第26話 届かなかった手
ぱしっ、と乾いた音がした。
ハルトは、その音を、橋の上で聞いた。
ユノの手が、カインの手を、弾いていた。
誰かに命じられたような動きではなかった。
考えて、振り払ったのでもなかった。
ただ、体が先に動いたのだ。
怖いものが近づいてきた時、人が、反射で身を引くように。
ユノ自身が、いちばん驚いた顔をしていた。
「あ……」
唇が、震えた。
「ちが、違うの、カイン。今のは」
カインは、弾かれた手を、宙に浮かせたまま止まっていた。
灰色のひびが走った指先が、わずかに開いている。
金色の瞳が、ユノを見ていた。
怒ってはいなかった。
傷ついた顔でも、なかった。
ただ、ひどく静かな目だった。
「……そうか」
低く、掠れた声だった。
「怖いよな」
「違う、違うの。カイン、聞いて」
「いいんだ」
カインは、ゆっくりと手を引いた。
自分の掌を、見下ろす。
ひび割れた皮膚の隙間から、金色の光が、まだ微かに漏れていた。
「俺でも、怖い」
その言葉が、ハルトの胸の奥に、冷たく刺さった。
ハルトは、走った。
狼の群れは、もういなかった。
石の槍に貫かれた死骸だけが、橋の上に累々と横たわっている。その上を、血と砂埃が、風に煽られて舞っていた。
「ユノ姉! カイン!」
声が、割れていた。
ユノは、石畳に座り込んだまま、顔を覆っていた。
肩の傷は塞がっている。けれど、肩を抱く手が、小刻みに震えていた。
カインは、その傍らに立っていた。
背中を向けている。
外套の背に、灰色のひびが、うっすらと透けていた。
「カイン」
ハルトは、その背中に呼びかけた。
カインは、ゆっくりと振り向いた。
金色の瞳が、ハルトを映した。
「ハル」
声は、穏やかだった。
いつもの、あの穏やかさだった。
だからこそ、ハルトは、ぞっとした。
「ユノは、無事だ。傷も塞がってる」
「うん」
「ミアたちは、向こう岸にいる。マーサさんも、兵士たちに預けた」
「うん」
「あとは、撤退を」
そこまで言って、カインの膝が、がくりと折れた。
「カイン!!」
ハルトは、倒れかけた体を、両腕で受け止めた。
重かった。
石を抱いているような重さだった。
「カイン、しっかり! カイン!」
「……問題、ない」
「問題ないわけないだろ!」
カインの首筋に、灰色のひびが、ぞわりと広がっていく。
頬。耳の裏。額。
石の模様が、じわじわと、顔を侵食していく。
金色の光が、ひびの奥で、明滅していた。
それは、美しいというより、痛々しかった。
(全部、背負ってる)
(ユノ姉の傷の分も、群れを倒した分も、全部)
そう思った瞬間、ハルトの胸の奥が、かっと熱くなった。
(嫌だ)
(カインだけが、痛いのは)
声にならない叫びが、体の底から込み上げてきた。
(半分こにしたい)
(カインが持っている分を、ほんの少しでいいから、分けてほしい)
その想いが、胸の中で形を結んだ時。
何かが、ぱきん、と割れた。
最初に感じたのは、熱だった。
胸の真ん中から、光が溢れ出した。
赤い光だった。
火の基本紋が、ハルトの体から弾き出されていく。
赤い火の粉が、ふわりと宙に舞った。
それは、ハルトがずっと使ってきた炎の色だった。
薄い刃の上の炎。
塔で教わった、あの手順の、炎。
その光が、夜空へ、静かに散っていく。
(……あ)
喪失感が、胸を貫いた。
けれど、その空いた場所に、別の光が流れ込んできた。
淡い、銀白色の光だった。
温かくて、静かで、どこまでも広がっていくような光。
次の瞬間、ハルトの視界に、無数の糸が見えた。
細く、光る糸だった。
自分の胸から伸びて、カインの胸に、繋がっている。
ユノにも。
遠くのリュネにも。
橋の向こうの、ミアにも。
(……見える)
誰が、どこで、どれくらい痛いのか。
どれくらい、重いのか。
それが、糸を伝って、ハルトの胸に流れ込んでくる。
「ハルト……?」
リュネの声が、背後で震えた。
「あの光、何? 基本紋じゃない。構造式にない。あんな、もの」
ハルトは、聞いていなかった。
ただ、カインの腕を、握りしめていた。
「カイン。……半分、貸して」
「ハル、何を」
「半分こ」
ハルトは、カインの目を見て、言った。
「半分こ、だよ」
銀白の光が、糸を伝って、カインへ流れた。
そして、カインから、ハルトへと、逆流した。
最初に変わったのは、カインの顔だった。
灰色のひびが、潮が引くように、引いていった。
頬から。
額から。
首筋から。
金色の光が、淡く薄れていく。
瞳が、元の灰色に戻る。
カインは、何が起きたのか分からない顔で、ハルトを見ていた。
「ハル、お前」
「……大丈夫」
ハルトは、笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
自分の腕に、目を落とした。
右腕の袖口から、灰色が、ゆっくりと這い上がっていた。
指先から、手首へ。
肘へ。
石のような質感が、皮膚の下に広がっていく。
(痛い、はず、なのに)
不思議だった。
痛みが、遠かった。
誰か別の人の腕の痛みを、薄い壁越しに聞いているような感覚だった。
(あ、これ)
(感覚が、薄れていくんだ)
「ハル! やめろ、離せ!」
カインが、ハルトの手を振り払おうとした。
けれど、ハルトは、手を離さなかった。
「やだ」
「ハル!」
「やだ。……半分こ、って言った」
ハルトの声は、子供みたいに、頼りなかった。
視界の端が、白く滲みはじめていた。
膝から、力が抜けていく。
「ユノ、姉」
「ハルト!?」
ユノの悲鳴が、遠くで聞こえた。
「ハルト、ハルト! しっかりして!」
「ごめん、大丈夫、ちょっと、眠いだけ」
自分の声が、水の底から聞こえるようだった。
世界の輪郭が、ゆっくりと、溶けていく。
最後に見えたのは、カインの顔だった。
灰色に戻った瞳が、ハルトを映していた。
その目から、一筋、何かが、頬を伝って落ちた。
涙だった。
(カイン、泣いてる)
どうして。
そう思ったけれど、尋ねる力は、もう残っていなかった。
カインの唇が、小さく動いた。
「……ごめんな、ハル」
それが、ハルトが聞いた、最後の声だった。
闇が、静かに、降りてきた。




