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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第21話 ひだまりの一日

朝いちばんに、扉が叩かれた。

「ハル兄! 起きて! お祭りみたいに人がいっぱいなの!」

ハルトは、寝台の上で目をこすった。

窓の外は、まだ薄い青だった。鐘が鳴るには、少し早い。

「ミア、今、何時だと」

「朝!」

「うん、朝だけど」

「だから、行くの!」

扉が勢いよく開いて、ミアが飛び込んできた。赤いリボンを揺らして、ハルトの布団をはぎ取る。

「約束したでしょ! カインお兄ちゃんが、今日は町を案内してくれるって!」

隣の寝台で、カインが片目を開けた。

「……ミア。夜明け前だ」

「でも、昨日の夜、ずっと楽しみにしてたの」

カインは、しばらく天井を見つめていた。

それから、ゆっくりと身を起こして、小さく笑った。

「わかった。顔を洗ってくる」

ハルトは、その背中を見ながら、思った。

(カインが、あんなに素直に起きるの、珍しい)


大通りは、朝から活気に満ちていた。

パン屋の窯から、香ばしい匂いが流れている。果物屋の軒先には、赤や黄色の籠が山積みだ。魚屋の威勢のいい掛け声。荷車の軋む音。

ミアは、ユノとカインの間に挟まって、きょろきょろと首を回していた。

「わあ、あれ何? あっちは? あそこにも!」

「ミア、前を見て歩かないと、ぶつかるわよ」

「だって、全部見たいんだもん」

「全部は、今日じゃ無理かもな」

カインが、笑いながら言う。

「じゃあ、また明日も来る!」

「明日も?」

「うん。その次も!」

ミアは、ぴょんと跳ねた。

その後ろを歩くリュネは、ずっと渋い顔をしていた。

「人が多すぎる。空気の流れが悪い。埃っぽい」

「リュネ、昨日から文句ばっかり」

「事実を述べてるだけよ」

ユノが、ミアに目配せをした。

ミアはにやりと笑って、リュネの袖を引いた。

「リュネお姉ちゃん、あれ見て!」

「何よ」

「あの人、水で遊んでる!」

指さす先、広場の隅の石の台で、大道芸人が両手を広げていた。

手のひらの上で、水の球がくるくると回っている。一つ、二つ、三つ。やがて十個ほどに増えて、空中で踊った。

観客の子供たちが、わあっと歓声をあげる。

リュネは、眉を寄せて、その球を睨んだ。

「……表面張力を、あんな高さで維持してる。しかも、変形させずに」

「すごいの?」

「技術的には、悪くないわね。ただ」

リュネは、むっとした顔で言った。

「無駄が多い。あれなら、私のほうが、もっときれいにできる」

「見せて!」

ミアが、目を輝かせた。

「え」

「見せて、見せて!」

「ここで?」

「ここで!」

リュネは、周囲の目に気づいて、一歩下がった。

けれど、ミアの瞳に押されて、結局、杖を握った。

「……少しだけよ」

水の紋が、淡く光った。

リュネの指先から、細い水の糸が立ち上った。糸は空中でほどけて、数十の小さな粒に変わる。粒は、朝日を受けて、きらきらと輝いた。

そして、ゆっくりと、螺旋を描きながら舞い上がる。

最後に、広場の中央で、ぱん、とはじけた。

小さな虹が、空に架かった。

広場が、静まり返った。

次の瞬間、大きな拍手が湧き起こった。

「すごい!」

「お姉ちゃん、もう一回!」

「どこの魔法使い?」

子供たちが、リュネの周りに押し寄せる。

リュネは、顔を真っ赤にして、後ずさった。

「ち、違うの、私は、その、研究者で」

「リュネお姉ちゃん、もう一回!」

「やだ! もう、ないわ!」

ハルトは、腹を抱えて笑った。

ユノも、涙目で笑っている。

カインでさえ、肩を揺らしていた。

「笑わないで!」

リュネは、むくれたまま叫んだ。

けれど、その手は、もう一度、こっそりと杖を握っていた。


昼前、ミアが、露店の前で足を止めた。

色とりどりの糸や飾り紐を並べた、小さな店だった。

「これ、ほしい」

ミアが指さしたのは、三本の細い組み紐だった。

赤。青。白。

「お小遣いで、買う」

財布を逆さにして、小銭を数える。足りるか、足りないか、ぎりぎりだった。

店の老婆が、にこりと笑って、二本おまけしてくれた。

ミアは、五本の組み紐を大事そうに握りしめて、振り返った。

「ね、手、出して」

「手?」

「みんな、手!」

ミアは、一人ずつ、順番に紐を結んでいった。

ハルトの手首には、白い紐。

ユノには、赤。

リュネには、青。

そして、カインの手首には、最後に残った、銀灰色の紐が結ばれた。

「これ、おそろい」

ミアは、自分の手首にも、同じ色の紐を結んだ。

「お守りなの。切れたら、願いごとが叶うんだって」

「切れたら?」

「うん。だから、切らないように、大事にしててもいいし、切れたら嬉しいし、どっちでもいいの」

ユノが、声を出して笑った。

「それ、矛盾してるわよ」

「いいの!」

ミアは、満足そうに胸を張った。

カインは、手首の紐を、じっと見つめていた。

指先で、そっと触れる。

「……ありがとう、ミア」

「うん!」

「大事にする」

その声は、驚くほど優しかった。

ハルトは、その横顔を見ながら、胸の奥が、じんと熱くなるのを感じた。

(守りたいんだな)

カインは、きっと、ミアを、本当に守りたいのだ。


宿に戻ると、マーサが、封筒を持って待っていた。

「ちょうど、よかった。さっき、商隊の使いが持ってきたのよ」

「手紙?」

「あの人からよ」

マーサは、くすくす笑いながら、封を切った。

「字が下手だから、読みづらいわよ。分かるところだけ、読んであげるわ」

ミアが、わくわくした顔で身を乗り出した。

マーサは、咳払いをして、手紙を広げた。

『ハルト、ユノ、カインへ。

おう、元気か。俺は元気だ。村の見回りは、毎晩やってる。魔物の数が増えてるが、どうってことはない。守備隊の連中が、思ったより粘り強くてな。

ミアには、飯を残すなと言っておけ。マーサの飯を残すやつは、俺が許さん。

ハルト。盾は壊すな。壊すなら、誰かを守って壊せ。それが盾の仕事だ。

カイン。お前は、たまには休め。一人で全部やろうとするな。お前の悪い癖だ。

ユノ。無理はするな。お前が倒れたら、こいつらが泣く。

それから、リュネとかいう嬢ちゃんには、礼を言っといてくれ。うちのガキどもを、よろしくな。

全部片付いたら、うちに顔を出せ。ミアと一緒にだ。飯を用意して待ってる。

ゴードン』

最後の一行は、字が少し大きく、乱れていた。

『追伸。返事は書かなくていい。顔を見せろ。それが、返事だ』

読み終えたマーサが、手紙を胸に当てて、小さく笑った。

「あの人らしいでしょ」

「らしいです」

ユノが、涙ぐみながら頷いた。

ハルトは、手紙をそっと受け取って、もう一度、最後の行を見た。

――顔を見せろ。

胸の奥に、あたたかい何かが広がった。

「……帰ろう」

ハルトは、顔を上げた。

「全部、終わったら。みんなで、帰ろう」

「うん」

カインが、頷いた。

「約束だ」

ミアが、ハルトとカインの手を、片方ずつ握った。

「約束ね。みんなで、お父さんのところに」

窓から差し込む午後の光が、四人の影を、床に長く伸ばしていた。


夕食は、マーサが宿の台所を借りて、腕を振るった。

煮込んだ鶏肉。根菜のスープ。焼きたてのパン。

卓の上に並んだ皿を見て、リュネが、目を丸くした。

「こんなに、いっぱい」

「たくさん食べなさい。細すぎるわよ、あなた」

「そ、そんなことは」

「ほら、おかわり」

「まだ食べ終わってないんです」

ユノが、笑いをこらえている。

ハルトは、ちらりとカインを見た。

カインの皿は、減っていた。

慎重に、一口ずつ。けれど、止まらずに。

やがて、最後のパン屑まで、きれいに片づいた。

「ごちそうさまでした」

「あら、完食じゃない。珍しい」

マーサが、嬉しそうに目を細めた。

「あんた、顔色も少し良くなったわ」

「ミアが、手を引いてくれたので」

カインは、ミアの頭を撫でた。

ミアは、得意げに胸を張る。

(ほんとだ)

ハルトも、そう思った。

(今日は、カインが、ずっと穏やかだった)


夜が更けた。

宿の二階の部屋で、ミアは、寝台にもぐり込んだまま、なかなか眠れずにいた。

「眠れない?」

ユノが、隣に腰を下ろして、尋ねた。

「……うん。明日も、楽しみで」

「そう」

「それに、ちょっとだけ、こわい」

「こわい?」

「魔物のこと。お父さんが、見回りしてるけど、大丈夫かなって」

ユノは、ミアの髪をそっと撫でた。

「大丈夫よ。お父さんは、強いもの」

「うん」

「それでも、こわいわよね」

ユノは、少し考えてから、口を開いた。

「じゃあ、歌ってあげる」

「歌?」

「小さい頃、私が、よく歌ってた歌」

ユノの声が、静かに部屋に流れはじめた。

低く、柔らかい旋律だった。

ねむれ ねむれ 星の底

土のゆりかご 風の唄

目をとじたなら 夜がくる

朝まで 夢が 守るから

ハルトは、廊下の壁にもたれて、その歌を聞いていた。

(……この歌)

胸の奥が、きゅっと鳴った。

――昔。

まだ、孤児院にいた頃。

ハルトは、いつも夜になると、怖い夢を見て泣いた。

誰かの顔のない影。真っ暗な水。深い穴に落ちていく感覚。

ある夜、泣きながら目を覚ますと、ユノが、枕元に座っていた。

何も言わずに、背中をさすって、この歌を歌ってくれた。

その後ろの暗がりに、カインが、膝を抱えて座っていた。

「俺も、起きてるから」

小さな声で、そう言って。

そのまま、朝まで、二人でそこにいてくれた。

あの時、ハルトは、思ったのだ。

(この人たちがいれば、怖くない)


歌が終わる頃には、ミアは、すうすうと寝息を立てていた。

ユノが、そっと毛布を掛け直す。

廊下に出てきたユノは、ハルトと目が合って、小さく笑った。

「聞いてた?」

「うん」

「あの歌ね、どこで覚えたのか、よく思い出せないの」

「え?」

「小さい頃から、知ってた。お母さんの声が、混じってる気がして」

ユノは、首元の布飾りに、そっと触れた。

「でも、はっきりしないの。いつか、全部思い出せたらいいな」

ハルトは、ユノの横顔を見つめた。

ユノの母。

ハルトの母でもある、はずの人。

けれど、ハルトには、その記憶がほとんどなかった。

「思い出せるよ、きっと」

「そうね」

ユノは、微笑んだ。

「おやすみ、ハル」

「おやすみ、ユノ姉」


屋根裏の小さなバルコニーに出ると、カインが、先にそこにいた。

手摺りに肘をついて、夜空を見上げている。

星が、いつもより近く見えた。

「ミア、寝た?」

「うん」

「そうか」

ハルトは、カインの隣に立った。

しばらく、二人とも、何も言わなかった。

夜風が、ハルトの前髪を揺らした。

「いい一日だったな」

カインが、ぽつりと言った。

「うん」

「ミアが、笑ってた。リュネが、笑ってた。ユノも」

「カインも、笑ってたよ」

「そうか?」

「うん。ずっと」

カインは、少し驚いたような顔をして、それから、苦笑した。

「気づかなかった」

その横顔は、穏やかだった。

けれど、ふと、カインは真剣な目になった。

「ハル」

「ん」

「全部、終わったら。ゴードンさんのところに帰って、ミアの飯を食って、孤児院にも顔を出して」

「うん」

「来年の収穫祭は、みんなで行こう」

「行く」

ハルトは、即答した。

「絶対、行く。ユノ姉も、リュネも、ミアも」

「ああ」

カインが、右手を差し出した。

ハルトは、その手を握った。

手首の銀灰色の紐が、触れ合った。

「約束だ」

「約束」

カインの手は、あたたかかった。

星が、静かに瞬いていた。

ハルトは、思った。

(この夜が、ずっと続けばいい)

そして、その願いが、あまりにも小さくて、あまりにも大きいことに、その時は、気づいていなかった。

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