第2話 半分こ
丘を下りきったところで、風向きが変わった。
麦の穂が一斉に倒れる。その向こう、街道の先の窪地に、灰色の影がいくつも動いていた。
「……来る」
カインが言った。声は低く、短い。
ハルトは左腕の盾を持ち上げた。
影が、窪地から這い上がってくる。狼に似た魔物だった。ただ、毛並みは泥を塗ったように汚れ、目だけが白く濁っている。数は五。
先頭の一匹が、地を蹴った。
「ハル、前に出すぎるな。受けて、止めろ」
「うん!」
「ユノ、左から二匹目を牽制」
「わかってる」
ユノの短弓が鳴った。
矢は先頭の狼の肩をかすめ、毛を散らした。致命傷にはならない。だが、狼の足が一瞬だけもつれた。
その一瞬に、カインが踏み込んだ。
大剣が、横薙ぎに空を裂く。
重い音がした。狼の胴が、地面に叩きつけられる。
一匹。
だが、残りは止まらなかった。左右に散り、二匹が、ハルトめがけて走ってくる。
ハルトは腰を落とした。
ゴードンに、何度も叩き込まれた型がある。
――受けて、崩して、繋ぐ。
最初の狼が跳んだ。
牙が、盾の縁に食い込む。
衝撃が、腕の骨まで響いた。
足の裏が、地面を滑る。奥歯を噛みしめて、踏みとどまった。重い。だが、重いからこそ、体ごと押し返せる。
「っ、らあっ!」
盾を、ぐいと押し上げた。
狼の体が浮いた。腹が、がら空きになる。
ハルトは右手の剣を突き出した。
浅い。毛皮を割っただけだ。狼は唸り声をあげて、後ろに跳ね退いた。
「くそ……!」
もう一匹が、側面から迫っていた。
(間に合わない)
盾は右にある。
その時、ハルトは、胸の奥で何かを握った。
火の紋。
この世界の人間は、誰でも一つ、身体に紋を宿している。ハルトの紋は、火だった。一番ありふれた、基本の紋だ。
――剣に、火を。
頭の中で、火という理を思い描く。熱、揺らぎ、燃える木の匂い。
剣の刃が、ぼうっと赤く染まった。
迫ってきた狼の鼻先に、その刃を叩きつける。
悲鳴があがった。毛の焦げる臭いが広がる。狼が転がるように逃げていく。
息が、荒かった。
そして、右手の指先に、奇妙な違和感があった。
剣の柄を握っているはずなのに、握っている感触が薄い。
――代償。
理を書き換えれば、必ず何かを支払う。基本紋の火なら、ほんの少し。指先の感覚が、しばらく鈍る程度だ。それはわかっている。
「ハル、後ろ!」
ユノの声に、ハルトは振り向いた。
さっき、弾き飛ばした狼が、再び跳んでいる。
盾を上げようとした。間に合わない。
次の瞬間、地面が、盛り上がった。
土の壁が、ハルトと狼の間に、ざっくりとせり上がる。
狼の体が、壁に激突して止まった。
その上から、大剣が振り下ろされる。
重い音。
土煙が晴れた時、狼はもう動かなかった。
「……助かった、カイン」
「ああ」
カインは大剣を引き抜いて、残りの二匹に目を向けた。
その頬に、細い切り傷が走っている。血が、一筋、流れていた。
「カイン、血が」
「かすっただけだ」
そう言って、カインはもう次の一歩を踏み出していた。
戦いは、それほど長くかからなかった。
最後の一匹が逃げていくのを見送って、ハルトはその場に座り込んだ。
膝が笑っている。盾を持ち上げていた左腕は、感覚が戻ってくるにつれて、痺れるように痛んだ。
「お疲れさま」
ユノが隣にしゃがんだ。
短い杖を、ハルトの左腕にそっと当てる。
淡い風が、腕を撫でた。痛みが、少しずつ薄れていく。
「ユノ姉、ありがとう」
「無理しすぎよ。盾、重いんでしょう」
「重いけど、慣れてきた」
「嘘。腕、震えてる」
「……ちょっとだけ」
ユノは小さく笑って、それから、背負い袋から布の包みを取り出した。
「お昼にしましょう。ここで少し休まないと、ベルナに着く前に倒れちゃうわ」
包みの中には、黒パンが一つだけ入っていた。
朝の騒ぎで荷が減ったせいで、弁当も一つしか持ち出せなかったのだ。
ユノは、パンを両手で持って、半分に割った。
さらに、その半分を、また半分に。
「はい、ハルの分」
「え、でも」
「半分こ、でしょ」
ユノは、にっこりと笑った。
これが、ユノの口癖だった。パンでも、薬でも、重い荷物でも、辛いことでも。ユノは、何でも「半分こ」にする。
三つに割ったパンの、一番大きい欠片を、ユノはハルトに渡した。
次に大きいのを、カインに。
自分の分は、一番小さかった。
カインは、受け取ったパンを少しだけ見つめて、それから、自分の分を二つに割った。
大きいほうを、そっとハルトの手に乗せる。
「俺は、いい」
「カイン、それじゃ――」
「腹は減ってない」
「嘘つき」
ユノが、困ったように眉を下げた。
(橋の時と、同じだ)
パンを見つめながら、ハルトの頭の中に、ある夜のことが浮かんだ。
あれは、ハルトが六つの冬だった。
孤児院の窓を、割った。雪玉を投げて遊んでいて、当たった。それだけのことだった。
院長が激しく怒って、割った者は名乗り出ろ、と言った。
ハルトは、声が出なかった。
その時、一歩前に出たのが、カインだった。
「俺がやりました」
九つのカインは、そう言って、平然と頭を下げた。
罰は、物置での一晩の謹慎と、夕食抜きだった。
冬の物置は、息が白くなるほど寒かった。
ハルトは、夜中に、こっそり部屋を抜け出した。
物置の戸の隙間から、中が見えた。
カインが、膝を抱えて座っていた。
その向こうから、もう一人、小さな影が滑り込んでいく。
ユノだった。
ユノは、隠し持っていたパンを取り出して、半分に割った。
「半分こ」
「……いらない」
「いいから、食べて」
ユノが、無理やり、カインの手にパンを押しつけた。
その時、戸口の方で、足音がした。
ハルトは慌てて、廊下の柱の影に隠れた。
のっそりと入ってきたのは、見回りの守備兵だった。まだ髭の黒いゴードンだった。
ゴードンは、何も言わなかった。
ただ、カインの前に膝をついて、懐から小さな薬の壺を取り出した。
カインの手首は、擦り切れて赤くなっていた。縄で縛られた跡だった。
ゴードンは、黙ってそこに薬を塗った。
手首には、古びた布が巻かれていた。孤児院に来た時から、ずっと身につけているものだと、前に聞いた。端に、小さな刻印がある。
ゴードンの指が、その刻印の上で一瞬だけ止まった。
そして、また何事もなかったように、動き出した。
薬を塗り終えて、ゴードンは立ち上がった。
「……次は、ちゃんと名乗り出ろと言っておけ」
誰に言ったのか、わからなかった。
ゴードンが去ったあと、ハルトは柱の影で、ずっと震えていた。
寒さのせいだったのか、それとも別の何かだったのか。六つのハルトには、わからなかった。
「ハル?」
ユノの声で、顔を上げた。
手の中の、大きいほうのパンの欠片は、まだ温かく感じられた。
カインは、すでに立ち上がって、街道の先を眺めている。
その手首に、古びた布が巻かれているのが見えた。今も、あの頃と同じように。
ふと、頬の傷に目がいった。
さっき、血を流していたはずの傷。
もう、塞がっている。
薄い線のような跡が残っているだけで、血の跡さえ、乾いて消えかけていた。
(そんなに、浅かったのか)
自分に言い聞かせるように、ハルトはパンを口に押し込んだ。
「行くぞ」
カインが、振り返らずに言った。
「日が傾く前に、ベルナに着く」
「うん」
ハルトは立ち上がって、盾を持ち上げた。
指先の感覚は、まだ少し薄い。
丘の向こうに、ベルナの城壁が、小さく見え始めていた。




