わず二歩前に出た。両手を、体の横に下げたまま。
「その女の子は、俺の娘だ」
斥候の動きが止まった。
「名前は、ミア。栗色の髪を二つに結んで、赤いリボンをしてる」
ゴードンの声は、静かだった。
「俺は、娘を探しに来た。こいつらは、そのために道を貸してくれてる。それだけだ」
長い沈黙が落ちた。
川の音だけが、低く続いていた。
やがて、斥候は、ゆっくりと弦を緩めた。
矢は、番えたままだった。
「武器は、預かります」
斥候は言った。
「砦まで案内します。そこから先は、俺が決めることじゃありません」
ハルトは、片手剣を鞘ごと外して渡した。ゴードンも、黙って腰の剣を差し出した。ユノの短弓と、リュネの長杖が続く。
リュネは、杖を手放す時、露骨に顔をしかめた。
「傷つけたら、承知しないから」
「杖に傷をつけるほど、乱暴じゃありません」
斥候は、杖を抱え直した。
それから、ハルトの左腕に目をやった。
「盾は……」
ハルトは、盾の持ち手を握った。
渡すべきだと、頭ではわかっていた。けれど、指が、なかなか離れなかった。
斥候は、小さく息を吐いた。
「盾は、持っていてください。盾で人は殺せませんから」
渡し場が無人だった理由は、川沿いの道を歩きながら聞いた。
二日前、帝国の小隊が、川の向こう岸まで来たのだという。舟を出せと渡し守を脅したが、老人は舟底に穴を開けて断った。小隊は引き上げたが、次はもっと大勢で来るだろう。それで、渡し守と孫は、砦へ移ったのだ。
「あのおじいさん、とんでもないことをしますよね」
斥候は、前を向いたまま言った。
その声に、ほんの少しだけ、前に会った時のやわらかさが戻っていた。
砦跡に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
崩れた石壁の内側に、天幕の数が、前よりずっと増えていた。
煮炊きの煙。洗濯物。走り回る子供たち。
それは、前に来た時と同じ風景のはずだった。
けれど、斥候に続いて門をくぐった途端、空気が変わった。
焚き火の前にいた女が、子供の手を引いて天幕に入った。
薪を割っていた男が、斧を下ろして、こちらを見た。
囁きが、波のように広がっていく。
「……ベルナの」
「あいつらだ。あの化け物と、一緒にいた」
「盾の小僧。橋の上にいたやつだ」
ハルトは、前を向いて歩いた。
その声に、聞き覚えがあった。ベルナの訛りだ。避難所の焚き火の輪で聞いたのと、同じ言葉だった。
ユノが、ハルトの袖をそっと掴んだ。
指が冷たかった。
その時だった。
「おまえらのせいで!」
怒鳴り声と同時に、横から何かが飛んできた。
ハルトは、反射で盾を上げた。
乾いた音がして、盾の表で、拳ほどの石が跳ねた。
腕に、鈍い衝撃が伝わる。痛みは、やっぱり遠かった。
投げたのは、痩せた中年の男だった。
頬がこけ、目だけが赤く光っている。焼け焦げた前掛けを、まだ身につけていた。
「おまえらが、あの化け物を町に連れてきたんだろう!」
男は、もう一つ石を拾った。
斥候が、間に入ろうとする。
ハルトは、それより先に盾を下ろした。
自分でも、なぜそうしたのかわからなかった。
二つ目の石が、ハルトの肩に当たった。
骨に響く音がした。ユノが、悲鳴のように名前を呼んだ。
男は、三つ目の石を握ったまま、立ち尽くしていた。
当たると、思っていなかった顔だった。
「女房と、息子が」
男の声が崩れた。
「穀物蔵に、いたんだ。地下に。……まだ、出てこない」
石が、男の手から落ちた。
ハルトは、肩を押さえもせずに、男を見ていた。
あの扉を叩く音を、ハルトは聞いた。
燃える梁の下で、内側から、何度も、何度も。
(この人の、家族も)
胸の奥で何かが軋んだ。
それでも、涙は出なかった。
「……ごめんなさい」
言えたのは、それだけだった。
「俺たちも、あそこにいました。開けられなかった」
男は、何も答えなかった。
膝から崩れて、地面に手をついた。誰かが駆け寄って、その背中をさすった。
囁きは、止んでいた。
代わりに、重たい沈黙が、砦の中に満ちていた。
「――そこまでにしとけ」
その沈黙を割ったのは、よく通る声だった。
天幕の間から、背の高い男が歩いてきた。
夕日色に近い、橙がかった茶髪。日に焼けた顔。粗末な麻の上着に、革の胴当て。背中に、二本の剣。
レオニスだった。
周りの兵たちが、さっと道を空ける。誰かが「盟主様」と言いかけて、口をつぐんだ。
レオニスは、崩れた男の前に膝をついた。
「穀物蔵だったか」
男が小さく頷く。
「そうか」
レオニスは、それ以上何も言わなかった。男の肩に手を置いて、しばらくそのままでいた。
それから、立ち上がって、ハルトを見た。
人の話を聞く時の、静かな目だった。
「よう。また道が交わったな」
「レオニスさん」
「肩は」
「大丈夫です」
「大丈夫なやつは、そういう顔をしない」
レオニスは、斥候から事情を聞いた。ゴードンの話を聞き、ユノの話を聞き、荷車の上のマーサの話を聞いた。
一度も、口を挟まなかった。
聞き終えると、ハルトに向き直った。
「一つだけ、聞かせてくれ」
周りの視線が、集まるのがわかった。
「あの大剣使いは、化け物か」
ハルトは、息を吸った。
胸の中を探した。
正しい言葉を。みんなを納得させる言葉を。けれど、感情の遠いこの胸には、気の利いた答えなど、一つも転がっていなかった。
だから、知っていることだけを言った。
「カインは、燃える穀物蔵の梁を、一人で持ち上げました」
声は、平らだった。
「マーサさんとミアは、それで外に出られた。橋の上で、俺たちを守るために、群れを止めた。俺の姉を、治しました」
ユノが、息を呑む音がした。
「だから、化け物じゃないです」
ハルトは、言った。
「カインは、俺の家族です」
レオニスは、黙ってハルトを見ていた。
「なら、なぜいなくなった」
「わかりません」
「帝国と通じていないと、言えるか」
「……わかりません」
ざわめきが、また起きかけた。
ハルトは、それでも、目を逸らさなかった。
「わからないから、確かめに行きたいんです。ミアを、迎えに行くって約束しました。でも、俺たちだけじゃ、北の街道の先のことは、何もわからない」
「それで、うちを頼った」
「はい」
レオニスの口元が、ほんのわずかに動いた。
その時、人垣の後ろから、杖をつく音が近づいてきた。
「盟主殿」
しわがれた声だった。
小さな男の子に手を引かれて、白髪の老人が前に出てきた。
渡し守の老人だった。
男の子が、ハルトを見て、ぱっと顔を輝かせた。それから、周りの空気に気づいて、老人の後ろに隠れた。
「わしは、この坊主に孫を助けてもろうた」
老人は、ハルトを顎で示した。
「あの時、帝国にも、お前さんたちにもつかんと言うた。どっちでもない、とな。どっちでもない者が、わざわざ矢の雨の中を走って、わしの孫を引っ張り上げた」
老人は、ふん、と鼻を鳴らした。
「化け物の手先が、そんな損なことをするかね」
誰も、答えなかった。
レオニスが短く笑った。
目尻に皺が寄った。
「爺さんに言われちゃ、かなわないな」
レオニスは、周りを見回した。
「この連中は、うちで飯を食う。文句があるやつは、俺のところに来い。俺が聞く」
それから、ハルトのほうへ向き直った。
「ただし」
声の温度が、少しだけ下がった。
「ここで飯を食うなら、量はみんなと同じだ。働く量も、同じだ。客として置くつもりはない」
「はい」
「もう一つ」
レオニスは、自分の腕に巻いた布を指で叩いた。
橙と藍の布だった。
「あの渡し場で、おまえは『どっちでもない』と言った。それは、あの時は正しかった。だが、旗の下で帝国のことを探るなら、もうそれは通らない」
ハルトは、レオニスの目を見た。
「うちの旗を巻けば、帝国はおまえを敵として見る。北の街道の先にいるおまえの家族が、おまえをどう見るかも、わからない」
ハルトの手首で、白い組み紐が揺れた。
「今夜一晩、考えろ。答えは、明日の朝でいい」
その夜、ハルトは砦の崩れた石壁に背を預けて、川の音を聞いていた。
肩が鈍く疼いていた。痣になっているだろう。痛みは遠いのに、その場所だけが妙に重かった。
隣に、ゴードンが腰を下ろした。
何も言わずに、焚き火で炙った干し肉を半分に裂いて、差し出してきた。
ハルトは、受け取った。
「盾を、下ろしたな」
ゴードンが言った。
「はい」
「なぜだ」
ハルトは、少し考えた。
「わかりません。……受けたら、駄目な気がしたんです。あの人の石は」
ゴードンは、鼻から息を吐いた。
それきり、何も言わなかった。
ただ、大きな手で、一度だけ、ハルトの痣のある肩を叩いた。
痛かった。
遠くない痛みだった。
ハルトは、少しだけ驚いて、自分の肩を見た。
焚き火の明かりの向こうで、ユノが、斥候から返してもらった短弓の弦を張り直していた。リュネは、天幕の陰で手帳に何かを書きつけている。荷車の上では、マーサが、旗団の炊事係の女と小声で話していた。
ハルトは、自分の左腕に目を落とした。
何も巻かれていない、腕。
旗の布を巻けば、そこに色がつく。
橙と、藍。日の出の空の色。
(どっちでもない、じゃ、もう誰も守れない)
そう思った。
けれど、その布を巻いた腕で、いつかカインの前に立つ日が来るのかもしれない。
その時、カインの目には、何色に見えるのだろう。
川の向こうの、北の空は、真っ暗だった。
星が、一つも見えなかった。




