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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第22話 早鐘

最初に聞こえたのは、鐘だった。

ハルトは、寝台の上で、ぱちりと目を開けた。

窓の外は、まだ闇だった。

けれど、その闇の向こうから、鐘の音が、乱れ打つように鳴り響いている。

かん、かん、かん、かん。

間隔が短い。祭りの鐘ではない。時を告げる鐘でもない。

(……早鐘)

跳ね起きた時には、隣の寝台は空だった。

カインが、窓際に立っていた。

大剣を背負い、外套の留め具を締めている。顔は、闇に沈んでいてよく見えなかった。

「カイン」

「北だ」

短い声だった。

「北門のほうから、鳴ってる」

ハルトは、盾を掴んだ。

その時、階段を駆け上がる足音が聞こえて、扉が開いた。

ユノだった。短弓を背負い、髪を後ろで一つに束ねている。

「聞こえた?」

「うん」

「リュネは、もう起きてる。下で待ってるわ」

ユノの後ろから、リュネが顔を出した。

寝間着の上にローブを引っかけた姿だった。髪が跳ねている。それでも、目は完全に醒めていた。

「窓から見た。北の空が、赤くなってる」

「火事?」

「違う。……松明よ。何百本も」

ハルトの背筋が、冷たくなった。


「カインお兄ちゃん……」

隣の部屋の扉の隙間から、ミアの声がした。

マーサに抱きかかえられて、寝間着のまま、目をこすっている。赤いリボンが、ほどけかかっていた。

「ミア」

カインは、膝をついて、ミアと目線を合わせた。

「大丈夫だ。ちょっとだけ、外が騒がしいだけだ」

「鐘、いっぱい鳴ってる。こわい」

「そうだな。怖いな」

カインは、ミアの肩に手を置いた。

その手首に、銀灰色の組み紐が、揺れている。

「マーサさん。この宿の裏に、避難所の目印がありました。穀物蔵の地下です」

「ええ、ここに着いた日に、宿の人が教えてくれたわ」

「そこへ。宿の人たちと一緒に」

マーサは、頷いた。

その顔は、青ざめていたが、目は据わっていた。

「ミアは、私が連れていく。あんたたちは」

「北門へ行きます」

「……気をつけて」

マーサは、カインの腕に、一瞬だけ手を添えた。

「あの人が言ってたでしょ。あんたは、一人で背負いすぎる子だって」

「……はい」

「だから、ちゃんと、誰かに頼るのよ。約束して」

カインは、ほんの少し、息を詰めた。

「努力します」

「努力じゃ、ないの」

マーサは、苦笑した。

それから、ミアを抱いたまま、階下へ降りていった。

ミアは、肩越しに、何度も振り返った。

「カインお兄ちゃん! ちゃんと、帰ってきてね!」

「ああ」

カインは、笑って手を振った。

「必ず、迎えに行く」

その言葉が、ハルトの胸に、小さく引っかかった。

(迎えに行く、か)

何でもない一言のはずなのに、なぜか、そう思った。


北門へ続く大通りは、すでに人で溢れていた。

荷物を抱えて走る家族。泣き叫ぶ子供。馬を引く商人。兵士が、声を嗄らして誘導している。

「落ち着いて! 避難所は、穀物蔵と教会の地下です! 押さないで!」

その流れに逆らって、ハルトたち四人は、北へと走った。

近づくにつれて、空気が変わっていった。

血の匂いがした。

それから、何か、焦げたような匂い。

そして、地の底から響いてくるような、重い足音。

どん、どん、どん。

北門の前の広場に出た時、ハルトは息をのんだ。

城壁の上に、兵士たちが並んでいた。

弓を引き絞る者。石を運ぶ者。油の壺を持ち上げる者。

その中央に、青い外套が翻っている。

「セラさん!」

城壁の階段を駆け上がる。

石段の途中で、足元が震えた。

城壁の上に立った瞬間、ハルトは、言葉を失った。


壁の向こうは、黒かった。

草原が、見えなかった。

森の縁から、城壁の直下まで、一面に、うごめく影が広がっている。

灰色の狼。骨の鎧を纏った獣。猪の群れ。蜘蛛のような脚を持つ巨大な虫。異形の鳥が、空を旋回している。

種類が、揃っていなかった。

(狼と猪と虫が、同じ方向に)

あり得なかった。

本来、互いに喰らい合う獣たちが、一つの波になって、城壁に向かって進んでいる。

「……何百、ですか」

「斥候の報告では、千を超えている」

セラが、静かに答えた。

その声は、乾いていた。

けれど、剣を握る右手の指が、白くなっていた。

「あなたたちが来てくれて、助かる」

「評議会は」

「今夜、緊急に招集をかけた。だが、増援が来るまで、最低でも三日はかかる」

「三日……」

「それまで、持たせる」

セラは、短く言った。

ハルトは、唇を噛んだ。

昨日の評議会の光景が、脳裏をよぎった。

――検討の域を出ませんな。

(あの人たちは、まだ、寝てるんだろうか)


最初の衝撃は、門に来た。

どぉん。

地鳴りのような音が、城壁を震わせた。

大猪の群れが、城門に体当たりをかけている。

分厚い樫の門板が、軋んだ。

「門を支えろ! 閂を補強しろ!」

兵士たちが、駆けつけて、丸太を門に押し当てる。

壁の上からは、石と煮え湯が降り注いだ。

悲鳴が上がる。

けれど、群れは、止まらない。

「ユノ、右の梯子を!」

「見えてる!」

ユノの矢が、城壁を這い上がってきた蜘蛛型の魔物の脚を貫いた。

魔物が、悲鳴もあげずに落下する。

下の群れが、それを踏み潰して、さらに登ってくる。

「リュネ、足場を崩して!」

「やってる!」

リュネの杖の先から、水が奔流となって迸った。

城壁の下の地面が、一瞬で泥の海に変わる。

猪の群れが、足を取られて転ぶ。後続がつまずいて、折り重なった。

ハルトは、盾を構えて、梯子の頂に立った。

登ってきた狼の顎を、盾の縁で叩き落とす。

右手の剣に、薄い炎を灯した。

切り返して、梯子の端を断つ。

梯子が、ゆっくりと傾いて、下の魔物たちを巻き込みながら倒れていった。

(まだ、いける)

左腕は痺れている。

指先は、炎を灯すたびに、冷たい鈍さが広がっていく。

それでも、手は動いた。

隣では、カインが、大剣を横一文字に振り抜いていた。

城壁を越えようとした巨大な虫の頭が、一撃で割れる。

その背中は、まるで、動かない壁のようだった。

「カイン、右!」

「見えてる」

返事と同時に、地面がせり上がった。

土の柱が、城壁を這い上がる魔物たちを薙ぎ払う。

けれど、その手の動きが、ほんの少しだけ、鈍いのがわかった。

(さっきから、ずっと使ってる)

石化のことを思い出す。

ハルトは、叫んだ。

「カイン、無理しないで!」

「わかってる」

カインは、短く答えた。

けれど、その声は、苦しそうだった。


夜が明けはじめた。

東の空が、鈍い灰色に染まる。

けれど、戦場は、まったく静まらなかった。

むしろ、明るくなるにつれ、敵の数が、はっきりと見えた。

城壁の下は、もはや、地面が見えなかった。

死骸と、生きた魔物とが、積み重なっていた。

「南から、予備隊が来ました!」

兵士の声が響いた。

「他の門は!」

「東門、西門は無事です! ただ、北東の角が!」

「北東?」

セラの顔色が、変わった。

「あそこは、修繕中の区画だ」

ハルトは、思い出した。

昨日、評議会に行く途中で、足場が組まれた壁を見た。

石を積み直している最中で、半分ほど崩れていた。

「まさか」

セラが、剣を握りしめた。

「全員、北東へ!」

その時だった。

ドオオオン。

城壁の端で、爆音が鳴り響いた。

石の壁が、内側から弾けるように砕けた。

粉塵の向こうから、巨大な影が、ゆっくりと姿を現す。

「……っ」

ハルトは、息を止めた。

それは、これまで見たことのない魔物だった。

象のような巨体。全身を、岩と骨で覆われている。眼窩の奥に、青白い光が瞬いていた。

洞窟の獣と、同じ色の光だった。

「破られた!」

悲鳴が、城壁に響いた。

巨獣の足元から、大小の魔物が、堰を切ったように、町の中へ流れ込んでいく。

セラは、数秒、目を閉じた。

そして、開いた。

その瞳は、氷のように冷たかった。

「全隊に告ぐ」

声が、不思議なほど、よく通った。

「北東の城壁は、突破された。これより、市民の避難を最優先とする。穀物蔵、教会、役所の地下へ、住民を誘導せよ。門の守備は、半数を残す。残りは、侵入した魔物の掃討に当たれ」

「セラ様!」

「命令だ!」

兵士たちが、一斉に動いた。

セラは、ハルトを振り向いた。

「君たちも、頼む」

「はい!」

「一人でも多く、地下へ。それが、今の最優先だ」

セラの声は、冷静だった。

けれど、その左手が、剣の柄の上で、小刻みに震えていた。

ハルトは、それを見て、胸が痛んだ。

(この人は、きっと、全部を一人で背負おうとしてる)

その時、カインが、低く言った。

「ハル。行くぞ」

「うん」

「ミアたちが、避難所にいるはずだ。先に、そこへ」

「でも、他の人たちも」

「わかってる。道すがら、助ける」

カインの目は、真っ直ぐ、町の奥を見ていた。

そこには、煙が、いく筋も立ち上りはじめていた。

遠くで、悲鳴が上がる。

鐘が、音を変えた。

早鐘から、重く長い、ひとつきりの音へ。

それは、避難の合図だった。

ハルトは、盾を握りしめた。

(守る)

(今度こそ、全部)

そう、自分に言い聞かせた。

けれど、その時、ふと、胸の奥で、小さな声がした。

――全部は、ひとりで持てないの。

ユノの言葉だった。

ハルトは、首を振った。

そして、仲間たちとともに、煙の立ち上る町の中へ、駆け下りていった。

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