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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第2話 半分こ

丘を下りきったところで、風向きが変わった。

麦の穂が一斉に倒れる。その向こう、街道の先の窪地に、灰色の影がいくつも動いていた。

「……来る」

カインが言った。声は低く、短い。

ハルトは左腕の盾を持ち上げた。

影が、窪地から這い上がってくる。狼に似た魔物だった。ただ、毛並みは泥を塗ったように汚れ、目だけが白く濁っている。数は五。

先頭の一匹が、地を蹴った。

「ハル、前に出すぎるな。受けて、止めろ」

「うん!」

「ユノ、左から二匹目を牽制」

「わかってる」

ユノの短弓が鳴った。

矢は先頭の狼の肩をかすめ、毛を散らした。致命傷にはならない。だが、狼の足が一瞬だけもつれた。

その一瞬に、カインが踏み込んだ。

大剣が、横薙ぎに空を裂く。

重い音がした。狼の胴が、地面に叩きつけられる。

一匹。

だが、残りは止まらなかった。左右に散り、二匹が、ハルトめがけて走ってくる。

ハルトは腰を落とした。

ゴードンに、何度も叩き込まれた型がある。

――受けて、崩して、繋ぐ。

最初の狼が跳んだ。

牙が、盾の縁に食い込む。

衝撃が、腕の骨まで響いた。

足の裏が、地面を滑る。奥歯を噛みしめて、踏みとどまった。重い。だが、重いからこそ、体ごと押し返せる。

「っ、らあっ!」

盾を、ぐいと押し上げた。

狼の体が浮いた。腹が、がら空きになる。

ハルトは右手の剣を突き出した。

浅い。毛皮を割っただけだ。狼は唸り声をあげて、後ろに跳ね退いた。

「くそ……!」

もう一匹が、側面から迫っていた。

(間に合わない)

盾は右にある。

その時、ハルトは、胸の奥で何かを握った。

火の紋。

この世界の人間は、誰でも一つ、身体に紋を宿している。ハルトの紋は、火だった。一番ありふれた、基本の紋だ。

――剣に、火を。

頭の中で、火という理(ことわり)を思い描く。熱、揺らぎ、燃える木の匂い。

剣の刃が、ぼうっと赤く染まった。

迫ってきた狼の鼻先に、その刃を叩きつける。

悲鳴があがった。毛の焦げる臭いが広がる。狼が転がるように逃げていく。

息が、荒かった。

そして、右手の指先に、奇妙な違和感があった。

剣の柄を握っているはずなのに、握っている感触が薄い。

――代償。

理を書き換えれば、必ず何かを支払う。基本紋の火なら、ほんの少し。指先の感覚が、しばらく鈍る程度だ。それはわかっている。

「ハル、後ろ!」

ユノの声に、ハルトは振り向いた。

さっき、弾き飛ばした狼が、再び跳んでいる。

盾を上げようとした。間に合わない。

次の瞬間、地面が、盛り上がった。

土の壁が、ハルトと狼の間に、ざっくりとせり上がる。

狼の体が、壁に激突して止まった。

その上から、大剣が振り下ろされる。

重い音。

土煙が晴れた時、狼はもう動かなかった。

「……助かった、カイン」

「ああ」

カインは大剣を引き抜いて、残りの二匹に目を向けた。

その頬に、細い切り傷が走っている。血が、一筋、流れていた。

「カイン、血が」

「かすっただけだ」

そう言って、カインはもう次の一歩を踏み出していた。


戦いは、それほど長くかからなかった。

最後の一匹が逃げていくのを見送って、ハルトはその場に座り込んだ。

膝が笑っている。盾を持ち上げていた左腕は、感覚が戻ってくるにつれて、痺れるように痛んだ。

「お疲れさま」

ユノが隣にしゃがんだ。

短い杖を、ハルトの左腕にそっと当てる。

淡い風が、腕を撫でた。痛みが、少しずつ薄れていく。

「ユノ姉、ありがとう」

「無理しすぎよ。盾、重いんでしょう」

「重いけど、慣れてきた」

「嘘。腕、震えてる」

「……ちょっとだけ」

ユノは小さく笑って、それから、背負い袋から布の包みを取り出した。

「お昼にしましょう。ここで少し休まないと、ベルナに着く前に倒れちゃうわ」

包みの中には、黒パンが一つだけ入っていた。

朝の騒ぎで荷が減ったせいで、弁当も一つしか持ち出せなかったのだ。

ユノは、パンを両手で持って、半分に割った。

さらに、その半分を、また半分に。

「はい、ハルの分」

「え、でも」

「半分こ、でしょ」

ユノは、にっこりと笑った。

これが、ユノの口癖だった。パンでも、薬でも、重い荷物でも、辛いことでも。ユノは、何でも「半分こ」にする。

三つに割ったパンの、一番大きい欠片を、ユノはハルトに渡した。

次に大きいのを、カインに。

自分の分は、一番小さかった。

カインは、受け取ったパンを少しだけ見つめて、それから、自分の分を二つに割った。

大きいほうを、そっとハルトの手に乗せる。

「俺は、いい」

「カイン、それじゃ――」

「腹は減ってない」

「嘘つき」

ユノが、困ったように眉を下げた。

(橋の時と、同じだ)

パンを見つめながら、ハルトの頭の中に、ある夜のことが浮かんだ。


あれは、ハルトが六つの冬だった。

孤児院の窓を、割った。雪玉を投げて遊んでいて、当たった。それだけのことだった。

院長が激しく怒って、割った者は名乗り出ろ、と言った。

ハルトは、声が出なかった。

その時、一歩前に出たのが、カインだった。

「俺がやりました」

九つのカインは、そう言って、平然と頭を下げた。

罰は、物置での一晩の謹慎と、夕食抜きだった。

冬の物置は、息が白くなるほど寒かった。

ハルトは、夜中に、こっそり部屋を抜け出した。

物置の戸の隙間から、中が見えた。

カインが、膝を抱えて座っていた。

その向こうから、もう一人、小さな影が滑り込んでいく。

ユノだった。

ユノは、隠し持っていたパンを取り出して、半分に割った。

「半分こ」

「……いらない」

「いいから、食べて」

ユノが、無理やり、カインの手にパンを押しつけた。

その時、戸口の方で、足音がした。

ハルトは慌てて、廊下の柱の影に隠れた。

のっそりと入ってきたのは、見回りの守備兵だった。まだ髭の黒いゴードンだった。

ゴードンは、何も言わなかった。

ただ、カインの前に膝をついて、懐から小さな薬の壺を取り出した。

カインの手首は、擦り切れて赤くなっていた。縄で縛られた跡だった。

ゴードンは、黙ってそこに薬を塗った。

手首には、古びた布が巻かれていた。孤児院に来た時から、ずっと身につけているものだと、前に聞いた。端に、小さな刻印がある。

ゴードンの指が、その刻印の上で一瞬だけ止まった。

そして、また何事もなかったように、動き出した。

薬を塗り終えて、ゴードンは立ち上がった。

「……次は、ちゃんと名乗り出ろと言っておけ」

誰に言ったのか、わからなかった。

ゴードンが去ったあと、ハルトは柱の影で、ずっと震えていた。

寒さのせいだったのか、それとも別の何かだったのか。六つのハルトには、わからなかった。


「ハル?」

ユノの声で、顔を上げた。

手の中の、大きいほうのパンの欠片は、まだ温かく感じられた。

カインは、すでに立ち上がって、街道の先を眺めている。

その手首に、古びた布が巻かれているのが見えた。今も、あの頃と同じように。

ふと、頬の傷に目がいった。

さっき、血を流していたはずの傷。

もう、塞がっている。

薄い線のような跡が残っているだけで、血の跡さえ、乾いて消えかけていた。

(そんなに、浅かったのか)

自分に言い聞かせるように、ハルトはパンを口に押し込んだ。

「行くぞ」

カインが、振り返らずに言った。

「日が傾く前に、ベルナに着く」

「うん」

ハルトは立ち上がって、盾を持ち上げた。

指先の感覚は、まだ少し薄い。

丘の向こうに、ベルナの城壁が、小さく見え始めていた。

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