第25話 撤退路
西門への道は、地獄だった。
石畳の通りは、逃げる人々で埋まっていた。荷物を捨てて走る者。倒れた老人を引きずる者。泣き叫ぶ子供。その流れの外側を、狼の群れが、並走するように駆けていく。
ハルトは、盾を構えたまま、最後尾に近い場所を走っていた。
左腕は、完全に感覚がなかった。
盾は、紐で腕に縛りつけている。持ち上げることはできる。ただ、受けた衝撃が、骨の芯まで響いても、痛みとして届かない。
(それが、かえって怖い)
そう思いながら、前を見た。
少し先を、カインが走っていた。
マーサを背負っている。血で濡れた背中が、カインの外套に染みていた。
その隣を、ミアが、必死に走っている。小さな手が、カインの外套の裾を握りしめて離さない。
ハルトは、その背中に、声をかけられなかった。
(さっきの、あの手)
(梁の下を見た目)
何度打ち消しても、同じ光景が、瞼の裏に蘇る。
「ハルト、前!」
リュネの声が、現実に引き戻した。
脇の路地から、猪が一頭、飛び出してきた。
盾で受ける。
衝撃で、足が滑った。
「ちっ」
リュネが、杖を振った。
足元の石畳が、薄い氷で覆われた。猪の脚が、ぬるりと滑って、横倒しになる。
そこへ、ユノの矢が、眼窩に突き刺さった。
「ありがとう!」
「礼はいいから、足を止めないで! あと少しよ!」
ユノが、背中の矢筒に手を伸ばした。
指先が、空を掴んだ。
「……矢が、もうない」
通りの先に、石造りの橋が見えてきた。
運河を跨ぐ、幅の狭い橋だった。西門までは、この橋を渡るしかない。
橋の前で、兵士たちが、避難民を一人ずつ誘導していた。
「落ち着いて! 一列で渡れ! 押すな!」
その後ろに、黒い影が迫っていた。
灰色の群れ。数は、数えきれない。
ハルトは、足を止めた。
「ここで、食い止める」
「ハルト」
「俺たちが殿を。みんなが渡るまで」
カインが、振り返った。
「ハル、お前は」
「俺が、やる」
ハルトは、カインの目を見ずに言った。
「カインは、マーサさんとミアを連れて、先に」
「……」
一瞬の沈黙があった。
それから、カインは、短く頷いた。
「わかった。すぐに戻る」
「戻ってこなくていい」
言ってしまってから、ハルトは唇を噛んだ。
カインの背中が、ほんの少しだけ、こわばった。
けれど、振り向かずに、橋のほうへ走っていった。
(……ごめん)
心の中で呟いて、ハルトは盾を構え直した。
橋の入口に、防陣が築かれた。
ハルトを中心に、兵士が十人ほど。ユノとリュネが、その後ろに。
狼の第一陣が、突っ込んできた。
盾で受け止め、兵士の槍が横から貫く。
二陣、三陣。
ハルトの膝が、がくがくと震えた。
左腕は動かない。右腕の握力も、もう限界に近かった。
「ハルト、後ろ!」
ユノの声が、響いた。
見ると、橋の中ほどで、誰かが転んでいた。
小さな男の子だった。
先ほど、避難民の列から押し出されたのか、石畳に倒れて、泣き叫んでいる。
その背後から、狼が一頭、牙を剥いて迫っていた。
ユノが、走った。
「ユノ姉!」
「あの子を、助ける!」
「ダメだ、戻れ!」
けれど、ユノは、振り向かなかった。
矢のない短弓を捨て、短杖を握りしめて、橋の上を駆けていく。
男の子と狼の間に、体を滑り込ませた。
風が、爆ぜた。
短杖から放たれた風の刃が、狼の顔面を打ち据える。
獣が、悲鳴をあげて怯んだ。
「今のうちに、行きなさい!」
男の子が、這うようにして、橋を渡っていく。
ユノは、ほっと息をついて、振り返った。
その瞬間。
橋の欄干の陰から、別の影が、跳びかかった。
ハルトは、見た。
ユノの肩に、灰色の牙が食い込んだ。
血が、飛んだ。
ユノの体が、橋の石畳に叩きつけられる。
悲鳴は、聞こえなかった。
ただ、短杖が、からん、と転がる音だけが、妙に大きく響いた。
「ユノ姉!!」
ハルトは、走ろうとした。
けれど、足が止まった。
目の前の群れが、ハルトたちの防陣に、一斉に殺到したのだ。
盾に、衝撃が連続して叩きつけられる。
膝が崩れた。
「くそっ、どけ!」
剣を振り回す。
けれど、狼の牙が、肩の革を引き裂いた。
「ハルト!」
リュネの氷が、狼の脚を縫いとめる。
その隙に、ハルトは、一歩、また一歩と橋の中央へ進んだ。
けれど、遠かった。
ユノのいる場所が、果てしなく、遠かった。
橋の中ほどで、ユノは、狼の下敷きになっていた。
片手で、獣の喉を押さえている。もう片方の手は、肩から血を流して動かない。
(どうして)
(どうして、ユノ姉が)
涙で、視界が霞んだ。
その時。
橋の向こう岸から、声が聞こえた。
「ユノ!!」
それは、悲鳴に近かった。
ハルトは、顔を上げた。
橋の対岸に、カインが立っていた。
マーサを兵士に預けたのか、背中には、もう誰もいない。
大剣を、握っていた。
その目が、ユノを見ていた。
ハルトは、今まで、あんなカインの顔を、見たことがなかった。
表情が、なかった。
怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、すべてが、削げ落ちたような顔だった。
「……もう」
カインの唇が、小さく動いた。
「もう、誰も、失わない」
その声は、ハルトの耳に、はっきりと届いた。
次の瞬間、世界が、息を止めた。
音が、消えた。
風も、炎も、獣の唸りも、悲鳴も。
すべてが、遠ざかった。
カインの足元から、光が溢れ出した。
金色だった。
淡く、けれど、底知れない深さを持った、金色の光だった。
それが、カインの全身を、ゆっくりと包んでいく。
(……なんだ、あれ)
ハルトは、動けなかった。
カインの胸から、何かが、弾き出された。
茶色い光の粒だった。
それは、カインの体から離れて、宙に舞い、静かに、空へ散っていった。
「……紋が」
リュネの声が、背後で震えた。
「基本紋が、弾かれた」
カインの瞳が、変わっていた。
灰色だった目が、金色に染まっている。
瞳孔の周りに、細い紋様が、幾重にも広がっていた。
それは、人の目ではなかった。
もっと、遠い何かを、映す目だった。
「カイン……?」
ハルトは、呼んだ。
けれど、届かなかった。
カインは、一歩、橋に踏み出した。
その足が、石畳に触れた瞬間。
地面が、鳴動した。
橋の下の運河が、ざわりと波立つ。
石畳の隙間から、金色の線が、蜘蛛の巣のように走った。
線は、橋の全体に広がり、そして、狼の群れの足元に到達した。
次の瞬間。
地面が、せり上がった。
無数の石の槍が、同時に、突き上がった。
橋の上の狼が、貫かれた。
欄干の陰に潜んでいた獣も、運河の向こうの群れも。
一瞬で、数十頭が、串刺しになった。
悲鳴すら、上げる間がなかった。
その中心を、カインは、歩いていた。
大剣は、ただ、右手に提げているだけだった。
ユノの上にのしかかっていた狼が、顔を上げた。
その目が、カインを見た。
獣の本能が、何かを察したのかもしれない。
後ずさろうとした、その足元から、石の鎖が生えて、四肢を絡めた。
ぱきん。
乾いた音がして、狼は、石像になった。
それから、粉々に砕け散った。
橋の向こうから、巨獣が現れた。
岩と骨の鎧を纏った、象のような影。
青白い目が、カインを見下ろした。
カインも、それを見上げた。
次の瞬間、巨獣の足元の地面が、液体のように波打った。
巨体が、ずぶりと沈む。
沈んだ地面が、固まる。
石の棺が、巨獣を丸ごと閉じ込めた。
内側から、衝撃音が響いた。
どん、どん、どん。
けれど、石は、びくともしなかった。
やがて、音は止んだ。
棺は、ゆっくりと、砂になって崩れていった。
静寂が、橋を包んだ。
ハルトは、息を吸うことさえ、忘れていた。
橋の上に、立っているのは、カインだけだった。
その全身に、灰色のひびが走っていた。
腕、首筋、頬。
石のような模様が、血管のように、肌の上を這っている。
金色の光が、その隙間から、漏れていた。
「カイン……!」
ハルトは、ようやく、声を絞り出した。
「カイン、もう、いい! もうやめろ!」
けれど、カインは、聞いていなかった。
ゆっくりと、ユノのそばに、膝をついた。
ユノは、石畳に倒れたまま、荒い息をしていた。
肩の傷は、深かった。
けれど、カインが、その傷口に手をかざした時、金色の光が、柔らかく溢れた。
傷が、みるみる塞がっていく。
血が止まり、皮膚が、再生する。
まるで、時間が逆戻りしているかのようだった。
その代わり、カインの腕の灰色が、肩のほうへ、一気に広がった。
痛みの代償を、カインが、全部、引き受けている。
ハルトは、それを、直感で理解した。
(全部、カインに)
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「ユノ」
カインの声は、静かだった。
どこか、遠くから響いてくるような、不思議な響きがあった。
「もう、大丈夫だ」
ユノの瞼が、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳が、カインを映した。
金色の目。
灰色のひびが走った肌。
人の形をした、けれど、人ではない何か。
「……カイン?」
「ああ。俺だ」
カインは、微笑んだ。
そして、そっと、手を伸ばした。
ユノの頬に、触れようとした。
その手は、灰色にひび割れて、金色の光を漏らしていた。
ユノの瞳が、大きく見開かれた。
瞳の奥に、恐怖が、一瞬、走った。
ハルトは、それを、見てしまった。
(ユノ姉)
(だめだ、やめて)
けれど、声は、出なかった。
カインの指先が、ユノの頬に、あと一寸というところまで、近づいていた。




