第29話 顔を見せろ
目を覚ましてから、七日が経っていた。
その朝、ハルトは炊き出しの竈の前にしゃがんでいた。
避難所の朝は早い。日が昇る前から、鍋を抱えた女たちが列を作る。薪は湿っていて、火の番の老人が、さっきから何度も火打ち石を鳴らしていた。
「俺がやります」
ハルトは言った。
老人が、皺だらけの手を止めて、場所を空けてくれた。
薪の下に、乾いた木屑を寄せる。
右の手のひらを、そこへかざした。
指先に熱を集める。
ずっと、そうしてきた。孤児院の竈でも、野営の焚き火でも。息をするのと同じくらい、当たり前のことだった。
何も、起きなかった。
ハルトは、もう一度、手のひらに意識を向けた。
熱が来ない。
火の粉どころか、ぬくもりさえ湧いてこない。灰色の斑が残る指先は、朝の空気と同じ温度のまま、ひんやりと木屑の上に浮いていた。
左手に変えてみた。
同じだった。
「……あれ」
声が、ひどく平らに出た。
老人が、怪訝そうにこちらを覗き込む。
その後ろから、小さな足音が近づいてきた。
「どいて」
リュネだった。
ローブの袖をまくって、ハルトの隣にしゃがみ込む。湿った薪を一本取って、火打ち石を三度鳴らした。四度目で、木屑に小さな火が移った。
老人に頭を下げて、リュネはハルトの袖を引いた。
幕舎の陰まで来て、ようやく手を離す。
「……やっぱり」
リュネが低い声で言った。
「やっぱり、って」
「橋の上で、あんたが倒れる直前。あんたの体から、赤い火の粉が散ったのを見たの。カインの時は、茶色い光だった」
リュネは、手帳を胸に抱えた。
「たぶん、弾き出されたのよ。あんたの火の紋」
「弾き出された」
「代わりに、別の何かが入った。何なのかは、まだわからない。理論的に説明できないことを、言いたくないんだけど」
ハルトは、自分の右手を見た。
火は、ハルトの一部だった。刃の上だけ薄く燃やす火を、リュネと一緒に考えたのは、つい最近のことだ。
「そっか」
それだけが口から出た。
リュネが顔を上げた。
何か言いたそうに唇が動いて、閉じた。
ハルトにも、わかっていた。
(なくしたのに、何とも思ってない)
火を失ったことより、そのことのほうがずっと怖かった。
その日、ハルトたちは避難所を出るはずだった。
行き先は決めてあった。渡し場から川を遡った砦跡にいる、暁の旗団だ。
三日前、ユノとリュネと、三人で話して決めた。
「帝国の部隊が、北の街道にいた。カインとミアは、その先にいる」
ユノが、地図代わりに地面へ線を引いた。
「私たちだけじゃ、帝国のことは何もわからない。でも、あの人たちは帝国と戦ってる」
「また道が交わったら、飯を食いに来い。……レオニスさんは、そう言ってた」
ハルトが言うと、リュネが鼻を鳴らした。
「飯をたかりに行くだけじゃ、追い返されるでしょ」
「手当てなら、できる。ユノ姉の風もある」
「あんたは何ができるのよ」
「盾がある」
リュネは、それきり黙った。
ゴードンの古い盾は、幕舎の柱に立てかけてあった。撤退戦で新しい傷が三つ増えていたが、割れてはいなかった。
出発の荷を、まとめ終えた頃だった。
避難所の入口のほうが、ざわついた。
見張りの兵士が、誰かを止めようとして、押し返されている。
驢馬に曳かせた小さな荷車が、幕舎の間の道に入ってきた。
手綱を握っているのは、大きな男だった。
外套は泥で重く濡れ、片方の袖が裂けている。髭に白いものが混じっていた。腰の剣の鞘に、乾いた黒い染みがこびりついている。
ハルトは、立ち上がった。
「……ゴードンさん」
ゴードンがこちらを見た。
荷車を止めて、地面に降りる。大股で歩いてきて、ハルトの前で止まった。
上から下まで、ハルトを見た。
右腕の灰色で、目が一度、止まった。
「マーサは」
声は、低かった。
「隣の幕舎です。背中を怪我してて、でも、話せます」
ゴードンは頷いた。
それから、ほんの一瞬だけ、周囲を見回した。
小さな影を探す目だった。
ユノが、ハルトの後ろで息を呑んだ。
ゴードンは、何も聞かなかった。
黙って、隣の幕舎の布をくぐった。
ハルトは、外で待った。
中の声は、聞こえなかった。聞こうとも思わなかった。
荷車の荷台に、毛布が二枚、きちんと畳んで積まれていた。一枚は大人用の、厚手の毛織りだ。もう一枚は、それより一回り小さかった。
縁に、拙い刺繍で花が縫いつけてある。
ハルトは、その毛布から目を離せなかった。
迎えに来たのだ。
マーサとミアを、村へ連れて帰るために。
驢馬が鼻を鳴らした。
リュネが、荷台の脇に積まれた矢筒を見つけて、首を傾げた。
「村の、守備隊のでしょ。これ」
「たぶん」
「あの人、ここまでどうやって来たの。街道は、まだ散った魔物がうろついてるって」
その答えは、ゴードンの外套の裂け目と、鞘の染みが語っていた。
ずいぶん長い時間が経った気がした。
布がめくれて、ゴードンが出てきた。
顔は、入っていった時と、ほとんど変わらなかった。
ただ、目の縁が、少しだけ赤かった。
ゴードンは、荷台の小さな毛布を手に取った。しばらく眺めてから、元の場所に、丁寧に置き直した。
「……あいつから、聞いた」
それだけ言った。
「ゴードンさん」
ユノが一歩前に出た。
「ごめんなさい。私たち、ミアを」
「謝るな」
短い声だった。
「生きてる。そうだな」
「……はい」
「なら、いい」
ゴードンは、驢馬の首を一度叩いた。
「今は、それで十分だ」
ユノの肩が震えた。
ハルトは、ゴードンの背中を見ていた。
(この人は、泣かないんだ)
そう思った。
けれど、泣けないのと、泣かないのとは、違うような気がした。
昼過ぎ、ゴードンはハルトを幕舎の裏へ呼んだ。
崩れた石垣に腰を下ろす。大きな体が石に沈むと、石垣のほうが小さく見えた。
「腕を見せろ」
ハルトは、右の袖をまくった。
指先から手首にかけての灰色を、ゴードンは黙って見た。触れて、冷たさを確かめた。
「痛むか」
「痛いです。でも、遠い」
「遠い?」
「怪我も、悲しいのも。全部、硝子の向こうみたいで」
ハルトは、自分の声を、他人のもののように聞いた。
「火も、なくしました。今朝、気づいたんです。竈に火がつけられなくて」
「そうか」
「それなのに、何とも思わなかった」
ゴードンは、しばらく何も言わなかった。
遠くで、子供が泣いている。炊き出しの鍋が、かちりと鳴った。
「ハルト」
「はい」
「俺の手紙は、読んだか」
ハルトは、俯いた。
「……読んだ、そうです」
「そうです?」
「襲撃の前の日のことを、ほとんど覚えてないんです。ユノ姉が、みんなで読んだって。でも、何が書いてあったのか、わからない」
白い組み紐が、手首で揺れた。
「ミアが、これを結んでくれた日のことも」
ゴードンの目が、組み紐に落ちた。
長い間、そこに留まっていた。
「なら、もう一度言う」
ゴードンは、ハルトのほうへ体を向けた。
「顔を見せろ」
ハルトは、息を止めた。
その響きを知っていた。
赤いリボンや、手を引かれる感触と一緒に、水面の泡のように漂っていた言葉だ。誰の声だったのか、ずっとわからなかった。
(この人の、言葉だったんだ)
思い出したわけではなかった。
手紙の文面も、それを読んだ日の空も、戻ってはこなかった。
ただ、浮いていた泡が一つ、どこかに錨を下ろした気がした。
「手紙には、それだけ書いた」
ゴードンが言った。
「顔を見せろ。それが返事だ、とな。……見せたんだから、それでいい」
「でも、俺、覚えてない」
「俺が覚えてる」
ゴードンは、ハルトの頭に、大きな手を載せた。
ずしりと重かった。
あの日の盾と、同じ重さだと思った。
「おまえが忘れた分は、俺たちが覚えておく。ユノも、あの嬢ちゃんも、覚えてる。それで足りないことは、ない」
ハルトは、頷こうとした。
うまく、首が動かなかった。
胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。痛みに似ていたが、痛みよりも、少しだけ温かかった。
涙は、出なかった。
それでも、ゴードンの手が離れるまで、ハルトは、じっとしていた。
「盾を持ってこい」
ゴードンが言った。
ハルトが幕舎から盾を抱えて戻ると、ゴードンはそれを受け取って、表と裏を返した。
新しい三つの傷を、親指でなぞる。
「割らなかったな」
「割れませんでした」
「何を受けた」
「狼です。橋で。後ろに、子供がいて」
ゴードンは、鼻から息を吐いた。
笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
「火がなくても、盾は振れる。盾剣術は、火の技じゃない」
ゴードンは、盾をハルトの左腕に通した。
「受けて、崩して、繋げ。それは、何も変わってない」
「……はい」
「旗団へ行くそうだな」
ハルトは、顔を上げた。
「ユノから聞いた。帝国と戦ってる連中だと」
「はい。カインとミアは、帝国の部隊がいた北の街道へ行きました。俺たちだけじゃ、何もわからないから」
ゴードンは、北の空を見た。
雲が低く垂れていた。
「村は、副長に預けてきた」
「え」
「マーサを連れて、帰るつもりだった。……やめだ」
ゴードンは立ち上がった。
膝についた土を、払いもしなかった。
「俺も行く。マーサも連れていく。あいつも、ここで寝てるより、そのほうがいいと言った」
「でも、マーサさんの背中は」
「荷車がある。ミアの毛布もな」
ゴードンは、それだけ言って、背を向けた。
あの日、村の門で、ハルトたちを見送った時と同じ背中だった。
翌朝、一行は避難所を出た。
驢馬の荷車に、マーサが毛布を重ねて横たわっている。手綱はゴードンが握った。ユノの背には、ゴードンが村から持ってきた矢が、新しく補充されていた。
リュネは、荷車の脇を歩いた。腰の革袋が、時々かすかに揺れる。洞窟で拾った欠片が入っているはずだった。
西門の前を通り過ぎようとした時、ハルトは足を止めた。
門の脇の、崩れかけた詰所の前に、青い外套が見えた。
セラだった。
銀の鎧は着ていなかった。外套の下は、ただの麻の服だった。
腰に剣がない。
細身の長剣は、布に包まれて、詰所の壁に立てかけてあった。
ハルトに気づくと、セラはゆっくりと立ち上がった。
「行くのか」
「はい。暁の旗団を、頼ろうと思います」
「そうか」
セラの声は、相変わらず硬かった。けれど、どこか、遠くから聞こえるようだった。
「君たちを、北門に呼んだのは私だ。評議会にも、連れて行った」
「セラさん」
「守れると言った。守ると決めていた」
セラは、包まれた剣に目をやった。
左手が、外套の下で震えていた。
「……私は、残る。ここで、やるべきことがある。剣以外で」
ハルトは、何か言おうとした。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、胸のどこを探しても見つからなかった。感情が遠いせいなのか、最初からそんな言葉を持っていなかったのか、わからなかった。
だから、見たままを言った。
「セラさんがいたから、俺たちは、橋まで行けました」
セラの目が、わずかに揺れた。
返事はなかった。
セラは、ハルトの後ろのゴードンに短く頭を下げた。ゴードンも、黙って頷き返した。
ハルトは、セラに背を向けて、歩き出した。
振り返ると、セラはもう座り込んでいた。
青い外套が、焼け残った門の影に小さく見えた。
街道は、春の終わりの匂いがした。
ベルナの焼けた匂いが、背中のほうへ遠ざかっていく。
ユノが、ハルトの隣に並んだ。
ここ数日、ユノは前よりも口数が減っていた。笑う時も、どこか、許しを求めるような笑い方をした。
「ハル」
「うん」
「火のこと、リュネから聞いた」
「うん」
「……ごめんね」
「ユノ姉のせいじゃない」
何度目かわからない言葉だった。
ユノは、首の布飾りに指を触れた。それから、腰の革袋から、硬くなったパンを一つ取り出した。
両手で割る。
ぱき、と乾いた音がした。
「半分こ」
差し出された半分を、ハルトは受け取った。
その時だった。
胸の奥で、銀白色の光がかすかに瞬いた。
ほんの一瞬、ユノの手から、細い光の糸が伸びているのが見えた気がした。橋の上で見た、あの無数の糸のような。
瞬きをすると、消えていた。
(今の、何だ)
ユノは気づいていない。リュネは、荷車の向こうで、マーサと何か話している。
ハルトは、パンをかじった。
味は、遠かった。
けれど、少しだけ、あたたかかった。
ベルナを発って三日目の昼、街道の先に、大河の光が見えてきた。
渡し場だ。
前に来た時は、ここで帝国兵と旗団の斥候がぶつかっていた。渡し守の老人と孫を、助けた場所でもある。
だが、今日は、静かすぎた。
渡し小屋の煙突から、煙が上がっていない。舟も、岸に引き上げられたままだった。
ゴードンが、手綱を引いて驢馬を止めた。
「止まれ」
低い声だった。
ハルトは、盾を構えた。
葦の茂みが揺れた。
風ではなかった。
茂みの中から、矢の先が一本、こちらに向けられていた。
矢を番えた腕に、布が巻かれている。
橙と、藍。
「動くな」
茂みの向こうから、若い男の声がした。
聞き覚えのある声だった。
「――あんたら、ベルナから来たのか」
弦の軋む音が、張りつめた空気の中で細く鳴った。




