第18話 街道の牙
商隊が切り通しに入ったのは、二日目の昼前だった。
丘を割るように掘られた細い道が、緩やかな登りを描いて続いている。左右の斜面には、背の低い樫の林が茂り、枝の隙間から、白い光がまだらに落ちていた。
荷車の車輪が、湿った土を噛む音だけが響く。
ハルトは、最後尾の荷車のすぐ後ろを歩きながら、ふと違和感を覚えた。
「……静かだ」
「え?」
隣を歩く若い護衛が、きょとんと振り向いた。
「鳥の声が、しません」
言われて、護衛も耳を澄ませた。
風が葉を揺らす音しか、聞こえない。
(朝は、あんなにうるさかったのに)
その時、前方から、カインの低い声が飛んだ。
「全員、止まれ」
荷車の列が、軋みながら停まった。
三台目の御者台の脇に立っていたカインが、大剣の柄に手をかけたまま、斜面の林をじっと見つめている。
銀灰色の髪が、風に揺れた。
「どうしたんです」
商隊長が、不安そうに尋ねる。
「囲まれてる」
「え」
「左右の斜面。二十、いや、もっといる」
言い終わらないうちに、林の暗がりで、無数の目が光った。
濁った赤だった。
一つ、二つ、三つ。数えきれないほどの光が、斜面の上から、ゆっくりと降りてくる。
灰色の体毛に、背骨に沿って骨のような突起が並んでいる。涎が地面に糸を引いていた。
(狼……いや、違う)
ハルトは、盾を構えた。
洞窟の外で戦った狼とは、まるで違う。体が一回り大きい。肩の高さが、ハルトの腰に届く。
そして、群れの動きが、乱れていなかった。
一頭も吠えない。
低く喉を鳴らしながら、斜面に等間隔に展開していく。
「荷車を詰めろ! 輪にして、中に非戦闘員を入れる!」
カインの号令が、街道に響いた。
「ユノ、荷車の上に。リュネ、その隣で補佐を。ハル、最後尾を頼む。俺は三台目だ」
「わかった!」
ハルトは、最後尾の荷車の後ろへ走った。
荷車の中で、ミアが、マーサの腕にしがみついているのが見えた。
目が合った。
ミアは、唇を噛んで、小さく頷いた。
(怖がってるのに、泣いてない)
胸が、ぎゅっとなった。
(絶対、守る)
最初の一頭が、跳んだ。
斜面を蹴って、宙を舞い、荷車の幌めがけて牙を剥く。
ユノの矢が、風を切った。
狼の喉に突き刺さる。獣は空中でよじれ、荷車の手前に叩きつけられて、動かなくなった。
それが、合図だった。
左右の斜面から、灰色の影が、いっせいに雪崩れ落ちてくる。
足音が、地鳴りのように重なった。
「来るぞ!」
ハルトは、盾を前に出して、腰を落とした。
正面から、二頭が同時に飛びかかってくる。
一頭目の牙が、盾の縁に食い込んだ。
衝撃。
左腕が痺れ、膝が沈む。盾が引きちぎられそうな力で引っぱられた。
(重い!)
ハルトは歯を食いしばり、右手の剣に炎を纏わせた。
薄く、鋭く。
刃の上だけ。
(燃える物。燃やす空気。火種)
塔で教わった手順を、頭の中でなぞる。
そのまま、狼の首の付け根へ、薙ぎ払った。
肉の焦げる匂い。
獣が悲鳴をあげて、盾から牙を離す。
だが、二頭目が、すでに懐に入っていた。
脇腹に、鈍い衝撃。
「ぐっ」
爪が、革の胴当てを裂いた。
深くはない。けれど、息が詰まる。
倒れかけた体を、盾の縁で地面を突いて支える。
その瞬間。
「ハルト! 右、三歩!」
背後から、鋭い声が飛んだ。
リュネだ。
「左の斜面の奥、群れの長が喉を鳴らした! 五拍で、右から二頭、来る!」
(……右から二頭?)
迷う暇はなかった。
ハルトは、言われたとおり、右へ三歩、跳んだ。
直後、さっきまで立っていた場所を、二頭の狼が通過した。
空を切った爪が、荷車の車輪にぶつかる。
「今よ、ユノ!」
「見えてる!」
ユノの矢が、立て続けに二本、飛んだ。
二頭の狼は、体勢を崩して、地面に転がった。
ハルトは、返す刃で、一頭の肩口を斬った。
炎が、毛皮を舐める。
「ありがとう、リュネ!」
「礼はいいから、前を見て!」
リュネの声は、少し上擦っていた。
けれど、その声は、迷っていなかった。
(リュネ、見えてる)
洞窟の広間で、震えていた少女は、今、荷車の上で杖を構え、群れ全体の動きを読んでいた。
「うわあっ!」
悲鳴が、荷車の列の端から聞こえた。
ハルトは、振り向いた。
最後尾から二台目のあたりで、若い護衛が、二頭の狼に挟まれていた。
さっき、隣を歩いていた青年だった。
槍を落とし、背中を荷車の車輪に押しつけられている。右足を噛まれ、血が地面に広がっていた。
(まずい)
距離は、十歩。
間に合う。
そう思って、駆け出そうとした、その時。
別の悲鳴が、聞こえた。
「きゃあっ!」
ミアの声だった。
ハルトは、足を止めた。
三台目の荷車の幌が、引き裂かれている。
灰色の巨体が、幌の上に飛び乗り、その下に頭を突っ込もうとしていた。
中には、ミアとマーサがいる。
(ミア!)
足が、どちらへ行くべきか、分からなくなった。
護衛か。ミアか。
「ハル」
カインの声が、聞こえた。
静かな声だった。
「あの護衛を頼む」
「でも、ミアが!」
「ミアは、俺が守る」
迷いのない声だった。
カインは、すでに三台目の荷車の屋根へ駆け上がっていた。
大剣を、両手で握る。
幌に取りついた狼の背へ、振り下ろした。
骨の砕ける音。
狼の巨体が、荷車の脇に叩き落とされる。
「ミア、マーサさん、大丈夫だ! 顔を出すな!」
「カインお兄ちゃん!」
「ここにいる。ちゃんと、ここにいるから」
その声は、驚くほど優しかった。
ハルトは、唇を噛んで、護衛のほうへ走った。
(カインは、ミアを守る)
(だったら、俺は)
護衛の青年に飛びかかろうとした狼の鼻先に、盾を叩きつけた。
ごん、と鈍い音。
狼が怯んだ隙に、ハルトは青年の前に立った。
「大丈夫ですか!」
「あ、足が、足が」
「立てますか!」
「む、無理です」
(だったら、このまま戦うしかない)
二頭の狼が、唸りながら間合いを詰めてくる。
ハルトは、盾を構え直した。
左腕の痺れが、まだ取れない。
指先の感覚も、薄れている。炎を二度、強く使ったせいだ。
(それでも)
一頭目が、飛びかかってきた。
盾で受ける。
二頭目が、横から回り込む。
(受けきれない)
そう思った瞬間。
ひゅっ、と風が走った。
矢が、二頭目の眼を貫いた。
「ハル、そのまま持ちこたえて!」
ユノの声だった。
荷車の上から、短弓を引き絞っている。
その隣で、リュネが、杖を高く掲げた。
「足元、凍らせる!」
水の紋が輝いた。
狼の足元の土が、一瞬で白く染まった。
霜が地面を走る。狼の四肢が、氷に絡め取られて動かなくなった。
「ハルト、今!」
ハルトは、剣を振り上げた。
炎が、刃に灯る。
そして、一頭目の首を、斬り落とした。
戦いは、それから十数分続いた。
ハルトの膝は、ずっと震えていた。
腕の感覚はほとんどなく、脇腹の傷が熱を持って疼いている。
けれど、荷車の輪は、崩れなかった。
護衛たちが、槍を並べて、必死に押し返している。ユノとリュネの連携で、斜面から降りてくる群れが、一頭、また一頭と減っていく。
そして、最後に。
斜面の最上段から、ひときわ巨大な影が、姿を現した。
通常の狼の、倍はある。
背中の骨の突起が、鎧のように肥大している。濁った赤い目が、まっすぐ、荷車の列を見下ろしていた。
「群れの長だ」
リュネが、叫んだ。
「あれが、全部の動きを指示してた! あいつを止めれば!」
「ユノ!」
「行くわ!」
ユノの矢が、群れの長の眉間を狙って飛んだ。
けれど、骨の板が、矢を弾いた。
「硬い!」
「関節を狙え! 喉元だ!」
カインの声が飛ぶ。
ユノが、もう一矢を番えた。
長は、しかし、それを見ていた。
低く、喉を鳴らした。
その瞬間、斜面の狼たちが、ぴたりと動きを止めた。
荷車に食らいついていた個体も、飛びかかろうとしていた個体も、いっせいに牙を引いた。
そして、波が引くように、林の奥へ退いていった。
最後に、群れの長が、ゆっくりと身を翻した。
一度だけ、こちらを振り返る。
濁った赤い目が、ハルトを、いや、荷車の列を、じっと見つめていた。
それから、闇に溶けた。
静寂が、街道に戻ってきた。
ハルトは、その場にへたり込んだ。
「……退いた?」
「退いたんじゃない」
カインが、荷車から降りてきた。
大剣を鞘に収め、斜面の奥を睨んでいる。
左の袖が、肩から肘まで、大きく裂けていた。
「引かれたんだ。まだ、戦えたはずだ」
「どういうこと」
リュネが、荷車から降りて、眉をひそめた。
「統率されてた。群れの本能じゃない。もっと、誰かの意思が」
「誰かって」
「わからない。でも、あの長は、私たちの数を、数えてた」
リュネは、手帳をぎゅっと握りしめた。
「戦う必要がなくなったから、退いたのよ。あの合図、撤退の意味じゃない。別のところへ、移動する合図」
誰も、何も言えなかった。
風が、林を揺らした。
さっきまでの、血の匂いの向こうから、鳥の声が、少しずつ戻ってきていた。
「カインお兄ちゃん!」
荷車から飛び降りたミアが、カインに抱きついた。
「怪我してる!」
「大したことはない。かすっただけだ」
「だって、血が」
ミアは、カインの裂けた袖を、小さな手でぎゅっと握った。
その下の腕に、ハルトは目を向けた。
浅い傷が一本、走っているだけだった。
もう、血は止まっている。
(あれだけ派手に袖が裂けたのに)
違和感が、胸の奥でかすかに鳴った。
けれど、カインは、ミアの頭を撫でながら、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
「ミアが無事で、よかった」
「うん、カインお兄ちゃんが、守ってくれたから」
ミアは、カインの胸に顔を埋めた。
マーサが、荷車から降りてきて、深々とカインに頭を下げた。
「ありがとう、カイン。本当に」
「俺は、当然のことをしただけです」
「当然じゃないわ。あんたは、いつも」
マーサは、言葉を切った。
それから、ハルトにも目を向けて、微笑んだ。
「ハルトも。あの護衛の子を、助けてくれたのね」
「いえ、俺は」
ハルトは、言葉を探した。
そして、気づいた。
(カインは、ミアを選んだ。俺は、護衛を選んだ)
それは、間違いではなかった。
ミアを守る人がいて、護衛を守る人がいた。それだけのことだ。
けれど、胸の底に、小さな石が落ちたような感覚が残った。
(もし、どちらかしか、選べなかったら)
考えかけて、やめた。
その日の夕方、商隊は丘の頂に出た。
視界が、一気に開けた。
眼下に、見覚えのある石垣が広がっている。
城壁。見張り塔。夕焼けに染まる赤茶色の屋根。
そして、町の北の端に、細く立つ、リュネの塔。
「ベルナだ」
ハルトは、思わず呟いた。
「やっと、戻ってきたわね」
リュネの声が、ほっとしていた。
ミアが、荷車から身を乗り出して、目を輝かせた。
「あれが、ベルナ? 大きい!」
「そうだよ」
「お父さんのいる村より、ずっと大きい!」
カインが、ミアを抱き上げて、肩に乗せた。
「しっかり掴まってろ」
「うん!」
夕焼けの光が、町を黄金色に染めていた。
遠い門のあたりで、騎士たちの青い旗が揺れている。
穏やかな景色だった。
けれど、ハルトは、さっき群れの長が去っていった、斜面の奥の方角を、一度だけ振り返った。
――別のところへ、移動する合図。
リュネの言葉が、耳に残っていた。
風が、冷たかった。




