第27話 雪の夜の約束
暗い水の底に、沈んでいた。
息は苦しくなかった。冷たくも、熱くもない。ただ、ゆっくりと、深いほうへ落ちていく。
遠くで、誰かが呼んでいる気がした。
けれど、声は水に溶けて、言葉にならなかった。
(……カイン)
呼ぼうとして、唇が動かなかった。
代わりに、水面のほうから、ひとつの景色が降りてきた。
雨の匂いがした。
ハルトが四つの時だった。
夜の雨が、孤児院の門を叩いていた。
濡れた石畳。軒先から垂れる水の筋。ランタンの黄色い灯りが、水たまりの上でぼやけて揺れている。
ハルトは、姉の手を握りしめていた。
「ユノ姉」
「大丈夫」
七つのユノは、前を向いたまま答えた。
小さな手が、ぎゅっと握り返してくる。その手は、ハルトのものよりずっと冷たかった。
二人の後ろに、女の人が立っていた。
フードを深く被っていて、顔は影に隠れて見えなかった。長い外套の裾が、雨を吸って重たげに垂れている。
女の人は、門の中から出てきた院長に、何か短い言葉を告げた。
院長は、黙って頷いた。
それから、女の人は、その場にしゃがんだ。
ユノの首に、小さな布の飾りを掛ける。
「これは、あなたのもの」
優しい声だった。
雨の音の向こうから聞こえてくるのに、不思議と、ひどくはっきり耳に届いた。
「ふたりで、半分こ、ね」
ユノが、こくりと頷いた。
「ハルを、お願いね」
「……うん」
「いい子」
女の人の手が、ユノの頬を撫でた。
それから、ハルトのほうを向いた。
冷たい指が、ハルトの額に触れた。
何かを言おうとして、唇が動いた。
けれど、声にならなかった。
代わりに、小さな歌が、雨の中に零れた。
ねむれ ねむれ 星の底
土のゆりかご 風の唄
ハルトは、その歌を、知っている気がした。
けれど、思い出す前に、女の人は立ち上がった。
「ごめんなさい」
誰に言ったのか、わからなかった。
女の人は、背を向けて、雨の中へ歩き出した。
闇に溶けるまで、一度も振り返らなかった。
「お母さん!」
ハルトは叫んだ。
けれど、ユノの手が、強く、強く握られた。
「泣いちゃだめ」
「やだ、お母さん、やだ」
「泣いたら、あの人が、心配する」
ユノの声は、震えていた。
七つの少女の目から、涙が一粒も落ちていないのが、ハルトには不思議だった。
ただ、握られた手が、痛いほど強かった。
孤児院の寝室は、大きな部屋に寝台が十いくつも並んでいた。
窓の外で、まだ雨が降っている。
ハルトは、あてがわれた寝台の隅で、毛布もかけずに膝を抱えていた。
涙は止まらなかった。
周りの寝台からは、子供たちの寝息が聞こえる。誰も、ハルトに気づいていない。
ユノは、隣の寝台で、背を向けて横になっていた。
肩が、小さく震えている。
ハルトは、声を殺して泣いた。
その時、ばさりと、何かが肩にかけられた。
灰色の毛布だった。
使い古されて、端がほつれている。けれど、温かかった。
顔を上げると、そこに、見知らぬ男の子が立っていた。
ハルトより、少し背が高い。銀灰色の髪。切れ長の目。
「寒いだろ」
静かな声だった。
「……あなたの、毛布」
「俺は、寒くないから」
男の子は、そう言って、ハルトの隣に腰を下ろした。
何も訊かなかった。
泣くな、とも、言わなかった。
ただ、隣に座っていた。
しばらくして、ハルトは、しゃくり上げながら尋ねた。
「……名前」
「ん?」
「名前、なに」
「カイン」
男の子は、自分の手首に巻かれた古い布を、指でなぞった。
「ここに来た時、巻いてたんだ。文字が書いてあって、院長が、読める所だけ拾って、『カイン』って」
「本当の、名前?」
「わからない。違うかもしれない」
カインは、少しだけ笑った。
「でも、いいんだ。俺は、これで」
「……ハルト」
「ハルト」
「みんな、ハルって呼ぶ。お母さんも」
そこまで言って、また涙が溢れた。
カインは、ハルトの頭に、そっと手を置いた。
「じゃあ、ハル」
「……うん」
「ここに来たんなら、俺が兄ちゃんだ」
「兄ちゃん」
「そう。わからないことがあったら、俺に訊け」
カインは、ほんの少しだけ、得意げに胸を張った。
その背中が、ハルトには、とても大きく見えた。
向こうの寝台で、ユノの肩の震えが、少しだけ収まっていた。
夢の中の景色が、ゆっくりと変わった。
雨の匂いが消え、乾いた冷たい空気が頬を撫でる。
窓の外に、白いものが舞っていた。
雪だった。
ハルトは、五つになっていた。
その冬、孤児院にはひどく雪が降った。
薪が足りず、子供たちは身を寄せ合って過ごした。食事の量も減った。パンは、年上の子から順に配られ、小さい子の分は、いつも後回しになった。
「おい、そこのチビ」
薪小屋の裏で、ハルトは、三人の年上の少年に囲まれていた。
十か十一くらいの、体の大きな子たちだった。
「そのパン、よこせ」
「やだ」
「いいから、よこせって」
「これは、ユノ姉が、半分こしてくれたやつだ」
「知るかよ」
少年の拳が、ハルトの頬を打った。
視界が、ぐらりと揺れる。
地面に倒れたハルトの手から、パンの欠片が転がっていった。
「やめろ」
低い声がした。
雪の中を、八つのカインが、歩いてきた。
灰色の外套の裾に、雪が積もっている。表情は、いつものように静かだった。
「ハルを、いじめるな」
「あぁ? 拾われっ子が、何を」
少年の一人が、カインの襟を掴んだ。
「お前、名前も本物かわからねえんだろ。よそ者のくせに、偉そうに」
「……」
「だんまりか。気味の悪い目をしやがって」
次の瞬間。
少年の手から、何かが閃いた。
薪割り用の、小さな鉈だった。
最初は、脅すだけのつもりだったのかもしれない。
けれど、振り上げた手が滑った。
刃が、カインの腕を、深く裂いた。
「あっ」
少年の顔から、血の気が引いた。
雪の上に、赤いものが、ぱっと散った。
ハルトは、悲鳴をあげた。
けれど、次に見た光景に、声が出なくなった。
カインの腕の傷が、閉じていた。
血が止まり、裂けた皮膚が、ゆっくりと寄り添って、塞がっていく。
数えるほどの間に、そこには、薄い赤い線が残っているだけだった。
雪の降る音が、聞こえそうなほど、静かになった。
「ば……」
鉈を持った少年の唇が、震えた。
「ば、化け物!!」
悲鳴のような叫びだった。
鉈が、雪の上に落ちる。
三人の少年は、後ずさり、転びそうになりながら、逃げていった。
後に残ったのは、雪と、カインと、ハルトだけだった。
いや、違った。
物音を聞きつけて、他の子供たちが、集まってきていた。
窓から顔を出す子。扉の影から覗く子。
その誰もが、遠巻きに、カインを見ていた。
「あれ……」
「さっきの、血」
「治ってた」
囁きが、波のように広がっていく。
誰かが、一歩、後ずさった。
また一人。
その輪が、じわじわと、カインを中心に広がっていった。
カインは、自分の腕を見下ろしていた。
表情が、なかった。
ハルトは、動けなかった。
(こわい)
その言葉が、頭の中で鳴った。
胸が、ばくばくと音を立てている。
目の前の兄ちゃんが、さっきまでと、同じ人に見えなかった。
だから。
ハルトの足が、無意識に、半歩、下がった。
ほんの、半歩だった。
カインの目が、ハルトを見た。
その目は、いつもの灰色だった。
怒ってもいなかった。
責めてもいなかった。
ただ、見ていた。
ハルトは、その視線を、今でも覚えている。
覚えているのに、夢の外では、ずっと思い出さないようにしていたのだと、気づいた。
(あの時、俺は)
(カインを、怖がった)
「カイン」
凛とした声が、雪の中に響いた。
人の輪をかき分けて、小さな人影が、まっすぐに歩いてきた。
ユノだった。
八つのユノは、誰の目も気にせず、カインの前に立った。
そして、迷わずに、その体を抱きしめた。
「ユノ」
「カインは、カインよ」
きっぱりとした声だった。
「怖くない。カインは、カインだもの」
「でも、傷が」
「治るなら、よかったじゃない」
ユノは、カインの背中を、ぎゅっと抱いた。
「痛かったでしょ」
カインの肩が、びくりと揺れた。
それから、ゆっくりと、力が抜けていった。
ハルトは、その光景を、立ち尽くして見ていた。
(俺は、後ずさったのに)
(ユノ姉は、前に出た)
胸が、ひどく痛かった。
その夜、カインは、寝室にいなかった。
ハルトは、毛布の中で目を覚まして、隣の寝台が空なのに気づいた。
「ユノ姉」
小声で呼ぶと、ユノはすでに起きていた。
「行こう」
「どこに」
「カインのとこ」
二人は、毛布を抱えて、こっそり外に出た。
雪はやんでいた。
空に、冴え冴えとした月が浮かんでいる。
孤児院の裏手の、小さな薪小屋の脇に、カインはいた。
薄い寝間着一枚で、雪の上に座り込んでいる。
吐く息が、ほとんど白くならなかった。
「カイン」
ユノが、毛布を肩にかけようとした。
「いらない」
「でも」
「寒くないんだ」
カインは、膝を抱えたまま、静かに言った。
「俺は、変なんだ。寒くない。傷も、すぐ治る。他の子と違う」
「うん」
「みんなが、怖がる」
「怖くない」
「怖がるよ」
カインは、ゆっくりと、顔を上げた。
月の光が、その横顔を白く照らしていた。
「ハルも、さっき、下がった」
ハルトの喉が、ひゅっと鳴った。
「ご、ごめん」
涙が、一気に溢れ出した。
「ごめん、カイン。ごめんなさい。俺、びっくりして、足が、勝手に」
「いい」
カインは、首を振った。
「当たり前だ。誰だって、そうなる」
「でも」
「いいんだ。責めてない」
カインは、ハルトを見て、静かに笑った。
その笑顔は、八つの子供のものとは思えないほど、穏やかだった。
「ただ、俺は、決めた」
「決めた?」
「お前たちを、怖がらせない」
カインは、はっきりと言った。
「俺が普通にしてれば、怖くないだろ。痛くても、笑う。傷が治っても、驚かせないように、隠す。ちゃんと、普通の兄ちゃんでいる」
「そんなの」
ユノが、眉をひそめた。
「普通のふりなんて、しなくていいわよ」
「ふりじゃない」
カインは、首を振った。
「そうしたいんだ。お前たちが笑っててくれるなら、俺は、それでいい」
ユノは、唇を結んだ。
何か言おうとして、言葉が見つからないようだった。
ハルトは、涙を拭いて、立ち上がった。
「じゃあ、俺が追いつく」
「ハル?」
「カインに、追いつく。強くなって、カインの隣に立つ」
声が、震えていた。
けれど、目は、逸らさなかった。
「カインが痛い時、俺も痛くなる。そしたら、半分こになる」
「半分こ?」
「ユノ姉が、いつもやってる。痛いのも、半分こにしたら、軽くなるでしょ」
カインは、目を見開いた。
ユノが、ふっと笑った。
「そうね。痛いのも、半分こ」
「ユノ」
「だから、ひとりで隠さないで。……って、言っても、カインは隠すんでしょうけど」
ユノは、カインの隣に腰を下ろした。
「でも、隠してもいい。私とハルは、ちゃんと見てるから」
その言葉に、カインの肩が、静かに震えた。
それから、ゆっくりと、両手で顔を覆った。
「……ありがとう」
小さな、小さな声だった。
ハルトは、毛布をカインの肩にかけて、その隣に座った。
三人で、一枚の毛布に潜り込んだ。
月が、雪原を青く染めていた。
「約束だ」
カインが、顔を上げて、言った。
「俺は、お前たちを怖がらせない」
「うん」
「だから、お前たちは」
「うん」
「ずっと、俺の弟と、姉でいてくれ」
「うん!」
ハルトは、何度も頷いた。
ユノも、泣き笑いで頷いた。
しばらくして、足音が近づいてきた。
ランタンの灯りが、雪を照らした。
「……こんなところで、何してる」
ぶっきらぼうな声だった。
守備兵の、まだ髭の黒いゴードンが、立っていた。
三人は、びくりと身を縮めた。
ゴードンは、しばらく、黙っていた。
それから、ふうっと息を吐いて、自分の外套を脱いだ。
それを、カインの肩にかける。
「風邪をひく」
「……俺は、寒くないです」
「寒くなくても、着ておけ」
ゴードンは、乱暴にカインの頭を撫でた。
「ガキは、笑っていればいいんだ。笑えない夜は、誰かにもたれろ」
「ゴードンさん」
「ほら、帰るぞ。パンがある」
ゴードンは、眠そうなハルトを軽々と抱え上げた。
ハルトは、その肩の上で、ぼんやりとカインの背中を見ていた。
灰色の外套の下の、小さな背中。
(この背中に、追いつくんだ)
そう思った。
(絶対に)
水の底に、戻っていた。
さっきまでの景色は、遠ざかっていた。
ただ、手首に残る温もりだけが、まだ消えていない。
ハルトは、顔を上げた。
水面の向こうに、光があった。
その光の中を、一人の青年が、背を向けて歩いていく。
銀灰色の髪。
灰色の外套。
大剣を背負った背中。
(カイン)
呼んだ。
けれど、声は水に消えた。
背中は、どんどん遠ざかっていく。
(待って)
(追いつくって、言ったのに)
(約束、したのに)
手を伸ばした。
指先が、水を掻いた。
遠くで、小さな声が、聞こえた。
――ごめんな、ハル。
その声は、あの日の雪の夜と、同じ穏やかさだった。
だからこそ、ハルトは、泣いた。
届かなかった。
また、届かなかった。
光が、ゆっくりと、遠ざかっていく。
ハルトは、水の底で、ひとり、手を伸ばし続けていた。




