第24話 手を離す
「そこを、どけ」
カインの声は、低かった。
瓦礫を取り除こうとしていた兵士たちが、振り向いた。
穀物蔵の入口を塞ぐ梁は、太さが大人の胴ほどあった。何本も折り重なり、その上に、燃え落ちた屋根の板が積もっている。表面から、火の舌がちろちろと這い出していた。
「何をする気だ」
「持ち上げる」
「馬鹿を言え。人間の力で」
「人間の力じゃない」
カインは、それだけ言って、地面に両手をついた。
膝を折り、石畳に掌を押し当てる。
灰色に染まった指先が、石の冷たさに触れた。
「ハル。梁の下に、縄を」
「わかった!」
ハルトは、兵士たちとともに、梁の隙間へ縄を通した。
縄の端を、後ろの兵士たちに握らせる。
「ユノ、リュネ。上から火が落ちてくる。それを頼む」
「任せて」
「わかった。水で屋根の縁を濡らす」
二人の声が、背後で重なった。
カインは、目を閉じた。
唇が、小さく動いた。
何かを唱えているのか、ただ息を整えているのか、ハルトにはわからなかった。
地面が、低く唸った。
石畳の隙間から、土が染み出す。
土は、梁の下に潜り込み、ゆっくりと、持ち上がった。
ぎ、ぎ、ぎ。
太い梁が、軋みながら傾く。
その下に、人ひとりが這えるほどの、細い隙間が生まれた。
「……っ、長くは、持たない」
カインの額に、汗が滴っていた。
唇の色が、紙のように白い。
「一人ずつ、這わせろ。小さい者から」
隙間の奥は、暗かった。
煙の匂いと、人の泣き声が、ごった煮のように溢れてくる。
ハルトは、這いつくばって、腕を差し入れた。
「誰か、いますか! 手を!」
小さな手が、暗がりから伸びてきた。
赤いリボンが、ちらりと見えた。
「ミア!」
「ハル兄!」
ハルトは、その手を掴んだ。
細い体を、引きずり出す。
ミアは、煤で顔を真っ黒にして、咳き込みながら、ハルトにしがみついた。
「ハル兄、ハル兄、こわかった」
「もう大丈夫。もう、大丈夫だから」
ミアの後ろから、マーサの手が伸びてきた。
「ハルト……」
「マーサさん!」
ハルトは、マーサの腕を引いた。
ふくよかな体が、梁の隙間をくぐり抜けてくる。額から血を流していたが、意識ははっきりしていた。
「ミアを、ありがとう。階段が崩れて、奥の人たちが」
「何人、中に」
「二百人以上。奥の貯蔵庫のほうに、まだ。扉が、歪んで、開かなくなって」
マーサの声が、震えた。
「あたしたちは、一番出口の近くにいたの。それで、隙間が」
「わかりました。他の人も、順番に出します!」
ハルトは、再び、隙間に腕を突っ込んだ。
次に出てきたのは、小さな男の子だった。
それから、腰の曲がった老婆。
それから、若い男。
さらに、赤ん坊を抱いた女。
一人ずつ、這い出してくる。
兵士たちが、彼らを抱えて、安全な場所へ運んだ。
七人目が出てきた時、ハルトは、ふと気づいた。
(……あと、どれくらい)
奥から、まだ、叫び声が聞こえている。
どん。どん。どん。
何かを叩く音。
それは、さっきよりも、弱くなっているように聞こえた。
「カイン、あとどれくらい持つ!」
「……あと、少し」
返事は、掠れていた。
カインの掌が、石畳に沈み込んでいる。
指先の灰色は、手首にまで広がっていた。
額から、一筋の血が流れていた。鼻血だった。
「無理しないで!」
ユノが、叫んだ。
「それ以上は!」
「大丈夫だ。あと、五人は」
「カイン!」
その瞬間。
空気が、変わった。
ハルトの肌が、ぞわりと粟立った。
遠くから、地鳴りが聞こえてきた。
どん、どん、どん。
さっきまで北門で聞いていた、あの足音と、同じ音だった。
「……来た」
リュネが、唇を噛んだ。
「あっちの通りから。群れが、こっちに」
「どのくらい」
「数えられない。たくさん」
兵士の一人が、叫んだ。
「魔物だ! 魔物が来るぞ!」
通りの向こうから、灰色の波が押し寄せてきた。
狼の群れ。猪。そして、その後方に、あの巨獣が見えた。
岩と骨の鎧を纏った、象のような影。
青白い目が、炎の光を映して、冷たく揺れている。
「迎撃! 迎撃用意!」
兵士たちが、一斉に武器を構えた。
ハルトは、盾を握り直した。
(来る。でも、カインは、まだ梁を支えてる)
(カインを守らないと)
けれど、足が、動かなかった。
隙間の奥で、まだ人が叫んでいる。
(どっちを)
最初の狼が、跳んだ。
ユノの矢が、その喉を貫く。
二頭目、三頭目が、兵士の槍に弾き返された。
けれど、数が違った。
後続の群れが、波のように押し寄せてくる。
広場の左右から、獣たちが散開して、避難民たちの塊に襲いかかった。
「きゃああ!」
「こっち来るな!」
悲鳴が、広場を満たした。
ハルトは、盾で一頭を叩き落とした。
けれど、左腕が、もう上がらない。
指先の感覚が、完全になかった。
(カインは)
振り向いた。
カインは、まだ、梁を支えていた。
地面に両手をついたまま、動かない。
その背中に、狼が一頭、迫っていた。
「カイン、後ろ!」
ユノの矢が、狼を貫いた。
けれど、カインは、動かなかった。
顔を上げた。
その目が、広場の端を見ていた。
ハルトも、その視線を追った。
そこに、マーサがいた。
ミアを、胸に抱いたまま、地面に膝をついている。
その目の前に、大きな狼が、牙を剥いていた。
(……っ)
ミアの小さな悲鳴が、風を裂いた。
「カインお兄ちゃん!!」
その瞬間。
カインの目が、わずかに、見開かれた。
ほんの、一瞬だった。
ハルトは、見てしまった。
カインの視線が、梁の下の暗い隙間に、一度だけ、落ちた。
それから、広場の端のミアに、戻った。
(カイン)
そして。
カインは、手を、地面から離した。
ぐおおおおん。
地面が、鳴った。
持ち上げられていた梁が、一気に落ちた。
どすん、と腹に響く音がして、細い隙間が、跡形もなく閉じた。
炎に包まれた瓦礫の山が、そこに、再び出現した。
中から聞こえていた音が、途切れた。
(……え)
ハルトは、動けなかった。
その横を、カインが、風のように駆け抜けた。
大剣を抜く。
一閃。
マーサに襲いかかっていた狼の首が、宙を舞った。
けれど、遅かった。
牙は、すでに、マーサの背中に食い込んでいた。
「マーサさん!」
「お母さん! お母さん!」
ミアの声が、悲鳴に変わった。
マーサの体が、がくりと崩れた。
ミアを庇ったまま、前のめりに倒れていく。
背中から、赤い染みが、見る見る広がった。
カインが、その体を受け止めた。
「マーサさん! しっかり!」
「……カ、イン」
「喋るな」
「ミアは、無事、ね……?」
「無事です。無事です!」
「よかった……」
マーサは、そう呟いて、目を閉じた。
その後の戦いを、ハルトは、あまり覚えていなかった。
ユノが、マーサの傷を風と薬草で押さえた。
リュネが、荒れ狂う魔物の波に、氷の壁を立てた。
兵士たちが、必死に押し返した。
ハルトも、盾で獣を殴り続けた。
気づけば、広場に、ほかの避難民たちの姿は、ほとんどなかった。
誰かが、叫んでいた。
「西門だ! 西門は無事だ! そっちへ逃げろ!」
「撤退しろ! ここは、もう持たん!」
兵士たちが、避難民を誘導して、西へ走っていく。
穀物蔵は、完全に炎に包まれていた。
屋根が、轟音とともに崩落した。
ハルトは、その光景を、呆然と見つめていた。
(あの下に、まだ、二百人以上が)
足が、震えた。
「……カイン」
ハルトは、振り向いた。
カインは、マーサの傍らに膝をついて、背中の傷を押さえていた。
その手は、灰色に染まり、震えていた。
「なんで、離した」
自分の声が、ひどく掠れて聞こえた。
「え?」
「梁を。なんで、離したんだよ」
カインは、顔を上げなかった。
「あれは」
「持ってたじゃないか! あれだけ持ってたのに!」
ハルトは、カインの肩を掴んだ。
「あと五人は出せるって、言ってた! まだ、持てたはずだ!」
「持てなかった」
「持てたよ! さっきまで、ずっと持ってた!」
「ハル」
カインは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、静かだった。
静かすぎるほど、静かだった。
「あのまま持っていたら、全員、死んでた」
「全員?」
「ここにいた全員が。あの群れは、止められない。梁を支えたまま戦えば、誰かが死ぬ。マーサさんも、ミアも」
「でも、中の人たちが!」
「わかってる」
カインの声が、初めて、わずかに揺れた。
「わかってる」
ハルトは、言葉を失った。
「でも、手を離さなければ、目の前で死ぬ人がいた。俺は、それを選んだ」
「選んだ、って」
「そうだ」
カインは、はっきりと言った。
「選んだんだ」
その言葉が、ハルトの胸に、深く突き刺さった。
(やっぱり)
(持てたんだ)
(持てたのに、離したんだ)
そう思った。
けれど、同時に、カインの灰色の手首が目に入った。
震えている。
爪の先まで、石になりかけている。
(本当に、限界だったのかもしれない)
(でも、それなら、あの一瞬の、梁の下を見た目は)
答えは、わからなかった。
ただ、胸の中に、黒いものが、ゆっくりと広がっていく。
「……開けられたはずだ」
ハルトは、呟いた。
「ハル」
「まだ、開けられたはずだ。カインなら」
カインは、何も答えなかった。
その時、足元から、小さな声がした。
「……まだ、いるのに」
ミアだった。
ミアは、マーサの傍らに座り込んだまま、燃える穀物蔵を見つめていた。
大きな目に、炎が映っていた。
涙は、出ていなかった。
「まだ、いるのに。みんな、中に、いるのに」
「ミア」
カインが、声をかけた。
ミアは、ゆっくりと、カインを見た。
その目が、何かを言おうとしていた。
けれど、唇は、固く結ばれたままだった。
ミアは、何も言わずに、顔を伏せた。
その肩が、小さく震えた。
カインは、何かを言いかけて、やめた。
そして、そっと、マーサの体を抱え上げた。
「西門へ。急ぐ」
それだけ言って、背を向けた。
ハルトは、その背中を見つめた。
(あの時)
(カインは、本当に、持てなかったのか)
(それとも)
炎の向こうで、焼け落ちる梁が、最後の音を立てた。
もう、扉を叩く音は、聞こえなかった。




