第20話 聞こえない警鐘
翌朝のベルナ評議会は、市庁舎の二階で開かれた。
長い卓。分厚い窓。壁には、歴代の町長の肖像が並んでいる。
ハルトは、慣れない椅子に浅く腰かけて、窓から差し込む朝の光を見ていた。隣にはユノ、リュネ、カインが並んでいる。
(場違いだ)
そう思った。
卓の向こうには、七人の評議員が座っていた。恰幅のいい商人組合の長。髭を整えた穀物商。杖を握りしめた白髪の老人は、町長だという。
その誰もが、昨夜、血を流した兵たちを見てはいなかった。
「では、報告を」
町長が、しわがれた声で言った。
セラが立ち上がった。
昨夜の疲れは、少しも表に出ていなかった。背筋が真っ直ぐに伸び、声は朝の空気のように澄んでいる。
「北の森の縁で、魔物の群れが集結しています。昨夜の討伐で十二頭を討ちましたが、これは全体の一部にすぎません。街道の襲撃も、同じ群れによるものと判断します」
「死傷者は」
「死者一名。重傷四名。軽傷十四名です」
評議員の何人かが、顔をしかめた。
「それで、騎士殿の要望は?」
「領都への増援の要請、並びに、北門の守備強化と、近隣の村への避難勧告の準備を」
「増援」
商人組合の長が、鼻を鳴らした。
「それはまた、大きく出られた」
「失礼ながら、セラ殿」
組合長は、卓に両手を置いた。
「魔物の増加は、毎年のことでしょう。春先は、そういうものです。それを、増援だの避難だのと」
「例年とは規模が違います」
「規模、とは?」
「昨夜の足跡は、三十頭以上。しかも、北の三つの森すべてで、同じ方向に向かっています。これは季節の増加ではありません。何らかの意思が」
「意思、ですか」
組合長は、笑った。
「魔物に、意思などありますまい」
「ありますっ!」
声を上げたのは、リュネだった。
ハルトは、はっとした。
リュネは、椅子から立ち上がり、卓の上に一枚の紙を叩きつけた。
「これを見て! 昨日と一昨日と、街道で確認された群れの出現位置、足跡の向き、移動の間隔。全部、記録してある!」
紙には、地図の上に細かい矢印が無数に描き込まれていた。
「全部、ベルナに向かってる。しかも、移動の速度が一定で、合図に合わせて動いてる。群れの本能じゃないの。誰かが、動かしてるのよ!」
「ほう」
穀物商が、眼鏡を持ち上げた。
「失礼ですが、あなたは?」
「リュネ。北の塔の」
「ああ」
穀物商は、ふっと口元を歪めた。
「あの、爆発騒ぎの塔の娘さんか」
リュネの顔が、真っ赤になった。
「それは、関係ないでしょう!」
「いやいや、失礼。ただ、ずいぶん元気なお嬢さんだと」
評議員たちの間に、くすくすと小さな笑いが広がった。
ハルトの胸が、かっと熱くなった。
(違う)
(リュネは、本気で言ってるのに)
「あの」
気がつくと、立ち上がっていた。
「俺も、見ました。街道で戦った群れは、リュネの言うとおりです。長が喉を鳴らすと、全部の狼が同じ動きをしました」
「君は?」
「ハルトです。旅の者です」
「旅の若者の証言と、塔の娘さんの計算。なるほど」
組合長は、肩をすくめた。
「確かに、興味深い。しかし、検討の域を出ませんな」
「検討では間に合いません!」
「ハルト」
セラが、静かに制した。
その声は、柔らかかったが、有無を言わせなかった。
ハルトは、唇を噛んで、座った。
結論は、一刻足らずで出た。
増援の要請は、「費用と時間がかかりすぎる」として、保留。
避難勧告は、「住民の動揺を招く」として、却下。
認められたのは、北門の守備兵の増員、わずか十名だけだった。
「それで、十分でしょう」
組合長が、満足げに頷いた。
「騎士殿のご活躍は、評議会も感謝しております。引き続き、ご尽力を」
セラは、深く一礼した。
「承知いたしました」
その声に、感情の色はなかった。
けれど、ハルトは見てしまった。
外套の下で、握りしめられた左手が、白くなっていた。
評議会が終わった後、庁舎の外の石段で、リュネは膝を抱えて座っていた。
「……悔しい」
小さな声だった。
「私の計算は、間違ってない。ちゃんと、証拠もあった。なのに」
「リュネ」
「爆発騒ぎが、何よ。実験には失敗がつきものなのに」
ハルトは、リュネの隣に腰を下ろした。
何も言わなかった。
言えることが、思いつかなかった。
「……ねえ」
リュネが、ぽつりと言った。
「あんた、さっき、立ち上がったでしょ」
「うん」
「なんで」
「だって、リュネが馬鹿にされるのは、嫌だったから」
リュネは、驚いたように顔を上げた。
それから、すぐに目を逸らした。
「……ばか」
「うん」
「でも、ありがと」
その声は、膝の中に消えそうなほど、小さかった。
ユノが、リュネの背中を、そっと撫でた。
「リュネの計算は、ちゃんと届いてたわよ。町長さんの目、見てた? あの人だけは、紙をずっと見てた」
「……本当に?」
「ええ」
リュネは、ほんの少し、息を吐いた。
その日の夕方、ハルトは、商人組合に護衛の報酬を受け取りに行った帰り道、カインと一緒に、大通りの酒場に立ち寄った。
「パンを買うだけのつもりだったのに」
「ここのパンは、うまいと聞いた。ついでに、夕飯の分も頼もう」
カインが、そう言って、扉を押した。
薄暗い店内は、仕事帰りの職人や商人で、賑わっていた。
壁際の席に腰を下ろして、注文を済ませる。
その時だった。
「……代償を、他人に回す技術がある、という話はご存じですか」
隣の卓から、低い声が聞こえてきた。
ハルトは、思わず耳をそばだてた。
声の主は、旅装の男だった。
四十がらみ。痩せていて、目つきが穏やかだ。くたびれた外套を羽織り、顔に疲れの色はない。向かいに座った商人風の男に、酒を注いでやっていた。
「代償を、他人に?」
「ええ。魔法や技を使えば、体温や感覚や記憶を失う。それを、誰かに肩代わりさせる術です」
「そんなことが、可能なんですか」
「帝国では、研究が進んでいると聞きます。兵の一部に、代償を分配する。そうすれば、前線の将は、無傷で強い技を使える」
男は、グラスを揺らして続けた。
「兵は、分配された代償を、数日で忘れる。記憶の一部、寒さへの耐性、味覚の一部。些細なものです。ですが、将は力を温存できる。効率が違う」
商人は、眉をひそめた。
「それは、兵に酷では」
「酷でしょうか」
男は、にこりと笑った。
「兵は、国のために戦う。国のために、少しずつ差し出す。それは、戦場の掟ではありませんか」
ハルトの胸が、嫌な音を立てた。
(違う)
(それは、「分ける」じゃない)
押しつけているだけだ。
誰も、選んでいない。
「それに、こういう考え方もある」
男は、声を落とした。
「自分の力で、全部背負える者は、本来、背負わなくていいはずなのです。他人に分配する仕組みさえあれば。それが帝国の目指す形だとか」
その瞬間。
カインの手が、止まった。
テーブルの上で、水の入ったグラスを握ったまま、動かない。
指の関節が、白くなっていた。
「カイン?」
「……いや、何でもない」
カインは、グラスをそっと置いた。
けれど、その目は、男の背中に釘づけになっていた。
ハルトは、何か言おうとして、言葉に詰まった。
男は、酒を飲み干すと、席を立った。
商人に軽く会釈して、酒場の出口へ向かう。
その途中、ふと、足を止めた。
カインの席の横だった。
男は、わずかに目を細めて、カインを見た。
何かを確かめるような、短い視線だった。
「良い剣ですね」
「……どうも」
「背負う手の痕がある。たくさん、背負ってきた方の手だ」
カインは、答えなかった。
「いつか、背負わなくていい世の中が来ます。帝国は、それを作っている」
男は、そう言って、軽く頭を下げた。
そして、扉の向こうへ消えていった。
酒場の中が、いつもの喧騒を取り戻した。
けれど、ハルトの耳には、男の声が残っていた。
(背負わなくていい世の中)
それは、とても魅力的な響きだった。
だからこそ、怖かった。
ふと、カインを見る。
カインは、卓の上のパンに、手を伸ばしかけて、やめた。
「カイン、あの人」
「ただの噂話だ」
カインは、静かに言った。
「帝国の。……気にするな」
けれど、その声には、いつもの穏やかさがなかった。
どこか、遠くを見ているようだった。
宿に戻る道すがら、夜風が冷たかった。
星は、雲に隠れて、見えなかった。
「ハル」
不意に、カインが言った。
「もし、代償を、誰かに渡せるとしたら」
「え」
「お前は、どうする」
ハルトは、足を止めた。
カインは、少し前で立ち止まって、背を向けたままだった。
答えを求めている声ではなかった。
ただ、聞いておきたい、というような響きだった。
ハルトは、少し考えて、答えた。
「渡さない」
「なぜ」
「渡したら、その人が、痛いから」
「……そうか」
「分けるよ。みんなで。半分こして、軽くする。そのほうが、俺は好きだ」
カインは、ふっと息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「お前は、ずっと、そのままでいてくれ」
「え?」
「いや」
カインは、振り向いた。
いつもの顔だった。
「明日は、ミアを町に連れ出す約束だ。早く寝るぞ」
「あ、うん」
ハルトは、慌てて頷いた。
そして、カインの後ろを歩きながら、ぼんやりと考えた。
(さっきの人は、何者だったんだろう)
(帝国は、本当に、そういうことを)
答えは、出なかった。
ただ、頭上の雲の向こうで、遠い雷のような音が、一度だけ、低く鳴った気がした。




