第19話 青い外套の背中
ベルナの城門をくぐったのは、夕暮れの鐘が鳴り終わる頃だった。
十日ほど前に見た景色と、何も変わらないはずだった。
けれど、ハルトは、すぐに気づいた。
門の脇の詰所に、負傷兵が溢れていた。
担架が何台も並び、包帯を巻かれた兵士たちが、壁にもたれて座り込んでいる。治療所の使いが、薬箱を抱えて駆け回っていた。
「……増えてる」
ユノが、小さく呟いた。
「前に来た時より、ずっと」
商隊長が、門番に積荷の通行証を見せている間に、マーサがミアの手を引いて、荷車から降りた。
「ミア、あまり見ちゃだめよ」
「うん……」
ミアは、カインの外套の裾を、ぎゅっと握っていた。
「大丈夫だ」
カインが、ミアの頭に手を置いた。
「ここの兵士さんたちは、お前のお父さんと同じ仕事をしている人たちだ。怖くない」
「……うん」
ミアは、小さく頷いた。
その時、詰所の奥から、聞き覚えのある声が響いた。
「全隊、三刻後に北門へ集合! 装備を確認、手の空いている者は水と矢を運べ!」
青い外套の女騎士が、詰所の前に立っていた。
黒髪を高く結び、銀の鎧に身を包んでいる。腰の長剣は、鞘に収められたまま。表情には、一切の乱れがなかった。
「セラ様、先ほど斥候が戻りました。北の森の縁に、再び群れの痕跡が」
「規模は」
「足跡からの推定で、三十前後」
「……増えているな」
セラは、短く言った。
それから、視線を門のほうへ向けた。
「あの商隊の護衛は」
「はっ。ハルト、ユノ、リュネ、カインという旅の者たちが、道中の魔物を」
「十日ほど前に、ここを通った者たちか」
セラは、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
近づくと、細かい傷が目についた。頬の当て布。外套の縁の焦げ跡。きっと、数日、まともに休んでいないのだろう。
「商隊は無事に届けてくれたと、門番から聞いた。礼を言う」
「いえ、そんな」
ハルトは、頭を下げた。
「俺たちは、護衛として当然のことをしただけです」
「当然のことが、できない者は多い」
セラは、短く答えた。
それから、少し間を置いて、続けた。
「頼みがある」
「北の森の縁に、魔物の群れが集結しつつある。今夜、討伐隊を出す」
セラは、詰所の卓に広げられた地図を、指でなぞった。
「街道の襲撃が頻発している。商隊も被害を受けた。放置すれば、町の物流が止まる。討伐隊は、私が率いる」
「兵は」
カインが尋ねた。
「三十。うち、実戦経験のある者は十二」
「少ないな」
「それでも、出す」
セラの声は、静かだった。
「町の守備隊の主力は、東の街道の警備に回っている。残りの兵で、やるしかない」
「だったら、手伝わせてください」
ハルトは、前に出た。
「俺たち、街道で群れと戦ったばかりです。動きの癖も、少しはわかります」
セラは、ハルトを見た。
その瞳は、深い青だった。
氷のように冷たいのに、どこか、疲れていた。
「君たちは、旅の者だ。町の防衛は、君たちの責務ではない」
「責務じゃなくても、手伝います」
「危険だ」
「わかってます」
ハルトは、言い切った。
セラは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと、目を伏せた。
「……助かる」
小さな声だった。
けれど、その声に、ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けたような気配が滲んでいた。
ミアとマーサは、商人組合の紹介で、大通りの宿に落ち着いた。
別れ際、ミアは、カインの手を離さなかった。
「ちゃんと、帰ってきてね」
「ああ」
「約束だよ」
「約束だ」
カインは、膝をついて、ミアの目線に合わせた。
「ミアが寝ている間に、終わらせる。朝には、戻る」
ミアは、こくんと頷いた。
マーサが、ミアを抱き寄せながら、カインに目で礼を言った。
ハルトは、その背中を見ていた。
カインは、振り向かずに歩いた。
けれど、足取りは、いつもより、少し速かった。
北の森の縁に着いた時には、日が完全に落ちていた。
兵士たちの松明が、闇の中に、点々と揺れている。
森の木々は、黒い壁のようにそびえていた。風が吹くたびに、枝が擦れ合う音が、不気味にうねる。
「陣形を組め」
セラの号令が、低く響いた。
三十の兵が、五人ずつの小隊に分かれて、森の縁に展開する。
ハルトたち四人は、セラの隊の側面についた。
「前衛は私が務める。後衛、距離を保って援護を」
「セラ様が前衛ですか」
「指揮官が前に立たねば、兵がついてこない」
セラは、そう言って、腰の剣を抜いた。
細身の刃が、松明の光を受けて、冷たく光る。
その時、森の奥から、低い唸り声が響いた。
最初の魔物が、闇から飛び出した。
灰色の毛皮。背に並ぶ骨の突起。濁った赤い目。
街道で戦った狼と、同じ種類だった。
「来る!」
兵士の叫びと同時に、五頭、十頭と、闇の中から影が溢れ出してきた。
「構え!」
セラの声が、一閃した。
次の瞬間、彼女は前に出ていた。
ハルトは、目を見張った。
速い。
けれど、それ以上に、動きに無駄がない。
最初の狼が、跳びかかる。
セラは、半歩だけ横に滑った。
爪が、外套の裾をかすめる。
その一歩の間合いで、細身の剣が、一閃した。
狼の喉が、深く裂けた。
血が噴き出す前に、セラはもう次の位置に移っている。
二頭目が、背後から迫る。
振り向きもしない。
左足を軸に、体を回転させ、後方へ剣を突き出した。
剣先が、狼の眼窩を貫く。
獣が、悲鳴もあげずに崩れ落ちた。
(……すごい)
ハルトは、息を呑んだ。
型の美しさだった。
一手ごとに、足の運び、肩の角度、剣の軌道が、寸分の狂いもなく決まっている。まるで、手本の動きを見ているようだった。
兵士たちの士気が、一気に上がった。
「セラ様に続け!」
「押せ、押せ!」
槍が、いっせいに突き出される。
群れが、押し返された。
けれど、数が多かった。
三十頭、どころではない。
森の闇の奥から、次々と、新しい赤い目が現れる。
「くっ……」
小隊の一つが、側面から崩された。
兵士が二人、転倒する。
狼が覆いかぶさろうとした、その瞬間。
「下がれ!」
セラが、駆け込んだ。
狼の牙を、剣で受ける。
兵士たちを後ろに押しやり、自分が前に出る。
青い外套が、翻った。
その背中に、さらに三頭が襲いかかる。
(まずい)
ハルトは、走った。
盾を前に出し、横合いから一頭を弾き飛ばす。
「ハルト!」
「大丈夫です!」
もう一頭が、カインの大剣に叩き伏せられた。
三頭目は、ユノの矢が眉間を貫いた。
セラは、肩で息をしながら、振り向いた。
「……助かった」
「セラさん、無茶です。一人で受けすぎてます」
「私が下がれば、兵が死ぬ」
「だからって」
「ハルト」
カインの声が、低く割って入った。
「今は、言い合いの時間じゃない。右の小隊を支えろ」
「はい!」
ハルトは、走った。
背中に、セラの視線を感じた。
戦いは、長く続いた。
ハルトの腕は、もう、感覚がなかった。
盾を持つ左腕は、完全に痺れている。指先は、火を灯すたびに、冷たい鈍さが広がっていった。
(もう、火は、使えない)
そう思った時、リュネの声が、後ろから飛んだ。
「ハルト、群れの長が出てくる! 右の木立の奥よ!」
見ると、森の闇の中から、一回り大きな影が、ゆっくりと現れていた。
街道で見たものと、同じ種類だ。
「あいつを止めれば、群れは引くわ」
「止められる?」
「やるしかないでしょ!」
リュネの杖の先から、水が噴き出した。
大気中の湿気を集め、地面に叩きつける。
長の足元の土が、一瞬で霜に変わった。
けれど、長は、それを飛び越えた。
「速い!」
牙が、リュネに迫る。
「リュネ!」
ハルトは、盾を構えて、駆け込もうとした。
間に合わない。
その時。
青い外套が、リュネの前に滑り込んだ。
セラだった。
剣の腹で、長の顎を受け止める。
衝撃が、彼女の体を貫いた。
足が、地面にめり込む。
「くっ……!」
細い体が、軋む。
けれど、セラは、動かなかった。
その背後で、カインが、大剣を振りかざしていた。
「どけ!」
セラが、身を引く。
大剣が、長の脇腹に叩き込まれた。
骨の鎧が砕ける。
獣が、咆哮した。
ハルトも、盾ごと体当たりをかける。
長の巨体が、揺らぐ。
ユノの矢が、露出した肉へ、深々と刺さった。
そして、とどめに、セラの剣が、喉元を貫いた。
長が、地面に崩れ落ちた。
その瞬間、周囲の狼たちが、ぴたりと動きを止めた。
そして、先日と同じように、波が引くように退いていく。
闇の中へ、溶けて消えた。
松明が、風に揺れている。
兵士たちは、疲れ切った顔で、その場にへたり込んでいた。
ハルトは、セラのほうへ歩いていった。
彼女は、少し離れた木の根元に立っていた。
剣を鞘に収めようとしている。
けれど、鞘の口に、切っ先がなかなか入らない。
カチ、カチ、と、小さな金属音が響いていた。
(……手が、震えてる)
ハルトは、思わず足を止めた。
セラの左手が、柄を握りしめたまま、小刻みに震えている。
右手で、それを押さえつけようとしている。
けれど、止まらない。
「セラさん」
「……何でもない」
セラは、すぐに手を背中へ隠した。
「少し、疲れただけだ。すぐに収まる」
「休んだほうが」
「まだ、報告が残っている」
「でも」
「君たちは、先に町へ戻りなさい」
その声は、冷静だった。
けれど、どこか、必死だった。
ハルトは、何も言えなかった。
(この人は、きっと、休み方を知らないんだ)
そんな気がした。
その時、背後から、カインの声が聞こえた。
「あなたも、背負い込むほうですか」
セラが、はっと顔を上げた。
カインは、静かな目で彼女を見ていた。
「責めているわけじゃない。ただ」
「ただ?」
「一人で受けた衝撃は、一人で抱え込むと、後で響く」
セラは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく、息を吐いた。
「……肝に銘じておく」
その言葉に、反発の色はなかった。
けれど、受け入れた様子でもなかった。
ハルトは、二人の横顔を見比べた。
(カインとセラさん)
似ている、と思った。
どちらも、背筋が真っ直ぐで、強くて、優しくて。
そして、同じくらい、危うい。
町へ戻る帰り道。
先頭を歩いていたセラが、足を止めた。
森の縁の地面に、膝をついた。
松明を近づけて、何かを見つめている。
「どうしました」
ハルトが駆け寄ると、セラは、地面を指さした。
「見ろ」
土の上に、無数の足跡が刻まれていた。
爪の痕。重なり合う、いくつもの獣の脚。
「全部、同じ方向を向いている」
「同じ方向?」
「ここから、東へ。町の北東の方角へ向かって」
セラは、地図を取り出した。
そして、一点を、指でなぞった。
「同じ痕が、北の三つの森の縁で確認されている。すべて、ベルナへ向かって、収束している」
ハルトの背筋が、ひやりとした。
(街道の群れも、同じ……)
リュネの言葉が、頭をよぎる。
――別のところへ、移動する合図。
「偶然、ですよね」
「そう思いたいが」
セラは、地図を畳んだ。
その横顔は、月明かりの下で、ひどく青白かった。
「明日、町の評議会で、報告をする。君たちにも、同席を願いたい」
「俺たちが?」
「街道の襲撃と、今夜の群れの動きを、直接見た者の証言が必要だ」
セラは、まっすぐハルトを見た。
「……頼めるか」
ハルトは、頷いた。
「はい」
夜風が、森を渡っていった。
どこか遠くで、狼の遠吠えが、一度だけ、細く響いた。




