第23話 順番
城壁の階段を駆け下りた先は、もう、昨日までのベルナではなかった。
石畳の通りに、煙が低く這っている。
商店の軒先は引き裂かれ、荷車が横倒しになり、割れた樽から麦が溢れ出していた。遠くで、炎が建物を舐めている。逃げ惑う人々の悲鳴と、獣の咆哮が、入り混じって聞こえた。
「散らないで!」
ユノが、短杖を掲げて叫ぶ。
「固まって移動する。ハルトが前、私が真ん中、カインが後ろ。リュネは上を見て!」
「了解!」
「見えてる。右の屋根に二匹。降りてくるわ」
リュネが、杖を斜めに構えた。
氷の針が、立て続けに空を裂く。屋根の上で、二つの影が悲鳴をあげて落下した。
ハルトは、盾を前に出して、煙の中を進んだ。
最初の悲鳴は、角を曲がってすぐの場所から聞こえた。
「誰か! 誰か、助けて!」
倒れた荷車の下に、若い母親が、赤ん坊を抱いたまま、足を挟まれていた。
その傍らに、狼が一頭、唸り声をあげている。
(間に合うか)
ハルトは、走った。
盾を斜めに構えて、狼の横腹へ体当たりを叩き込む。
獣が、石畳に転がった。
返す刃で、炎を灯した剣を突き立てた。
右手の指先が、じん、と痺れる。
炎は、一瞬だけ灯って、すぐに消えた。
(……もう、火が出ない)
構わず、剣の腹で狼の頭を叩いた。
獣は、動かなくなった。
「大丈夫ですか!」
「足が、動かなくて」
母親は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
荷車は、大人が三人がかりで持ち上げる重さだった。
その時、後ろから、カインが歩み寄ってきた。
何も言わずに、荷車の縁に手をかけた。
地面から、土が盛り上がる。荷車の脚の下に、小さな土の台座が生まれて、ゆっくりと持ち上げた。
「抜けますか」
「は、はい!」
母親が、足を引き抜いた。
赤ん坊は、泣きながら、しがみついている。
「穀物蔵の地下へ。この通りを南へ三つ。兵士が誘導している」
「ありがとうございます、ありがとう」
母親は、何度も頭を下げて、走り去った。
カインは、もう次の方角を見ていた。
「行くぞ」
「あ、うん」
ハルトは、慌てて追いかけた。
(もう少し、声をかけてあげたかった)
そう思ったけれど、口には出せなかった。
次の通りで、ハルトは足を止めた。
小さなパン屋の前だった。
扉は半分外れ、煙が中から漏れている。けれど、店の奥から、かたん、かたんと、規則的な音が聞こえていた。
「誰か、いる」
ハルトは、店の中を覗いた。
窯の前で、白髪の老人が、一人で黙々と天板を動かしていた。
「おじいさん!」
「ん? ああ、旅の若いの」
老人は、振り向いて、のんびりと笑った。
「悪いな、客はもう店じまいなんだ」
「違います、逃げてください! 魔物が来てます!」
「わかっとる」
老人は、窯の口を見つめたまま答えた。
「ただな。この窯は、三十年、一日も火を落としたことがないんだ。今日だけは、落とすわけにはいかん」
「そんな」
「ここで、パンを焼いておる。逃げる前に、焼きたてを避難所に届けてやらんと」
ハルトは、言葉に詰まった。
その時、背後から、カインの声がした。
「ハル。行くぞ」
「でも、このおじいさんを」
「本人が決めたことだ」
カインの声は、冷たくはなかった。
けれど、迷いもなかった。
「俺たちは、全員の面倒は見られない。選べるのは、本人だけだ」
「そんな言い方」
「事実だ」
ハルトは、唇を噛んだ。
カインの言うことは、間違っていない。
だからこそ、胸が苦しかった。
その時、ユノが、そっと店の中に入ってきた。
「おじいさん。そのパン、一つ、いただけますか?」
「ん? まだ焼けとらんが」
「焼き上がるまで、待たせてください」
「……はあ?」
「私、おなかが空いているんです。このパンを食べるまで、ここから動けません」
ユノは、にっこり笑った。
「だから、おじいさんが焼き終わるまで、ここで見張ります。魔物が来たら、私の仲間が追い払います」
老人は、目を丸くした。
それから、くつくつと喉の奥で笑った。
「面白い嬢ちゃんだ」
「いえ、本気です」
「そうかい」
老人は、窯の口を覗き込み、取っ手を引いた。
湯気を上げる丸いパンが、天板の上でふっくらと膨らんでいた。
「じゃあ、持っていくといい。避難所の子供たちが、腹を空かせとるはずだ」
「ありがとう。一緒に行きましょう」
「いや、わしは」
「パンを持っていく人がいなくなったら、困ります」
ユノは、にこりと笑ったまま、老人の腕に手を添えた。
老人は、しばらく黙っていたが、やがて、ふうっと息を吐いた。
「……負けた」
火を落とし、パンを布に包んで、腕に抱えた。
「行こうか」
ユノは、ハルトを振り向いて、小さく片目をつぶった。
ハルトは、胸が熱くなった。
(ユノ姉は、本当にすごい)
カインは、ほんの少しだけ目を細めて、その様子を見ていた。
「……時間を食ったな」
「でも」
「ああ。誰も、死ななかった」
カインは、短く言って、先頭に立った。
三つ目の路地で、泣き声が聞こえた。
「おかあさん! おかあさあん!」
細く、高い声だった。
ハルトは、足を止めた。
声は、右手の細い路地の奥から響いていた。
煙が濃い。炎が、両側の建物の窓から噴き出している。路地の入口は、燃え落ちた梁が斜めに塞いでいた。
「子供の声だ」
「ハル、待て」
カインの手が、ハルトの肩を掴んだ。
「あの路地は、崩れる」
「でも、あそこに子供が」
「崩れる前に、出られる保証はない」
「保証なんて、いらない!」
ハルトは、カインの手を振り払った。
「助けられるかもしれないのに、見殺しにはできない」
「ハル」
「行く」
ハルトは、盾を構えて、梁の隙間をくぐった。
熱気が、顔を叩く。
息が、焼ける。
路地の奥で、小さな男の子が、壁際にうずくまっていた。
「大丈夫、助けに来たよ!」
「うえええん」
「おいで、お兄ちゃんが連れてくから!」
男の子を抱え上げた時、頭上で、嫌な軋みが聞こえた。
見上げると、燃え盛る梁が、ゆっくりと傾いている。
(まずい)
出口まで、十歩。
間に合わない。
その時だった。
「三十数える間だ! 出ろ!」
カインの声が、路地の入口から響いた。
次の瞬間、地面から、巨大な土の柱が突き上がった。
傾く梁を、真下から受け止める。
土の柱は、軋みながら、梁の重さに耐えた。
ハルトは、男の子を抱いたまま、全力で走った。
背後で、梁が崩れ落ちる音がした。
路地の入口を、転がり出る。
直後、路地が、轟音とともに潰れた。
「……っ、はあっ、はあっ」
ハルトは、石畳に膝をついた。
腕の中の男の子は、泣きじゃくりながら、しがみついている。
「ハル」
カインが、そこに立っていた。
顔が、青白かった。
額に、汗が浮いている。
左手を、右手で握りしめていた。
「カイン、手」
「何でもない」
「でも」
ハルトは、カインの左手を、無理やり引き寄せた。
指先が、灰色に染まっていた。
ほんの数本。爪の先から、第二関節あたりまで。石のような、鈍い灰色だった。
「これ」
「すぐに戻る」
カインは、手を振りほどいた。
そして、静かに言った。
「ハル。聞け」
「……うん」
「お前が、助けたいと思う気持ちは、間違ってない」
カインの声は、低かった。
「でも、俺たちは、全員を助けられない。どこかで、順番を決めなければならない」
「順番?」
「誰を先に助けるか。誰を後にするか。誰を、諦めるか」
ハルトは、息をのんだ。
「決めたくない」
「決めないと、全員が死ぬ」
「そんなの」
「ハル」
カインの目は、まっすぐだった。
優しくて、苦しそうだった。
「決められる人間が、決めなければならない。決められない人間の分まで」
その言葉は、ハルトの胸に、鉛のように沈んだ。
(それは、カインが、いつも一人でやってきたことだ)
(俺の分も、ユノ姉の分も、全部)
「……俺は」
ハルトは、唇を噛んだ。
「決めたくない。みんなで考えたい」
カインは、しばらく、黙っていた。
そして、ふっと、疲れたように笑った。
「そうか」
「うん」
「……お前は、それでいい」
その声は、寂しそうだった。
ユノが、二人の間に静かに入ってきた。
「二人とも、間違ってない」
穏やかな声だった。
「でも、今は議論してる場合じゃないわ。この子を、避難所へ」
「ああ」
「うん」
男の子を、ユノが受け取った。
「大丈夫よ、もう怖くないからね」
ユノの腕の中で、男の子は、少しずつ泣き止んでいった。
穀物蔵に近づくにつれて、周囲の景色が変わっていった。
通りに、避難民が溢れていた。
荷物を抱えた人々が、押し合うようにして進んでいく。兵士が、声を張り上げて誘導している。
その中に、青い外套があった。
セラだった。
右腕に、負傷した兵士を抱えて、左手で剣を構えている。
その周りに、小隊が防陣を組んで、迫る魔物を押し返していた。
「セラさん!」
「ハルト、君たちか」
セラは、短く息を吐いた。
頬に、深い切り傷が走っている。外套の裾は焦げ、鎧の肩当てが割れていた。
「穀物蔵へ向かっているのか」
「はい。子供や、ほかの人たちを」
「頼む。あそこが、最大の避難所だ。すでに、三百人が入っている」
「三百……」
「地下の貯蔵庫は、広い。扉も厚い。魔物の侵入は、防げるはずだ」
セラは、そう言って、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「ただ、念のため、誰か、あそこの守りに」
その時、背後で、轟音が響いた。
ハルトは、振り向いた。
遠くの空に、黒煙が、柱のように立ち上っていた。
穀物蔵の方角だった。
「……燃えてる?」
ユノの声が、震えた。
セラの顔色が、変わった。
「全員、走れ!」
穀物蔵の前の広場に着いた時、ハルトは、足が止まった。
建物の屋根が、炎に包まれていた。
巨大な木造の梁が、次々に焼け落ちている。
蔵の正面にあるはずの、避難所の入口が、見えなかった。
崩れた梁と瓦礫が、重なり合って、入口を完全に塞いでいる。
その周囲に、避難民の一団が、泣き叫びながら集まっていた。
「中に、まだ人が!」
「子供が、子供が!」
「誰か、助けて!」
兵士たちが、必死で瓦礫を取り除こうとしている。
けれど、梁が重すぎて、びくともしない。
そして。
瓦礫の向こうから、かすかに、音が聞こえた。
どん。どん。どん。
何かを叩く音。
誰かが、中から、扉を叩いている。
それから、小さな、細い声が、聞こえた。
「……出して……だれか……」
ハルトは、全身の血が、冷たくなるのを感じた。
(この声)
(……ミア?)
隣を見る。
カインが、立ち尽くしていた。
何も言わなかった。
ただ、瓦礫の山を、見つめていた。
その目は、凍りついたように、動かなかった。




