第1話 重い盾
夜明け前のソーヌ村は、まだ眠っていた。
ハルトは門の脇で、背負子の紐を三度目に締め直した。
木箱が二つ。中身は村の守備隊が作った薬液の瓶と、干した薬草の束だ。ベルナの商人組合に届けるのが、今回の依頼だった。
十五になって初めて、村の外で受ける仕事。
(落とすなよ、俺)
「ハル、紐はもう大丈夫だって。さっきから同じところ触ってる」
後ろから、笑いを含んだ声がした。
カインだった。
灰色の外套に、背丈ほどもある大剣を背負っている。ハルトより頭ひとつ高い。朝の薄明かりの中でも、銀灰色の髪がよく目立った。
「触ってないと、落ち着かないんだよ」
「落とすと思ってるのか」
「……思ってない」
「顔は思ってる顔だな」
カインは楽しそうに言って、ハルトの背中の木箱を軽く叩いた。音は鈍く、中の瓶が揺れる気配はない。きちんと詰めてある。
「大丈夫だ。俺がついてる」
その一言で、肩の力が少しだけ抜けた。
昔からそうだった。カインがそう言うと、本当に大丈夫な気がした。
「揃ってるな」
低い声が響いて、ゴードンが門の方からのっそりと歩いてきた。
村の守備隊長。大柄で、髭に白いものが混じっている。孤児院で育った三人に、棒の振り方を教えたのも、この人だった。
その後ろを、小さな影がちょこちょこと追いかけてくる。
「ミア、寝てなさいって言っただろう」
「おきたの。カインにいってらっしゃいって、いうの」
ゴードンの娘のミアだった。寝ぐせのついた髪のまま、まっすぐカインの前に走っていく。
「カイン、いってらっしゃい」
「ああ。ちゃんと、お土産を買ってくる」
「ほんと?」
「約束だ」
カインがしゃがんで、ミアの頭をくしゃりと撫でた。ミアは目を細めて、猫みたいに笑った。
ハルトにも、同じことをされた覚えがある。もっとずっと小さい頃に。
「ハルトにはないのか」
ゴードンが言った。
「……え?」
「見送りの言葉は、俺からだ」
そう言って、ゴードンは背中に回していた手を前に出した。
丸い盾だった。
木の芯に鉄の縁を打ち付けた、古い盾。表面は傷だらけで、塗りは剥げ、持ち手の革は黒く擦り切れている。
「これを持っていけ」
「でも、隊長の……」
「古いのだ。もう新しいのがある」
ゴードンは、盾をハルトの左腕に通した。
ずしりと重い。
思わず腕が下がった。背負子の木箱と合わせると、肩に食い込むほどだった。
「重いな」
「重いに決まってる。盾だぞ」
ゴードンは真顔で言って、それから少しだけ口元をゆるめた。
「だが、重いほうが頼りになる。覚えておけ」
意味はよくわからなかった。それでも、ハルトは頷いた。
「……ありがとう、ございます」
「ユノはどうした」
「ここにいるわ」
門の影から、ユノが姿を見せた。
栗色の髪を三つ編みにして、首には小さな布の飾りを巻いている。腰には短い杖と、短弓。いつも通りの、落ち着いた顔だった。
「ごめんなさい、荷物の確認をしてたの。……ハル、その盾、似合ってるわよ」
「重いだけだよ」
「そのうち慣れるわ」
三人が揃ったのを見て、ゴードンは腕を組んだ。
「ベルナまでは歩いて半日。街道を外れるな。暗くなる前に着け。町には魔物の噂がある、油断はするな」
「はい」
「カイン。お前が一番年上だ。頼んだぞ」
「わかってます」
「ハルト」
「は、はい」
「ちゃんと帰ってこい」
それだけ言って、ゴードンは背を向けた。
ミアが何度も手を振っている。ハルトも、盾を持たない右手を振り返した。
こうして、旅が始まった。
村はずれの木橋は、街道への最初の関門だった。
幅は荷車がやっと通れるほど。下には浅い川が流れていて、夜露を含んだ板は少しぬめっている。
先頭はカイン、真ん中がハルト、最後尾がユノ。
「滑るから、足元に気をつけろ」
「うん」
返事はした。していたはずだった。
橋の中ほどで、左腕の盾が、ぐん、と下に引かれた。
重さに腕が負けたのだと気づいた時には、体が傾いていた。
踏みとどまろうとして足を踏み替える。濡れた板が、靴の底でするりと逃げた。
背中で、嫌な音がした。
木箱が背負子から滑り落ち、橋の板に叩きつけられた。
乾いた、割れる音。
箱の隙間から、薬液がじわりと染み出した。薬草の青い匂いが、朝の空気に広がっていく。
「あ……」
ハルトは動けなかった。
(どうしよう。俺の、せいだ)
瓶が、割れた。守備隊が作った薬液だ。村の人たちが、何日もかけて作ったもの。
初めての依頼で。村を出て、まだ十分も歩いていないのに。
「ごめん、ごめんなさい、俺が――」
「俺がやった」
声は、静かだった。
カインが、ハルトと割れた木箱の間に立っていた。
「橋の板が緩んでいたのに、気づかなかった。俺の確認不足だ」
「違う、カイン、俺が盾の重さで――」
「ハル」
名前を呼ばれた。
それだけで、言葉が喉の奥で止まった。
カインの目は、怒っていなかった。ただ、まっすぐこちらを見ていた。
その時、橋の向こうから足音が近づいてきた。
ゴードンだった。見送りがてら、ここまで歩いてきたのだ。その後ろで、ミアが父の外套の裾を握っている。
ゴードンは、割れた木箱と、染み出した薬液を見た。
次に、カインの顔を見た。
最後に、ハルトの左腕の盾を見た。
何も言わなかった。
髭に隠れた口元が、ほんのわずかに動いたように見えた。
「……薬代は、帰ってから精算だ」
ゴードンは、それだけ言った。
「割れていない瓶は、拾って持っていけ。向こうには事情を説明すればいい」
「はい」
カインが短く答える。
ハルトは何か言おうとして、結局、何も言えなかった。
橋の向こうで、ミアが心配そうにこちらを見上げていた。
割れていない瓶は、八本のうち五本だった。
ユノが黙って濡れた布で瓶を拭き、藁を詰め直してくれた。彼女は何も訊かなかった。ただ、一度だけ、カインの横顔をじっと見ていた。
街道に出たのは、日が昇りきってからだった。
麦畑が、風に揺れている。道はまっすぐ丘の向こうへ伸びていた。
ハルトは、前を歩くカインの背中を見ながら、どうしても聞かずにいられなかった。
「……なんで、あんなこと言ったんだよ」
「あんなこと?」
「俺がやったって。違うだろ。悪いのは俺なのに」
カインは、前を向いたまま答えた。
「橋の確認を怠ったのは、事実だ」
「そんなの、嘘だ」
「嘘じゃない。先に渡ったのは俺だ。板の具合を見ておくべきだった」
「でも――」
「気にするな」
カインが、ようやく振り返った。
いつもの穏やかな顔だった。
「慣れてる」
ハルトは、その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
慣れてる。
(何に、慣れてるんだよ)
孤児院にいた頃のことが、ふと頭をよぎった。ハルトが壊した窓。ハルトがこぼした粥。ハルトが逃がした鶏。
罰を受けたのは、いつも誰だっただろう。
聞こうとして、聞けなかった。
カインはもう前を向いて、歩き出していた。
「ほら、急ぐぞ。日が暮れる前に着きたい」
ハルトは、重い盾を持ち直して、その背中を追った。
丘を、ひとつ越えた。
その時だった。
「止まれ」
カインの声が、急に低くなった。
右手が、背中の大剣の柄にかかっている。
街道の脇、麦畑の端に、何かが倒れていた。
黒ずんだ毛の塊。人の背丈ほどもある。
近づくと、ようやくそれが獣だとわかった。
岩のような牙を持つ、猪に似た魔物。頭が潰れ、周囲の草が焼け焦げたように黒く変色している。
「……岩牙猪」
ユノが、息をのんで呟いた。
「山の奥にいる魔物のはずよ。こんな麦畑の近くまで、降りてくるなんて」
「死んでるのか」
ハルトの問いに、カインは答えなかった。
死骸をしばらく見下ろして、それから、ゆっくりとベルナの方角へ顔を向けた。
丘の向こうの空が、うっすらと、濁っているように見えた。
「ゴードンさんの言っていた噂は、本当らしいな」
カインは、静かに言った。
「ハル。盾を、構える準備をしておけ」
ハルトは、左腕の盾を見た。
重くて、傷だらけで、まだ自分の腕に馴染まない、古い盾。
その重さを、初めて、ありがたいと思った。




