第28話 白い紐
最初に見えたのは、白い布の天井だった。
幕舎の天幕だとわかるまでに、しばらくかかった。
薬草を煮出したような、苦い匂いが鼻をつく。遠くで、誰かが咳き込む音。木桶の水を替える音。重たい足音が、いくつも行き来している。
ハルトは、天井を見つめたまま、瞬きをした。
(……生きてる)
そう思った。
体が、ひどく重かった。
腕を動かそうとして、右腕が、自分のものではないように鈍いことに気づいた。持ち上げると、指先から手首にかけて、薄い灰色の斑が残っている。触れると、石のようにひんやりしていた。
「ハル……?」
掠れた声が、すぐ傍で聞こえた。
顔を向けると、ユノが、寝台の脇の椅子に座っていた。
目の下に、濃い隈ができている。髪は乱れ、三つ編みがほどけかかっていた。手には、水に浸した布を握っている。
「ユノ姉」
「ハル! よかった、目が覚めた」
ユノの目から、ぼろぼろと涙が零れた。
「三日も、眠ったままだったのよ」
「三日?」
「ええ。三日」
ユノは、布で目元を押さえた。
「ずっと、起きなかった。リュネが何度も診てくれたけど、原因がわからなくて」
その言葉に、隣の椅子で毛布にくるまっていた小さな影が、びくりと動いた。
リュネだった。
髪は跳ね、ローブの襟が歪んでいる。眠っていたのか、目がうつろだった。
「……あ」
リュネは、ハルトの顔を見た途端、呆けた表情になった。
それから、唇を噛んで、ぷいと横を向いた。
「ば、馬鹿じゃないの。三日も寝込んで」
「リュネ」
「心配、してないんだから」
声が、震えていた。
ハルトは、うまく笑えなかった。
けれど、口の端を少しだけ動かして、「ごめん」と言った。
状況を聞いたのは、水を一口飲んだ後だった。
ここは、西門の外に設けられた避難所の、負傷者用の幕舎だという。ベルナの町は、魔物の群れが去った後も、半分以上が燃え落ちたままで、住民たちは野営地での生活を余儀なくされている。
「死者は、まだ数えきれないって」
ユノが、小さな声で言った。
「穀物蔵の地下は、まだ掘り返せていない」
ハルトの胸が、ひやりとした。
けれど、その痛みは、不思議なほど、遠かった。
(あの下に、人が)
頭ではわかっている。
あの時、扉を叩く音を聞いたのだ。
それなのに、胸の中に、熱が湧いてこない。
まるで、厚い硝子の向こうで起きた出来事を、眺めているようだった。
「……カインは?」
ハルトは、尋ねた。
ユノの肩が、びくりと震えた。
リュネが、小さく息を吸う気配がした。
その沈黙が、答えだった。
「いないの」
ユノが、絞り出すように言った。
「ハルを、ここまで運んでくれたの。ずっと、傍にいた。でも、二日目の夜に」
「夜に?」
「ミアと一緒に、いなくなってた」
天幕の中が、しんと静まった。
遠くで、見張りの兵士の足音が響く。
「どこへ」
「わからない。門番が、夜明け前に、北の街道へ向かう二人を見たって。背の高い剣士と、小さな女の子が」
「……」
「それと、もう一つ。街道の先に、帝国の部隊が野営していたって」
ユノは、唇を噛んだ。
「それで、噂になってるの。『帝国兵が、ミアを連れ去った』って」
「連れ去った、って」
「違うのよ。カインは、きっと」
そこまで言って、ユノの声は途切れた。
涙が、また零れた。
「私のせい」
「ユノ姉」
「私が、あの時、手を」
「違う」
ハルトは、言った。
「ユノ姉のせいじゃない」
「でも」
「ユノ姉のせいじゃ、ないよ」
言葉は出たのに、不思議だった。
それを言っている自分が、他人のように思えた。
ユノは、顔を覆って泣いていた。
ハルトは、その背中を、そっと撫でようとして、腕が上がらなかった。
(俺は、悲しいはずだ)
(カインがいなくなったのに)
(なのに、なんで)
泣けなかった。
涙が出ない。
胸が、空洞のようだった。
その空洞の奥に、小さな声だけが響いていた。
――ごめんな、ハル。
あれは、夢だったのか。
それとも、現実だったのか。
もう、わからなかった。
「ちょっと、いいかしら」
しばらくして、リュネが口を開いた。
涙を拭ったのか、目が赤い。
けれど、声は、研究者のそれに戻っていた。
「ハルト。診察させて」
「診察?」
「あんたの体は、普通じゃない。右腕の灰色は、カインのものと同じ症状よ。石化の代償。あんたは、カインの代償を、肩代わりした」
リュネは、ハルトの右手を取って、指先を一本ずつ確かめた。
「感覚は?」
「鈍い。でも、動く」
「痛みは?」
「ある。けど、……遠い」
「遠い」
リュネの眉が、ぴくりと動いた。
手帳を開いて、何かを書き込む。
「次。名前と、歳と、どこで育ったか。言ってみて」
「ハルト。十五。ソーヌ村の、孤児院で育った」
「ユノの年齢は」
「十八」
「カインは」
「十八。……同い年」
「ベルナに着いたのは、いつ?」
「商隊と、一緒に。魔物に襲われて、セラさんと、それから」
そこで、ハルトは言葉に詰まった。
「それから?」
「北の森の、討伐……評議会……」
記憶の糸を、手繰る。
けれど、その先が、ぷつりと切れていた。
「その次の日のことは?」
「次の……日」
「襲撃の前日。何をしたか、覚えてる?」
ハルトは、目を閉じた。
朝。
誰かに起こされた気がする。
市場。パンの匂い。
誰かが、笑っていた。
それから。
(それから)
何も、浮かばなかった。
ただ、断片だけが、水面の泡のように、ぽつぽつと漂っていた。
赤いリボン。
手を引かれる感触。
誰かの声が、遠くから、ハルトの名を呼んでいる。
(あれは、誰だっけ)
「……思い出せない」
ハルトは、目を開けた。
「襲撃の前の日のことが、ほとんど」
リュネが、無言で頷いた。
ユノの泣き声が、一瞬、止まった。
「ハル」
ユノの声が、かすれた。
「じゃあ、覚えてないの? ミアと、町を歩いたこと」
「ミアと」
「大道芸人の水の球。リュネが、虹を作って」
「リュネが?」
ハルトは、リュネを見た。
リュネは、顔を真っ赤にして、ぷいと逸らした。
「あんた、あの時、一番笑ってたくせに」
「……ごめん。わからない」
「ゴードンさんの手紙は? みんなで読んだのよ」
「手紙」
思い出せなかった。
ただ、「顔を見せろ」という言葉の響きだけが、どこかに残っている気がした。
けれど、それが誰の声だったのかは、わからなかった。
手首に、何かが触れた。
ハルトは、右手を持ち上げて、目を見開いた。
白い、細い組み紐が、巻かれていた。
見覚えはなかった。
けれど、その紐は、とても丁寧に結ばれていた。
「これ……」
ユノが、顔を上げた。
「ミアが、くれたのよ」
「ミアが」
「みんなに、おそろいで。ハルは白。私は赤。リュネは青。カインは」
そこで、ユノは言葉を止めた。
涙が、また溢れた。
「カインは、銀灰色の紐を、ずっとつけてた」
ハルトは、白い紐を、じっと見つめた。
切れたら願いが叶う、と誰かが言った気がする。
大事にしてもいいし、切れても嬉しい、とも。
(誰が、言ったんだろう)
思い出せない。
けれど、胸の奥の空洞に、この紐の重さだけが、静かに落ちた。
(忘れたくなかった)
(のに)
涙が、出なかった。
それが、ひどく、苦しかった。
昼過ぎ、ハルトは、ユノに支えられて、隣の幕舎へ移った。
そこに、マーサが横になっていた。
背中に何重にも包帯を巻かれ、顔色は白かった。けれど、目を開けて、ハルトを見つめた。
「ハルト」
「マーサさん」
「……生きて、いたのね。よかった」
マーサは、弱く微笑んだ。
それから、少しだけ首を巡らせて、周囲を見回した。
「ミアは?」
ユノが、息を呑んだ。
ハルトは、何も言えなかった。
マーサは、二人の顔を見て、全てを悟ったようだった。
「……そう」
小さな声だった。
「あの子が、カインと一緒に」
「マーサさん、ごめんなさい。私たちが、ちゃんと」
「ユノ」
マーサは、ユノの手を、そっと握った。
「謝らなくていい」
「でも」
「カインが連れて行ったなら、守るためよ」
マーサは、天幕の天井を見つめた。
その目は、疲れていたけれど、揺らいではいなかった。
「あの子は、そういう子だから」
「……」
「わたしが倒れて、動けなくなって。それで、きっと」
マーサの声が、掠れた。
「あの子は、昔から、自分より誰かのために、全部決めてしまう子だった。でも、それは、優しさなのよ」
ハルトの胸が、ひりりと痛んだ。
(優しさ)
(それは、わかってる)
(わかってるのに)
どうして、こんなに、遠いのか。
「ハルト」
マーサは、静かに言った。
「ミアを、お願い」
「……はい」
「あの子はね、見てしまったの。きっと。何か、見てはいけないものを」
「見てしまった?」
「ええ。ここに運ばれてきてから、あの子、一言も喋らなかった。わたしの手を握って、ずっと、黙ってた」
マーサの目から、静かに涙が滑り落ちた。
「あんなに、おしゃべりな子が」
ハルトは、白い紐の巻かれた手首を、ぎゅっと握った。
「必ず、迎えに行きます」
その言葉が、自分の口から出たことに、少し驚いた。
けれど、同時に、胸の中心で、何かが、かすかに灯った気がした。
小さな、小さな、銀白色の光だった。
夕暮れの避難所は、赤い光に染まっていた。
幕舎が並ぶ広場を、ハルトは、ゆっくりと歩いた。
焚き火の周りで、人々が肩を寄せ合っている。包帯を巻いた子供。泣き疲れて眠る老人。黙って鍋を見つめる母親。
誰もが、何かを失った顔をしていた。
その輪の端から、囁き声が聞こえてきた。
「……見たか、あの剣士」
「ああ、あの銀灰色の髪の」
「あの力。人間じゃない」
「橋の上で、狼を一瞬で」
「化け物だ」
ハルトの足が、止まった。
「あんなのがいるなんて」
「帝国の手先じゃないのか? あの女の子を連れて行ったって」
「やっぱり、そうなんだ」
囁きは、波のように広がっていく。
誰かが、焚き火に薪をくべた。
炎が、ぱちりと音を立てた。
(化け物)
その言葉が、耳の奥で、何度も反響した。
雪の夜。
血の散った白。
後ずさる、子供たちの輪。
あの時、半歩下がった自分の足。
(違う)
ハルトは、胸の中で呟いた。
(カインは、化け物じゃない)
けれど、声は出なかった。
出そうとしても、喉の奥で、凍りついたように動かない。
ただ、胸の空洞の奥で、ほんの小さな熱だけが、確かに揺れた。
怒りだった。
ひどく遠くて、薄い怒り。
それでも、確かに、そこにあった。
ハルトは、白い紐の巻かれた手首を、強く握りしめた。
その時、広場の端に、青い外套が見えた。
セラだった。
崩れた石壁の影に、一人、座り込んでいる。
膝の上に、鞘に収めた細身の長剣を載せて、じっと見つめていた。
その背中は、いつもの凛とした姿ではなかった。
肩が落ち、頭が深く垂れている。
左手が、剣の柄を握りしめたまま、震えていた。
ハルトは、足を止めた。
(セラさん)
声をかけようとして、やめた。
夕日が、彼女の青い外套を、赤く染めていた。
遠くで、鐘が一つ、鳴った。
それは、町の鎮魂を告げる鐘だった。
ハルトは、風に吹かれる白い紐を見つめながら、静かに、息を吸った。
(失ったものは、数えきれない)
(でも、まだ、全部じゃない)
胸の奥の銀白色の光が、かすかに、瞬いた。




